朝ドラwatching
夜ドラwatching【オマケ】
月ドラwatching【オマケ】
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■2006年 4月3日
朝ドラwatchを掲載しました。
■2006年 4月2日
新古書店研究を掲載しました。
■2006年 4月2日
Laboページを制作しました。
共同研究の申し入れ、単行本化のリクエストは常時歓迎いたしますので、public@fbook.com宛にご連絡ください。あるいは、TOPページに掲載しました連絡先宛にご連絡いただくのでも結構です。
グランマの役を森光子が演じ、高校の英語教師役が西城秀樹だったら、こりゃ完全に「寺内貫太郎一家」だよな、なんて感想はさておき、この「さくら」、最後の一ヶ月分ぐらいを除けばAランクのおもしろさだったのですが、最後のダレ場のせいでBマイナスですね。それほど途中までは抜群におもしろかったし、終盤がひどかったわけです。
小林亜星と中村メイ子の夫婦役、野口五郎の英語教師役、浅田美代子の母親役、いずれもいい味が出ていました。ただ、こういう顔ぶれだと、NHKの朝ドラというよりも、TBSの夜ドラって感じです。どうせだったら、野口五郎演ずる英語教師の別れた妻役には天地真理を出せばよかったのにね(笑)。
この「さくら」は舞台で続編が演じられましたね。桂木先生がさくらにようやくプロポーズをするというお話です。配役はほとんどおなじでしたが、母親役は浅田美代子のかわりに麻丘めぐみでした。このあたり、昭和40年代アイドルが母親役で続々登場です。やはりぜひとも天地真理、そして夏木マリやあべ静江にも登場願いたいものです(笑)。
いまにして思うと、このドラマ、ストーリーらしいストーリーがありませんよね。日系三世の女の子が日本に来て、フィアンセと別れて、で、あたらしい恋人ができて、それでおしまい。新任教師と生徒との関係だって、こういうパターンなら昭和40年代の青春ドラマとか、武田鉄矢の金八先生シリーズで濃厚に描かれてしまっているので、15分きざみという朝ドラではどうしても中途半端にならざるをえない。だから結局、このドラマは役者のキャラクターでしか楽しめない。
そういう見方をすると、このドラマの中心は誰がなんと言おうと野口五郎です(笑)。これだけの天然ボケぶりなら、たとえば大竹しのぶのような出演者がいても十分に対抗できる。ただまあ、ヒロイン以外の役者で受けてしまうと、やっぱり長いストーリーはもちません。ヒロインが存在感を発揮できるだけのエピソードが必要でしたね、このドラマには。それを考えれば、終盤の「息切れ」はやむなしといったところなのでしょう。
記憶によれば、初めて見た朝ドラは「おはなはん」である。当時6〜7歳、小学校一年生であった。学校があったので毎日見ていたわけではないが、主題歌のメロディははっきりと覚えていたし、いくつかの場面も断片的ではあるが記憶していた。
その後、どことなく記憶に残った朝ドラは、「信子とおばあちゃん」「藍より青く」であった。また、ドラマの内容ではなくて世間の話題で覚えているのが「鳩子の海」と「雲のじゅたん」の二つである。「鳩子の海」は子役と娘役とのイメージが違うと騒がれた。このドラマ自体に興味がなかったので、そんなことはどうでもいいと思ったものだが。「雲のじゅうたん」は浅茅陽子のあっけらかんさが話題だった。クランクアウトのとき、泣かないどころか大喜びで万歳をしたヒロイン役は、浅茅陽子だけだったそうだ。
学生時代は夜型の生活、サラリーマン時代は朝寝・深夜帰宅の日々、それからフランスに渡航と、しばらくは朝ドラどころではない日々が続いた。そして1999年夏に帰国し、自宅で仕事をするフリー時代になると、朝ドラを見ることが生活リズムをつくってくれるようになった。この年、10月から「あすか」が始まったわけだが、なにげなく見たこのドラマがじつにおもしろく、結局これが「朝ドラwatching」に至る大きなキッカケとなった。以来、朝ドラがおもしろいと思うときは朝型生活、そうでないときは夜型生活となるほど、日々の生活パターンに影響が及ぶようになってしまったのである(笑)。
かつてはTBSも朝ドラを放映していた。ポーラ化粧品がスポンサーの「ポーラ テレビ小説」というシリーズ名だったと思う。加藤治子の「三人の母」とか中田喜子の「やっちゃば育ち」なんかは、かなり人気があったように記憶している。我が家では「加奈子」を欠かさず見ていた。主演・遥くららが姉の中学時代の同窓生で、家が近かったために、毎日姉と一緒に通学していたという縁があったからだ。
朝はNHK、昼はTBSと、テレビ小説をダブルで見る主婦は少なくなかったように思う。しかし、NHKで「おしん」が大ヒットしたあおりを受けたり、ポーラがスポンサーを降りるなどの結果、こちらは1986年9月で打ち止めになってしまった。このあたりには番組の内容とかライバル番組の影響とかだけの問題ではなく、テレビの視聴という慣習行動そのものの変化がもたらした結果だと思うのだが、いずれキチンと整理してみたいものである。