監視テクノロジーと警察の関与
―監視社会がもたらすアンバランス―

世界(岩波書店/発行)2005年3月号p.152掲載
江下雅之

市民生活の安全は、警察だけでは守れない。地域コミュニティ単位で防犯・防災の仕組みを運営するなど、生活者および共同体の主体的な行動が欠かせない。ところが、監視カメラをはじめとした「監視テクノロジー」という新しい公共事業の広がりのなかで、警察が関与する比重が重すぎる現状があるのではないか。

 市民生活を守るのは警察だけの仕事ではない。安全な社会をきずき、それを維持するには、個人レベルでさまざまな自衛手段を講じ、地域コミュニティ単位で防犯・防災の仕組みを運営するなど、生活者およびその共同体の主体的な行動が不可欠だ。ところが現実には、警察の関与が生活空間のさまざまな面に浸透しつつある。警察の役割を否定するつもりは毛頭ないが、現在の状況は、社会運営に占める警察の比重がアンバランスなまでに重くなっているのではなかろうか。
 安全な環境を守るための対策には、基本的に手間と時間がかかるものである。だからこそ、多忙な現代人はテクノロジーや外部サービスの導入に頼ってしまう。たとえば小学生の我が子の安全を守りたいのなら、親が通学につきそうという方法もあるはずだが、六年間も毎日子どもにつきそえる親がどれほどいることか。だから我々はGPSやICチップを搭載した端末を子どもに持たせたり、学校に監視カメラを設置するようはたらきかけてしまうのである。現在の我々の生活は、安全の維持を外部に委託することで自分たちの生活の快適性や利便性を獲得している側面があるのだ。そして安全は誰もが望むものである以上、監視システムの構築は公共事業という性格を持つことになる。
 安全を守る仕組みを実現するには専門的なノウハウが不可欠である。監視カメラを設置するにしても、どこに何台設置し、誰がどれだけモニタリングするか、記録をどのように残すかなどのマニュアルが不可欠だ。それを熟知しているのが警察であることは間違いない。実際、商店街が監視カメラを設置する際には警察が「助言」をあたえる例が多い。また、治安対策のために警察OBがさまざまな企業に受け入れられているのも事実である。現実問題として、監視カメラがとらえた不審人物への対処となると、警察に解決をゆだねないわけにはいかない。民間の警備サービス業者であっても、最終的には警察との連携がはかられるものだ。結局のところ、安全を維持するためには個人レベルから地域レベルまでの主体的な対応が柱ではあっても、治安の専門家集団たる警察の支援を抜きにしたシステムは実効性が乏しいといわざるをえない。
 二一世紀にはいり、監視に応用可能なテクノロジーはあらたな段階に入った。それを具体的に支えているのは、ブロードバンドのインターネットやGPSなどの地球規模の情報インフラ、端末が小型化した携帯電話、本格的な普及段階に突入したマイクロチップ、低価格化が一気に進んだCCDカメラなどである。そうしたシステムを誰もが利用できるのである。そしてテクノロジーの恩恵に浴せるのは「守る側」だけではない。子どもの安全を守るGPS端末は、ストーカーが標的を追跡するための道具ともなる。テクノロジーを誰もが容易に利用できるからこそ、それに対する防御もまた治安のノウハウを持った者の関与が必要なのだ。かくして警察への依存度はますます高まることになる。
 一部の人々が需要をうったえ、行政がそれに呼応し、業界がその流れに加担する――高速道路や整備新幹線の建設で見られた構図が、じつは監視システムにおいてもそのままあてはまるのである。交通手段の必要性を真っ向から否定するのが困難であるのと同様に、安全を守るという正論に異議をとなえるのはむずかしい。現代社会では、凶悪犯罪に対する不安の連鎖が監視システムの構築という公共事業を正当化している。そしてテクノロジーの発展により、監視システムにもバージョンアップが必要になる。テロリストや犯罪組織が暗号化された電子メールを連絡手段に用いるようになったいま、通信傍受は電話だけでは足りず、インターネットのメール傍受と暗号解読が不可欠となる。そのためには、傍受装置や解読のソフトウェアなど、あたらしい投資が求められる。テクノロジーの「盾」と「矛」が競い合うかたちで、監視システムというあたらしい公共事業は、すでに雪だるま式に巨大化しようとしているのだ。
 しかし、警察が主張するほど治安は悪化しているのか。たしかに『警察白書』や『犯罪白書』を見れば、刑法犯の認知件数が過去数年間で激増していることは一目瞭然だ。しかし、認知件数の増加がイコール治安の悪化ではない。事実、警察が公表している統計をふまえたうえで、日本の治安は決して悪化しているのではない、と分析する専門家も少なくないのだ。治安が悪化しているとの印象は、メディアによって増幅されている側面が濃厚なのではないか。特定の凶悪事件が繰り返し報道されることによって、犯罪に対する危機意識は現実の蓋然性に関係なく高まる。我々は、めったに起きないことへの危機感を募らせるという矛盾した感情に駆り立てられ、安全を守ろうとするのだ。しかし、これは感情レベルの問題であるだけに、客観的なデータを並べられて「心配しすぎだ」と指摘されても容易には納得できないのである。
 警察が利権目当てで不安を煽っているとはいわない。しかし、現在の監視システムの進展が、その不安に乗じているのは否定しようがない事実なのだ。そもそも社会というものは、多かれ少なかれ「無邪気さ」がなければ運営できない。ほんの十年前に地下鉄サリン事件が発生したにもかかわらず、通勤者はガスマスクを常時携帯しているわけではない。過剰な警戒は社会不安を増し、警戒の網を広げることで、無数の罪なき容疑者を大量生産してしまうだろう。どこかで客観的な状況をみつめなおし、不安の連鎖にストップをかける必要があるのだ。 (おわり)


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世界

月刊誌、岩波書店/発行<
「世界」の仕事を初めて受けたのは、2004年7月号の「〈対談〉監視社会をいかに生き抜くか」(p.179-)である。このときは田島泰彦・上智大学教授との対談であった。

「世界」2005年3月号 no.737
特集 警察はどうなってしまったのか
岩波書店
2005年7月、780円
拙稿はp.152に掲載されています。

メモ

「世界」の仕事を初めて受けたのは、2004年7月号の「〈対談〉監視社会をいかに生き抜くか」(p.179-)である。このときは田島泰彦・上智大学教授との対談であった。こうしたテーマの依頼が来たのは、講談社+α新書『監視カメラ社会』や、講談社「月刊現代」2004年7月号の原稿がそれなりの注目を集めたためらしい。

監視カメラ社会
―もうプライバシーは存在しない―
江下雅之/著
講談社+α新書
2004年2月、882円
2004年上期に16件の書評が掲載されるなど、多方面で注目されています。

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