「お宝コミック」市場とコレクター気質

別冊宝島494 お宝コミック・ランキング(宝島社/発行)
2000年3月25日発行 pp.92-96掲載
江下雅之

趣味の世界は門外漢から見れば、なにもかもが不条理である。マンガ古書の世界とて例外ではない。無関心の人が見れば、蒐集家はひたすら金と時間を浪費しているだけだ。しかし、蒐集家には蒐集家の「条理」があり、その「条理」に従って市場は変化している。

『新宝島』が出発点

 マンガ古書にも一〇〇万円以上の値が付く稀覯本がいくつもあることは、すでにマニアにとっては常識だ。しかし、そういう状況になったのは、けっして昔のことではない。
 マンガ古書に初めて稀覯本としての評価を与えたのは、神田神保町の中野書店だというのが定説になっている。昭和五〇年代の初め、中野書店の先代社長・中野実氏が手塚治虫の『新宝島』(育英出版)の初版・美本[※1]に二〇万円の値を付けたのが、お宝コミックの出発点だ。正確な時期については、中野氏もはっきりとは記憶していないそうだが[※2]、二〇万円という価格は、出版の世界における手塚治虫の存在を三島由紀夫と同等とみなした結果だという。
 この『新宝島』という作品は、四〇万部(海賊版も含めれば百万部以上という説もある)という、現在の水準で考えても大ベストセラーとなった。マンガ表現のうえでも、エポックメイキングな作品という評価が定着しており、マンガを語る上で大きな価値が認められ作品である。手塚治虫には膨大な数のファンがいて、彼らはほしい本をお互いに交換したり、内部で譲り合ったりした。当然、ファンの間で高値の付いたものがあり、その代表格が『新宝島』の初版本だったのである。
 漫画家の松本零士氏はマンガ古書の蒐集家としても知られるが、中野書店が扱う以前より、いろいろなマンガ古書を古書店から高値で買い集めていたという。一部のファンや蒐集家のこうした動きがあったからこそ、中野氏も『新宝島』に稀覯本としての評価を下せたわけだ。
 いずれにしても、『新宝島』を契機にして、マンガのなかでも手塚治虫の古書だけは別格、という雰囲気が古書業界に広まったのである。


[※1]この時点で初版と考えられていたのは昭和22年4月再版のものであると思われる。
[※2]昭和51年6月の新宿小田急デパート展古書即売会でのことらしい。

『最後の世界大戦』の果たした役割

 昭和五七年に、古川益三氏が「憂都離夜」というマンガ専門古書店の経営を引き継ぎ、東京中野に「まんだらけ」をオープンした。そしてこの年、古川氏は神田の市場で足塚不二雄(藤子不二雄)の『最後の世界大戦』を発見し、五〇万円という値を付けて古書業界を驚かせた。当時の『新宝島』初版本の倍以上の値が付けられたこの「事件」は、一般紙でも報道された。
 もちろん、単に高値が付けられただけではない。この『最後の世界大戦』は、その後も五〇万円、一〇〇万円、二〇〇万円と、状態のいいものが出るたびに値を上げ、マニアに買われていったのである。 『新宝島』の方は大ベストセラーとなった単行本だったが、『最後の世界大戦』は一度も古書市場に登場したことがなく、マニアの間では長らく「幻」の存在だった。作者の藤子不二雄両氏、松本零士の三名が持っていることが知られていたにすぎず、確認可能な現存数が、わずかに三冊という状況だったのだ。
 当時、流通可能な『最後の世界大戦』を見つけだすことには、一種の「お宝探し」のような雰囲気があったといわれる。そして実際に市場に出て、マンガ古書の最高値を一気に更新したことで、「手塚だけは別格」という古書市場の常識を覆し、マンガ古書そのものが稀覯本としての評価の対象になりうることを示した。『新宝島』がお宝コミックの出発点なら、『最後の世界大戦』は決定打ともいえる存在なのだ。
 それに平行して、白土三平や水木しげるなど、もともとは紙芝居や貸本誌で活動していた作家の初期単行本が評価され、マンガ古書市場は確実に拡大していった。貸本作家は月刊誌で活躍していた作家よりも格下と見なされていたので、白土や水木が昭和四〇年代に人気がブレークしたころには、貸本向け単行本として刊行された初期作品のほとんどは、すでに廃棄されていたり、あってもボロボロの状況だった。そのために、良好な状態を保ったものは希少価値が大きかったのである。

「懐かしのマンガ」ブームと新書判バブル

 昭和三〇年前後生まれの「マンガ世代」が三〇代に入り始めた昭和六〇年ごろには、自分たちが子ども時代に読んだマンガを読み返そうとして、「懐かしのマンガ(懐漫)」ブームが起きた。この世代の子ども時代である昭和三〇年代末から四〇年代始めにかけては、「第二次まんがブーム」の時期といわれる。この間にマンガ雑誌の主役が月刊誌から週刊誌に移り、大手出版社からも自社ブランドの新書判コミックが刊行されるようになった。
 いまでこそ「マンガ誌に連載後、その版元から新書判コミックで刊行」というパターンが定着しているが、新書判コミックの登場は昭和四一年のことである。大手では小学館が最初に自社ブランドの新書判コミックを始めた。奥付に従えば、昭和四一年五月にゴールデン・コミックス(GC)の第一号『カムイ外伝(1巻)』(白土三平)が刊行されている。最大手の講談社からは『ハリスの旋風(1巻)』(ちばてつや)が講談社コミックス(KC)の第一号(昭和四二年五月)となった。
 しかし、当時は編集者も漫画家も、漫画は雑誌で稼ぐものという認識が強く、雑誌媒体を持つ版元も単行本化への関心は相対的に薄かったようだ。講談社や小学館が自社ブランドのコミックを出すようになってからも、少年マガジンや少年サンデーなどの人気連載作品の多くは、虫プロ商事の虫コミックス、朝日ソノラマのサンコミックス、秋田書店のサンデーコミックス、若木書房のコミック・メイトなどから刊行された。
 当然ながら、懐漫を読もうと思ったら、虫コミックスなどを買い求めるしかない。ところが当時は刊行部数自体が今に比べて少ないうえに、虫プロ商事や若木書房はとっくに倒産してしまっていた。秋田書店は根気よく増刷し続ける作品が多いものの、それでも絶版扱いのものは少なくない。結果、古い新書判コミックの値がどんどん上がる現象が発生したのである。相場のあまりの上昇ぶりを、「新書判バブル」と指摘する業界関係者も少なくない。

新書判のなかでの流行の変遷

 ここ一年ほどは、「懐漫」ブームの先陣を切っていた層が、ほしいものをほぼ入手しつくしたほか、文庫判ブームや完全復刻版の登場で、一時期の熱は下がったという。一峰大二の『電人アロー』サンコミ版のように、かつては新書判の最高値クラスに位置していたものが、復刻版の登場によって、一気に相場を下げた例もある。「極美」とか「帯付き」など古書としての付加価値が高くなければ、虫コミ・サンコミといえども値を下げているようだ。
 もちろん、高値を維持し続ける作家の作品もある。新書判でも藤子不二雄や水木しげるは人気は最初から高かったが、ここ数年で最も値を上げたのは永井豪の本だ。とくに九八年は、空前の永井本ブームともいえる状況が発生した。
 その理由をいろいろと調べてみるに、まず第一に、現在のマンガに与えた影響度のわりに、永井豪の初期作品に対する市場の評価はずっと低かったといわれる。一気に値があがりはしたが、上昇後の水準が本来の評価だというわけだ。第二に、永井豪のコアなファンは、懐漫ブームをもたらした世代よりも若い層なので、加熱の頂点にタイムラグがあったとする見方がある。前者にとってはトキワ荘グループや白土・水木らが人気作家だったのに対し、その下の世代にとっては、永井豪こそがトップ作家だったのだ。
 実際には、こうした要因が重なり合った結果、ブームという現象に至ったのだろう。九九年の後半には、さすがに永井本といえども相場は一服したが、新書判コミックスのなかで一種のブランド作家としての地位を保っている。このあたりは、単純にバブルだから値が上がったのではなく、評価されるべきものが評価されたことを示している。
 古いマンガの購買層も、二〇代の若いファンに広がった。昭和四〇年前後に人気のあった巴里夫などは、親子二代のファンが少なくない。マンガの中でもB級扱いだったかつての貸本マンガやエロ劇画などを、若いファンが再評価するケースも増えている。

高値の必然性と高値の一人歩き

 新書判コミックの相場上昇を、「評価されるべきものが評価されたただけ」と主張する業界関係者も少なくない。しかし、マニアが一度手に入れた絶版コミックスを手放さないため、流通量が極端に少なくなっていることは、多くの関係者も認めるところだ。絶対量はそれなりにあっても、流通量が少ないがために値が急上昇するという現象がバブルの方程式である以上、現在の新書判コミックスの相場は、バブルと判断すべきだ。
 では、このバブルは誰が演出したものなのか。業界側は、高値でも買う人がいるから値があがると主張するし、マニア側は店が値を上げるから否応なく高値で買わざるをえないのだと嘆く。つまるところ、業界とマニアとの一種の共犯関係によって、バブル現象は発生しているのだ。
 この共犯関係は、マンガを主力商品として扱う古書店の増加、マンガ古書の購買層の拡大によって、いっそう深まったと考えざるをえない。蒐集熱が深まると、相場の決定要因はどんどん複雑になる。なおかつ新書判は印刷部数が基本的に多いため、単に「ある」というだけでは評価されない(むろん、存在自体がレアなものも少なくないが)。付加価値が重要なのだが、何にどういう付加価値があるのかを把握するには、付け焼き刃の知識だけではいかんともしがない。にもかかわらず、店・客の裾野が広がったことで、高値だけが一人歩きする状況も広がってしまったのだ。
 たとえば水木しげるの『猫又』(サンコミックス)は、3万円の値が付くことがある。しかしそれは、状態がいわゆる「極美」で帯付きの場合の評価なのだ。サンコミックスは帯の有無で評価額が大きく異なり、なかでも『猫又』は「本が五千円、帯が二万五千円」とまで言われるほど帯に希少価値が認められている。しかし、そういう事情を知らない人は、「『猫又』は高い」という結論部分だけを記憶してしまうのだ。
 特定の巻だけ製本が悪くて割れやすい、というケースもある。そうなれば、全巻を美本で揃えること自体に大きな付加価値が生じることになる。しかし、そういう事情を知らない店・客は、そのシリーズ自体が「高いもの」と思いこんでしまうだろう。

蒐集家気質で決まる市場原理

 流通量が少ないのにほしい人が多ければ、それだけ値もあがる。なおかつ絶版本ともなれば、現時点で流通している量が減ることこそあれ増えることなどない。だからこそ、古書の世界では「迷ったときは買う」のが鉄則だ。「〈次〉とオバケは出たためしがない」という格言もある。
 しかし、こと新書判の絶版コミックに関しては、最近、多くの業界関係者は、「待った方が賢明」と指摘する。相場が過熱しすぎると、マニアから見放されてしまうかもしれないと憂慮する意見もある。
 もともと蒐集の世界というのは、なにをもって適正価格とするかの判断がむずかしい。関心のない人から見れば、どのような値であろうと「法外」と映るだろう。付加価値云々と言ったところで、「帯付き」や「初版」に価値を見いだす人がいてこそ意味をなすものだ。
 そうは言っても、蒐集する人たちの間で、ある程度の合意が存在するからこそ、相場が形成されるのである。古書である以上は、「オリジナルの状態に近ければ近いほど価値がある」という一般原則も適用されるだろう。蒐集の動機づけの共通性といった要因もあるだろう。であるなら、お宝コミック市場のメカニズムというのは、蒐集家の気質から語るべきことであるはずだ。

蒐集する人のパターン

 どういう人がどういう「ほしがり方」をするのか。もっともわかりやすい動機は、ある作家のファンが、その作家の全作品を読みたくなるという動機だ。何十年ものあいだ、一人の作家を追い続けたという筋金入りのファンのなかには、デビュー単行本から作品掲載誌、付録マンガをはじめ、キャラクター商品、原画、色紙など、おおよそその作家に関するものならすべて収集しようとするハードなコレクターもいる。とりわけ手塚治虫、藤子不二雄、水木しげるに関しては、そういう猛者が多い。
 特定の作家ではなく特定ジャンルのファンとなり、そのジャンルのめぼしい作品を網羅したくなる人もいる。怪奇、官能、SFなどは、そういうファンが多いジャンルの代表といっていい。
 特定シリーズの全巻を揃えようとする蒐集家である。彼らはえてして狙ったシリーズのリストをつくり、未ゲットの本を購入すると、その項目に赤ペンで印を付ける。印を付けるときの快感が、蒐集の最大の目的なのだ。こういうパターンは、マンガのファンから見れば「邪道」だろうが、蒐集の世界から見れば「正当派」なのだ。コレクションとは、集めることにこそ醍醐味があるからである。
 新書判コミックの場合、虫コミックスはこういう趣味の標的になりやすい。収録作品が粒ぞろいなうえに、全一八八巻という数が、すべてを揃えるのに手頃な数だというのが大きな理由なのだろう。そのほかには、朝日ソノラマのサンコミックス、サンワイドコミックス、少年画報社のキングコミックスなどが、シリーズを枠組みにした蒐集家(「キンコミ・コレクター」など)の多い対象である。
 最後に、独自のテーマを掲げた蒐集パターンを挙げておく。もちろん、「特定の作家」「特定のジャンル」というのも、独自テーマの一種である。しかし、ここで挙げておきたいテーマとは、たとえば「メジャー作家のデビュー単行本」とか「有害指定されたコミック」「ペンネームを替えた作家の変更前の本」など、蒐集側が自分で独自の枠組みを決めたものである。
 こういう蒐集の仕方は、集める側に明確な意志がないと成り立たない。ある程度漠然と蒐集を始めたのち、なんらかの目標を決めるという形で定まるパターンが多いようだ。その点、こういう蒐集家は、ある程度以上のベテランと見ていい。

古書の「格」と蒐集家の完全主義

「読めさえすればいい」というマンガファンならぬ蒐集家となると、本というモノに対して一種の完全主義を貫くようになる。たとえば特定シリーズの蒐集家の場合、「集めるからにはすべてを集める」のが当然、という心境になるものだ。全一八八巻ならば一八八巻のすべてを揃える。こういう人は、残すところあと一、二巻のみという状況になると、その入手に相場を大幅に上回る出血を覚悟するものだ。
 すべてが揃ったら揃ったで、あらたな欲望が首をもたげてくる。どうせならオール初版の美本で揃えたい、帯の付いているものは帯も揃えたい、版によって内容が異なるものは、どうせなら両方揃えたい等々。ひとつの目標が達成されたら、次の目標に向かってしまうのが、蒐集家の業というものだ。
 古書業界関係者と話をすると、ときどき「古書の格」という言葉が出てくる。いろいろな意見を総合するに、「格」を決定する要因は、その本の希少性、内容面に対する評価、状態から成っている。絶対数が少なく、発見自体に大きな困難がともなえば、それだけ古書としての価値は高い。もちろん、それを探してみようと思わせるだけの中身がなければ、ただのゴミと違いはない。発見されたらされたで、今度はより原型に近いモノが求められるようになる。
 さらに、本としての存在感も格を決める要因の一つに加えていいだろう。おなじ本でも、製作により手間のかけられた本の方が、どことなく風格を感じさせる。こうした条件をすべて満たしたものが、市場ではひときわ高く評価されているのだ。
 蒐集家の完全主義は、はた目に「そこまでするか?」と思わせるほどのこだわりが発露されることもある。もちろん、個人のこだわりが即市場の常識となるわけではないが、蒐集の対象としての歴史が浅いマンガは、各人の好みが反映されやすいダイナミズムに満ちているともいえる。

今からでも頂点を極められる

 蒐集に熱中する人は、その道に何百万、何千万、場合によっては何億というカネをかけるものだ。マンガ古書であっても、一冊何十万という本が珍しくない以上、のめりこめば何百万もの出費が発生することは間違いない。実際のところ、『最後の世界大戦』を購入したある蒐集家は、車を買うという口実をつくって銀行ローンを組んだという逸話がある。
 たかがマンガごときに銀行ローンを、と感じる人は多いかもしれないが、蒐集の対象としてのマンガ古書は、じつはかなり経済的な趣味(というのも、本来は変な言い方になるが)なのである。
 だいたいコレクションというものは、対象がなんであれ、五年や六年程度で完結するようなものではない。何十年もかけて積み重ねられるべきものだ。かりに月々三万円程度を蒐集に費やしたとして、年間の出費は三六万円、三〇年間続ければ総額は一千万円強だが、それだけあれば、「お宝中のお宝」と評価される本をほとんど買い尽くせてしまう。
 当然ながら三〇年のあいだに相場は大きく変わるだろうが、月々三万円といえば、ゴルフやカラオケなどの出費と比べても、たいした違いがあるわけではない。絵画であれば、頂点を極められるのは大富豪だけだが、マンガ古書であれば、ごく普通のサラリーマンでも『新宝島』や『最後の世界大戦』、手塚治虫のカラー原画を買えないことはないのだ。
 もちろん、絵画蒐集のような「高尚な趣味」を、マンガ蒐集ごときと比べないでくれ、という意見はあるだろうし、それが一般常識に近い発想だろう。しかし、趣味の高尚さなど、歴史がつくりだすようなものだ。まだまだ若い文化たるマンガは、社会的なステイタス性はないかもしれないが、いまから蒐集を始めても頂点を極めることは不可能ではないし、なによりもあたらしい価値を自分が発掘していく痛快さがある。マンガ古書市場がおもしろくなるのは、これからである。


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別冊宝島494
お宝コミック・ランキング
宝島社
2000年3月25日
840円
4色カラーの豊富な図版で多数の稀覯本を紹介しています。

図 版

「新寳島」手塚治虫・酒井七馬
昭和22年1月30日、育英出版
これが正真正銘の「新寳島」初版本
「最後の世界大戦」足塚不二雄
昭和28年8月、鶴書房
まだ10冊程度しか確認されていない

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