「国会月報」1993年5月号(新日本法規出版)掲載
江下雅之
パリに住んでみて、今まで抱いていた「世界」像が限定的なものにすぎないと痛感させられた。パリが東京よりも「国際的」であるという意味ではない。要は今まで「アメリカ」と「英語」という2つのキーワードで描いていた世界とは、全く違う世界を実感したのである。
パリ在住外国人の構成内容は、ニューヨーク、東京とは全く異なる。日本にはにはなじみの薄い国民がかなり多数派を占める。パリでの共通語は無論英語ではなく、フランス語、そして地域によってはスペイン語やアラビア語である。我々はヨーロッパの多様性を語る一方で、至極簡単に「欧米諸国では……」という過剰一般化をしがちである。「国際常識」とか「国際ルール」などを語る時など、アメリカの視点を無意識のうちに受け入れがちなようである。アメリカとて世界という巨大なるつぼの一部にすぎない。その視点にのみ基づいた価値判断は事の本質を見誤らせかねない。
私の本職は情報システムの研究である。人の行動パターンや思考様式を、情報の伝達や処理の仕組みに注目してモデル化しよう、というのが主たるテーマである。政治や経済、国際関係論などには素人であるが、社会や組織での合意形成や行動の過程等を分析するにつれ、世間一般に評価され、あるいは否定されている事柄を再検討してみたくなった。
いくつか例を挙げてみよう。
合意形成システムとして、「根回し」は前近代的で、日本でしか通用しない仕組みと捉えられているようである。他方、「活発な議論」が進化したシステムであるかのように語られている。しかし、情報処理効率の点から見た場合、「活発な議論」とは単にノイズ量が多いだけという可能性がある。問題はむしろ、なぜ一方では「根回し」が成立し、なぜ一方では「活発な議論」が必要なのかということであろう。
別の例を挙げてみよう。
「ムラ社会」というと否定的印象、反対に「国際化」というと肯定的印象を与えるようだ。しかし、単純にこれらをプラス、マイナスとして対立的に位置づけられるものなのだろうか?メディアの発達には、世界全体を一つの「ムラ」とする側面がある。情報システムの立場から見れば、「ムラ社会」は極めて密なコミュニケーションの成立している系を表し、「国際化」とはコミュニケーションの拡大を指向する行動である。
ヨーロッパでは経済統合と民族独立が同時進行している。これは「大きなムラ」と「小さなムラ」の実現という、一見矛盾する現象である。反面、むしろ経済や生活などの様々な層でコミュニケーションの最適化を目指す動きとも分析できる。この状況は最後に触れるが、情報通信網の広域接続や特定ユーザ網と比較すると、実に多くの共通点が見いだされ、本質的には全く同じ仕組みと考えることができる。
細かい例を挙げればきりがないが、以降では情報システムという視点からフランス社会と日本社会のコミュニケーションを比較してみた。情報システムの研究者が書いた文章なので、途中、あまり一般的でない用語が登場する。これらは現象を情報システムの視点から捉えようとしているためと了解して頂きたい。
フランス社会のコミュニケーションを考える上で、個人主義はキーワードの一つである。情報システム論の立場から考えると、個人主義とは、各個人がかなりの情報処理、言葉を変えれば意志決定をなす系と見做すことができる。これはコンピュータの「分散処理システム」と呼ばれる仕組みと本質的には同じである。
私は先に「根回し」と絡めて「議論」について触れた。フランス人は議論好きな国民と言われ、実際に1日のうちに何回となく議論が繰り返される。そこで、まず個人主義という切り口から「議論」の必然性を検討してみたい。ここにフランス的コミュニケーションの一側面が見いだされると考えられる。そして、個人主義の視点からは一見矛盾するコミュニケーション形態が、実は個人主義の典型的側面である例を「挨拶」「コネ」という2つの側面から分析してみたい。
フランスの議会で「議論」はまさしく論者間の真剣勝負である。企業の中でも、あるいは学校でも同様である。このような状況では、ディベートのような訓練が必要なのも当然であろう。しかし、この「議論」がえらく疲れるのだ。当のフランス人でも、好きとはいえかなりエネルギーを消耗している事実に変わりない。「議論」の結果合意に至る保証はなく、お互いの主張の衝突で終始することも少なくない。この面だけを捉えれば、必ずしも効率的な合意形成システムとは言えないはずである。
彼らが「議論」する必然性は何か?
少なくとも一つの重要な側面は、各個人、すなわち個々の処理系が全て異なるものという前提と言えよう。個々の人間の考えることは、全て異なって当たり前、そういう前提があるからこそ、何をするのでもお互いの中身を晒す必要がある。コンピュータ・システムにおける異機種間接続と同じことで、異なる機種を接続するためには、システムの仕様を徹底的にに照合しなければならない。反対に、同系統機種は接続自体容易であるが、同系統の機種を揃えること自体特殊な前提状況と言える。これは「根回し」を成り立たせるために、ある課題に対し共通した利益や考え方等、一種の共通認識が必要なことに対応する。
個人主義の表面的矛盾も見てみよう。先に「挨拶」と「コネ」という項目を挙げたが、もう少し具体的には次に示す局面に典型的現象を見ることが出来る。
(1) 些細なことにはあやあまるのに、自分のミスに遺憾を表明しない。
(2) 「冷たい」と言われるパリ市民も、友人の前では極めて愛想が良い。
(3) 個人の能力判断が重視されるほど、肩書きが大きくモノを言う。
(4) 人脈形成のため、皆八方手を尽くしてツテやコネを辿る。
まず(1)から検討してみたい。
ここで「あやまる」というのを「『失礼』を意味する言葉を発する行動」、そして「謝る」を「自分の責任を認めること」と定義する。恐らく「Pardon(失礼)」はフランス人が最も頻繁に発する言葉であろう。少し肩が触れただけでも「Pardon」、前を通る時も「Pardon」、角で出会い頭になったときも「Pardon」、いつでもどこでも「Pardon」の連発である。他方、日本企業の駐在員からは、フランス人への注文として最も多いのが「素直にミスを認めてほしい」である。交通事故で決して謝ってはいけないとうアメリカ的原則が、パリでもそのまま通用する。要するに、自分のミスを簡単に認めてはいけないのだ。
この一見矛盾する現象は、個人間のコミュニケーションという切り口から、次のように考えることができよう。「Pardon」の連発は「信号」のやりとりと見做せる。「議論」で述べた様に、個人主義では「考え方、感じ方は人それぞれ」と考えるのが原則である。従って、好意を表すにしても悪意を露にするにしても、常に明確な「信号」を伝える必要がある。肩が接することなどは一般には悪意の信号であるから、意図せずそれを発してしまった時、打ち消しの信号を即座に発しなければならない。さもなければ、相手の抗議に対抗するという面倒臭い手続きが控えている。
他方、「個人」というシステムが独立系と見做されるため、社会生活でも職場でも個人単位で責任の所在が規定される。何かミスがあればそれは個人の責任のもとで対処しなければならない。「謝る」というのは自分では対処できないという無条件降伏であり、損害を被った人の要求を全て受け入れるという態度に他ならない。従って、ミスした者はかかる事態の因果について主張し、自己防衛に努める必要がある。
日本人の場合、「同じ日本人が...するはずがない」という強烈なデフォルト(=特に指定しないとき採用される初期値)があって、いちいち信号を発する代わりに、共通認識に「甘える」事態に至るものと考えられる。ミスへの対処も責任体制を曖昧化していると非難できる一方、個人にかかる責任を巧みに分散させる仕組みにもなっている。情報システムとして考えれば、これらの方が全体効率としては高い可能性がある。しかし、デフォルト設定段階で特殊な条件を要する点は「議論」の項で述べた通りだ。
フランスで誰か人に会う約束を取り付けるとき、第三者の紹介が重要である。その際申込者が有名校、著名機関などの所属である場合、約束の取付けはそうでない場合に比べ遥にスムーズに運ぶ。就職の際も「暖簾」が大きくものを言う。ツテの威力も絶大なので、志願者は悉くいもずる式にツテを辿ることが多い。「個人」が単位の社会なのに、このような人間関係が威力を発揮する。これも結局のところ、個人主義では「他人は得体の知れない存在である」という前提があること、そして何事も自己の責任で対処、判断しなければならないことが作用しているためと考えられる。
会うにしても採用するにしても、当事者は自分の責任で「得体の知れない」相手を吟味しなければならない。そのためには信頼すべき情報が必要である。第三者の紹介、所属機関、学位などは、まさしくその「保証」となる。反対に、依頼する方は「私はXXXである」旨を証明しなければならない。ツテを辿ったり、学歴を重ねるのはその証明の手続きとして機能する。ツテ、コネ重視は表面上日本社会と同じようであるが、フランスの場合、あくまで個人保証という意味合いが強いと考えられる。
このような視点でフランス社会を眺めてみると、様々な「保証」に応じたグループの存在に気づく。人種、宗教なども影響の程度は異なるが「保証」の一つと考えられる。いわゆる階級社会は出身校、収入、地位等々、様々な「保証」の重層構造として捉えることができる。
この状況は、通信網の接続で必要な取り決めである「プロトコル」(通信手順)の考え方に酷似している。プロトコルとは数階層に分けて取り決められた通信のための手続きである。低い階層のみを共通化すれば、様々な通信網を接続出来る。反対に、上位まで共通化すれば手続きは煩雑になるものの、融通できる機能やサービスは豊富になる。人間同士のコミュニケーションで言えば、共通する「層」が多いほど「サービス=親しみ」が深まるはずである。その一方で、共通「層」に応じた広域のネットワークも構成されるはずである。ただし、通信の場合、上位まで共通化するのはシステム運営の負担が大きい。人付き合いで言えば、それだけ煩わしさが増すというわけである。
プロトコルの原理は国家間のコミュニケーションにも適用できそうだ。例えば「資本主義」というのも一つの層であり、「民族」「宗教」などもそれぞれが一つの層と考えられる。「日米は共通の価値観を有し...」などとしばしば言及されるが、価値観は重層構造を持つものである。国家という漠然としたシステムであれば、どの二国間でも何らかの共通点から「接続」可能なはずである。問題は共通のレベルを見極めること、そして、レベルに応じた「接続」の限界を認識することであろう。
ヨーロッパの民族独立の動きは、情報システムで例えて言うなら「特定ユーザ網」(Closed Users Circuit)の構築である。一方、市場統合の動きは「広域接続」(Internetworking)になぞらえることができる。現在の情報システムは処理効率最適化の方向として、この2つを進行させようとしている。ヨーロッパにおいて同じ現象が地域レベルで見られるというのは、国家というシステムの最適化という点で極めて興味深い現象である。
再三指摘したように、価値観の多様化は、システム効率という点ではむしろ阻害要因となる。ただ、同系統の機種で構成したシステムは突然陳腐化する危険が大きいのも事実である。機能が均質であるが故に、新しいパラダイムを前にした時、全く対応不能となる可能性がある。日本とヨーロッパのコミュニケーション・システムは好対を成している。一方が他方より優れているわけではない。いずれも必然の上に成り立ち、それぞれの状況下でシステムの最適化を求めた結果と見るべきであろう。
■行動と思考のモデル化を考える
■ネットワーク・ライフ
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