《電脳文化》の困惑と可能性(3)

「国会月報」1995年1月号(新日本法規出版)掲載
江下雅之

アメリカのゴア副大統領の唱えた「情報スーパーハイウェイ構想」には、「個人による情報発信」という視点が鮮明に打ち出されていた。日本での論調には、あらたな市場の発生という思惑が中心だ。しかし、「個人の発信機会拡大」という点にこそ、電脳文化の本質があるのではないか。

情報スーパーハイウェイと民主主義

 フランスの国営放送 FRANCE 3 が、十月にかなり大規模な「情報スーパーハイウェイ」特集番組を組んだ。これに象徴されるように、最近のフランスでは、米国・ゴア副大統領の提唱した同構想をめぐる議論が盛んだ。また、構想の核でもあり、現在すでにアメリカを中心として普及しつつあるインターネットも注目されている。日本でも状況は同じといえよう。大きな書店に行けば、かならずマルチメディアとならんで、情報スーパーハイウェイやインターネットのコーナーがある。

 とはいえ、日本と米・仏とでは、論調がかなり異なるようだ。フランスのマスコミが取り上げるときは、「エリートによる情報発信とそれによる大衆支配」など、民主主義との関連に注目することが多い。本家のアメリカでも、「パソコンと民主主義」「ネットワークと民主主義」といったテーマが広く議論されている。ただし、アメリカでは「誰でも自分の意見で社会を動かすことができる。パソコンやネットワークは、万人にその機会をあたえる道具だ」という発想が強いようだ。この点、同じ民主主義の国とはいえ、エリート支配に結びつけるフランスとの違いが興味深い。それに対し日本での論調は、あらたなハードウェア市場、情報サービス市場の誕生という視点が中心であるようだ。社会とのかかわりという点でも、新テクノロジーによる未来生活像を描く、という見方が多いように思われる。

 いずれにしても、アメリカ、フランスともネットワークに対し、「個人の情報発信機会を拡大し、それがいままでとは違うかたちで社会を動かす可能性を秘める」という問題意識がある。情報スーパーハイウェイの社会的な位置づけは、「個人が主体的に影響力を行使する」という文脈のなかで捉えられている、と考えていいだろう。

「受信者」中心の日本的視点

 日本ではむしろ「世界中のさまざまなナマの情報に接することができる」という視点が中心のように思われる。つまり、みずからを発信者として捉えるのではなく、流通する情報を「受信」する立場から眺めているのだ。このような傾向は、なにも今回の情報スーパーハイウェイ・ブームだけのものではない。十年前のニューメディア・ブームでも似たような論調があった。

「日本に、世界に情報を発信しよう」という声はたしかにあった。しかし、それは個人ではなく組織であったはずだ。組織による情報発信ならば、宣伝や商売というかたちでいくらでもおこなわれているのだ。パソコン通信というネットワークにおいても、状況は大差ないといえよう。他愛もない雑談に終始する電子の「井戸端」として利用されるか、あるいは少数の情報発信者による一方通行的な情報提供の場という形態が多いようだ。

 ネットワークを個人の情報発信機会としてとらえる認識は、日本ではまだ一般的ではないようだ。たしかに「受信者指向」の発想にも必然性はあるだろう。もともと日本は世界で最もマス・メディアの発達した国だ。実際の満足度は別にしても、膨大な情報が黙っていても入ってくる仕組みになっている。反対に、個人が情報を発信できる機会は案外とすくなかった。それどころか、「出る杭は打たれる」「物言えば唇寒し」「沈黙は金」など、発信を必ずしもよしとしない感覚すらあるようだ。ここではなにも、社会的・歴史的な習慣の必然性を否定するつもりはない。発信をよしとしない習慣にも、必然性と同時に大きな利点があるはずだ。

 ところで、現在、先進国に限らず世界中の国が情報スーパーハイウェイやインターネットに注目している。この分野では、シンガポールや香港など、アジア新興地域の積極姿勢がめざましい。実際、ソフトウェアも含めた通信インフラづくりにおいて、日本はすでに多くの分野で遅れをとっている。このような環境のなかで、情報を発信しないことの問題点を再度考え直すべきではないだろうか。

アンテナからソナーへ――みずから探れ

 情報スーパーハイウェイが世界中に張りめぐらされるというのは、各個人がなんのフィルターも通さず、直接交流できるようになるということだ。ここではあらゆるひとに、巨大な人脈を形成するチャンスが与えられる。ネットワークの随所では、さまざまな情報のやりとりがなされるだろう。そこに「聴衆」として参加するだけでも、たしかに多くの情報を得ることができるだろう。それはそれで、たしかに価値あることだ。しかし、聴衆として参加するだけでは、流通している情報以上のものを得ることはできない。

 情報はもともとクラブ財的なものであり、それが最終的に公共財へと変遷するのだという。公共財に近い状態となった情報であれば、物言わぬ聴衆でも容易に受信できるだろう。しかし、情報によっては、みずからそれをえるだけの「資格」があることを証明し、共有を許される「クラブ」に加わることが必要だ。このような法則は、「情報は発信するところに入ってくる」とうような表現をされることもある。つまり、情報を求心力とするクラブに対して参加資格を証明する方法は、まさしくみずから情報を発信するしかない、ということだ。

 地球規模のネットワークでは、地縁も血縁もさして通用しないだろう。自分からどのような情報を提供できるか、どのような問題提起をできるかが重要なのだ。それによって、さまざまなひとの反響をよびこまなければならないのだ。

 アンテナを随所に設けることで、たしかにさまざまな情報は受信できる。しかし、それ以上のものをえようと思えば、自分から探りを入れる「ソナーの発想」が求められるのではないか。そして、万人に平等な発言機会を与える情報スーパーハイウェイでは、アンテナとソナーとの差が端的にあらわれるものと考えられる。


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