《電脳文化》の困惑と可能性(4)

「国会月報」1995年2月号(新日本法規出版)掲載
江下雅之

アメリカの NII 構想は、ヨーロッパでは文化的覇権主義として警戒されている。それは、情報インフラが単に情報を流すだけのパイプではないからだ。情報を出すのはだれだ? この問いかけを考えるとき、インフラ整備でなにが実は欠けているかが明らかになるだろう。

NII から GII へ

 アメリカのいわゆる「情報スーパーハイウェイ構想」は、最初、全米のスーパーコンピュータを通信ネットワークで結ぶ「データハイウェイ」として提唱された。九二年夏のことである。当時はコンピュータ・メーカーを中心に、国家的な情報インフラ整備の重要性が主張された時期でもあった。

 九三年一月、クリントン大統領の就任を前にして、アメリカのメーカー団体が「全国情報インフラの展望」と題する提言をおこなった。ここではじめて、National Information Infrastructure、通称「NII」という言葉が用いられた。こんにちのいわゆる「情報スーパーハイウェイ」は、この NII を指す。九四年三月の国際通信連合(ITU)総会において、この NII を地球規模に拡大させた Global Information Infrastructure 、通称「GII」が提唱された。この会議では NII の提唱者、ゴア米国副大統領が参加し、NII が GII の理念に即した政策であること、さらに GII が民主主義の核となることを主張した。ここでは、途上国では経済が遅れているからインフラが整備されていないのではなく、インフラ、特に情報インフラ整備の立ち後れが経済の発展を阻害するとの注目すべき演説をおこなっている。これは従来の視点を逆転させたものだ。

 以上がアメリカの情報インフラ構想の概略だ。これは公文俊平氏の著書『アメリカの情報革命』にもとづく。このように、アメリカは情報インフラづくりを国際戦略のかなめとしつつある。この姿勢が、ヨーロッパでは「アメリカの文化的覇権主義」として警戒されている。

ソフトが鍵をにぎる文化的覇権主義

 なぜこのような構想が、文化的覇権主義として警戒されるのか? 情報インフラが経済活動のみならず、社会文化活動に不可欠な要素として機能することはあきらかだ。これはテレビや新聞など、マスメディアのさまざまな役割を思い浮かべれば納得できるだろう。

 アメリカに限らず、各国とも情報インフラ整備を進めている。その過程で、たしかにアメリカの技術にすがることは多いだろう。とくに衛星通信を用いたインフラづくりで、アメリカ資本が独占的な役割をはたしている。しかし、これらは「器」の問題にすぎない。文化的覇権主義として警戒されるのは、むしろ広い意味での「ソフトウェア」の問題にほかならない。

 NII の先駆けとして、インターネットという地球規模の情報通信網が急速に発展している。インターネット上で電子メールを交換できる人数は、現在すでに数千万人に達しているという。来年末には二億人に達する見込みだ。この巨大なネットワークでは、「英語」が標準語となっている。むろん、自国内での情報交換は、それぞれの母語でおこなうことも可能だ。日本のインターネット利用者は、おたがい日本語で情報交換をおこなっている。

 が、インターネットで流布されている情報は、現在のところ多くが「米国産」なのだ。これは単に英語がコミュニケーションの道具として用いられているからではない。アメリカの研究者、ソフトウェア・ビジネス関係者は、このインターネットを徹底的に使って活動をおこなっている。もともとこのネットワークそのものが、七〇年代にアメリカの大学および研究所を接続した専用線から発達したものだ。一日の長があるのも当然だろう。しかし、その後の政策的な後押しもあって、この利用開拓に拍車がかかっている。インターネットを通じ、アメリカではさまざまな《知》の開拓者が育っている。GII に一歩踏み出した現在、彼らが世界中に向けて情報を発信しているのだ。これこそが、文化的覇権主義につながる要素なのだ。

ソフトウェアそれ自体より創る人の問題

 八〇年代にソニーがアメリカの映画メジャー・コロンビア映画を、そして三菱地所がロックフェラー・センターを買収した。これらは日本資本の強大さ、アメリカの凋落を象徴する出来事として有名だった。しかし、旧コロンビア映画、ロックフェラー・センターは、現在、買収した両社の負担となっているようだ。とくにソニーがソフトウェア戦略の一貫としておこなったこの買収は、ソフトウェアの性質を見落とした可能性がある。

 《知の創造》でもっとも価値ある部分は、成果として完成したソフト自体よりも、それを生み出す創造的な人間なのではないか。過去の膨大なソフトウェア資産は、たしかにこれからの情報ビジネスで大きな武器となるだろう。しかし、より重要なのは、過去の遺産よりもこれからの創造性ではないか。モノになった資産は、保存や転用がきくかもしれない。手法というかたちで記述されたソフト、すでに商品化されたソフトも同様だ。しかし、あらたな《知の資産》を生み出すのは、依然として創造的な人間の役割なのだ。いまのところ、これを代替する手段はない。

 おそらく、創造性においてアメリカ人も日本人も大差はないだろう。しかし、それを育てる土壌が大幅に異なる。日本が常にソフトウェアで遅れをとるのは、この点が問題であることは明らかだ。

 個人の創造性が重要である以上、大組織・大資本よりも、小規模集団のほうが有利だろう。たしかに映画やテレビ番組製作は、膨大な費用が必要だったかもしれない。しかし、いわゆるカウンター・カルチャーは常にマイノリティからはじまった。そして、あらゆる文化はカウンター・カルチャーからはじまったはずだ。

 今回の連載では、一貫して「個人の活動」に注目している。そして、NII や GII はまさにカウンター・カルチャーを世界に向けて発信する機能があるのだ。インターネットでは、すでに多くのスモール・ビジネス、文化的実験がおこなわれている。マスに乗れなかった文化的成果が世界に向けて流れている。その多くはアメリカが発信源となっているのだ。そして、アメリカでは、《知の開拓者》がますます育っている。


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