行動と思考のモデル化を考える(3)
コミュニケーション・ギャップ
その原因は日本的コミュニケーションの曖昧さか?

「国会月報」1993年7月号(新日本法規出版)掲載
江下雅之

言葉の果す機能

 コミュニケーションの役割とは、ある概念を人から人に伝えることである。従って、正確なコミュニケーションとは、伝えるべき概念を相手の中で正確に再現することと言えよう。ここに実は大きな問題がある。認識とコミュニケーションとは別なのだ。

 概念を再現する過程は人によって異なり、コミュニケーション行為からは基本的に独立している。同じ情報を同じメディアで伝えたとしても、ある人には「正しく」伝わり、ある人には「誤解を招く」ということが容易に起こりうる。いわゆるコミュニケーション・ギャップは、極く大雑把に見ればこのような要因で生ずるものと考えられる。

 認知科学の研究によれば、言葉とは概念を表現する手段であり、あることを「理解する」、すなわち概念が形成されるとは、それが言葉によって表現可能となることにほかならない。ここに、概念形成における言葉の重要さを見いだすことができる。

 音や文字などのメディアが言葉を伝達し、「ボディーランゲージ」という非言語的要素が補助する。これは身振り手振りや顔の表情などで、実際、人同士のコミュニケーションでは、非言語的要素の方がより多くの情報を伝えていると言われる。欧州語圏ではその比率が特に高く、文字通り「あの手この手」でコミュニケーションを図っていることになる。

「曖昧」な言語とは?

 日本語は曖昧な言語であるという批判が、我々の周りで比較的無批判のうちに展開されることがある。この曖昧さこそがコミュニケーション・ギャップの元凶のように指摘されることもある。曖昧な言語は概念を規定する機能が乏しいと考えられるからだ。

 しかし、そもそも日本語が曖昧な構造を持つ言語であれば、少なくとも現代数学の論文を日本語で書くことは不可能である。また、日頃フランス語に接する機会の多い私にとって、動詞の活用が極めて単純な英語にこそ「曖昧」さを感じることがある。当のフランス語自体も、ラテン語により近いイタリア語と比べれば「曖昧さ」が多いそうだ。

 ひるがえって日本語の概念形成の機能を見てみると、例えば数学の論文などでは主要概念のほとんどが「漢字」で規定されている。逆に言えば、本来は外国であった言語の機能によって、日本語は極めて多様な概念形成が可能になったと見ることができる。

 とはいえ、英語、フランス語等でも新しい概念を記述する場合は、ギリシャ・ラテン語系の接頭語・接尾語を用いることが多い。従って、例え漢字という外国語から借用した体系を用いているとはいえ、すでに言語系に組み込まれている以上、日本語自体に概念を記述する機能が十分に備わっていると考えられる。ついでながら、外来語吸収に極めて柔軟な日本語及び日本文化は、既にギリシャ・ラテン語系の造語力をも取り入れてさえいる。「アンチX(例:アンチ巨人)」や「Yチック(例:おとめチック)」などは、元来「反X」、「Y的(風)」と表現されるべき概念である。

 一方、漢字は表意文字であるため、表音文字であるローマ字を用いた言語よりも直感的認識の比率が高いという定説があった。しかし、最近の情報工学や大脳生理学の研究によれば、文字の型と認識とは無関係であると考えられつつある。このように考えると、いわゆる「曖昧さ」は言語体系や文字とは無関係で、むしろその背景に特徴を見いだすことができそうだ。実際、日本語コミュニケーションでは、曖昧な表現が好まれるということは考えうる。

曖昧さの背景を考える

 ベテラン翻訳家によれば、言語の持つ文化的背景を理解しなければまともな翻訳など出来ないのだそうだ。これは言語の機能が概念の伝達であることを考えれば明らかであろう。また、10年ほど前からコンピュータによる自動翻訳システムが注目されてきた。その際、自動翻訳の限界として必ず引合に出された例が、「Time flies like un arrow.」を「時蝿は矢を好む」と誤訳したものである。しかし、これなどむしろコミュニケーションには前提となる共通の認識が必要であることを端的に示している。

 反対に、多くの共通認識を有するのであれば、僅かな情報量で多くを「語る」ことができる。史上最も短い手紙として知られるビクトル・ユーゴと出版元間の連絡は、ユーゴ「?」、出版元「!」である。これなども、両者間でやりとりすべき話題が相当程度限定されていたからにほかならない。

 日本中世の古文で一つの形容詞が様々な意味で用いられるもの、コミュニケーションする人同士で多くの認識を共有していたためではないか?単に「をかし」と表現しても、実際は前後の話題、語る人の立場、季節等、様々な要因から細かい意味が規定されたのではないだろうか?「あの人がこんなことを言うはずがない」「この場合、こういう意味で用いているはずだ」との認識が相当持たれていたのではないだろうか。和歌の「本歌とり」にも似たような例を見ることができる。

ギャップの結末

 動物行動学者K・ローレンツは、認識の相違が悲劇的結末を迎える例を著作の中で示している。種類の異なる鳥が格闘した際、一方が降伏の合図を出す。同じ種類の鳥であれば、その合図を受けとめた相手に攻撃抑止の本能が働き、その段階で闘争が終わる。しかし、種の組合せによっては合図が理解できないということもあるそうだ。この場合、一方はあくまでも攻撃を続け、他方はひたすら降伏の合図を出し続けることになるという。この例は決して動物の世界だけに留まらない。人間同士や政府の2国間交渉でも同じような例が認められそうだ。

 概念形成が言葉を媒介にしている以上、共通認識の少ない相手とのコミュニケーションでは、言葉を尽くしてギャップの余地を狭めることが唯一の解決策であるようだ。人は言葉だけで考えるのではない、と主張する研究者も存在するが、現在のところ「言葉を尽くす」以外の方策を提案するに至っていない。

 ある程度の歴史を持つ民族であれば、多かれ少なかれ固有のな認識プロセスを持つはずである。この点、日本だけが特殊なのではない。全ての民族が多かれ少なかれ特殊なのだ。要するに我々は言葉を尽くさなければ困るような状況が相対的に少なかったのであろう。結局のところ、ギャップの責任はコミュニケーションに加わる者全てにあるわけだが、少なくとも鳥の例に至らないよう、言葉を尽くす努力は惜しまないようにしたい。


Copyright(C) Masayuki ESHITA