メディアと世論(5)

「国会月報」1995年10月号(新日本法規出版)掲載
江下雅之

われわれはメディアから得る情報に接して、「承服」することがある。その要素はいったいどこにあるのか? メディアが権力となりうる源泉が、ここにひとつ見いだせるはずだ。健全な世論を形成するには、個人が自分の「納得」メカニズムをチェックする必要もあるだろう。

「説得力」を感じるとき

 前回はメディアの効果について、歴史的な説の変遷を紹介した。そこではメディアの普及率をひとつのパラメータとして注目したわけだが、今回は「説得」(受け手からみれば「承服」)について考えてみたい。

 現代社会でテレビ放送はたしかに影響力のあるメディアだが、視聴者はそれがもたらすメッセージのすべてに「説得」されているわけではない。そのことは、コマーシャル・メッセージの効果を考えればあきらかだろう。民放などの商業メディアにおいては、スポンサーの確保が存続の基盤である。ならばCMはもっともメッセージ性が強くなければいけないはずだ。しかし現実には、常にスポンサーの思惑通りに宣伝効果があらわれるとは限らない。むろん、発信者の意図が通ることがおおいからこそ、宣伝にビッグ・マネーが費やされているのも事実だろう。この点、われわれは多かれ少なかれ、日々CMに「説得」されていることになる。

 テレビCM以外にも、おおくのメディアのさまざまなメッセージが、われわれを「説得」している。ラジオ報道を聴いたり、新聞論説を読んで、なんらかの示威行動をおこすこともあるだろう。うわさでパニックに陥ることもあるだろう。このような外的行動に至る過程には、「説得される」段階がかならずあるはずだ。

 では、どういう要素がわれわれを「説得」するのだろうか?

「説得」の要素

 オオカミ少年は、三度目には村人に信じてもらえなかった。二度のウソのせいで、村人は少年という情報源に疑いを抱いたわけだ。反対に、きわめて信頼の置かれている人の警告なら、村人たちはオオカミが来たと信じたことだろう。このことから、われわれは「誰が言ったか?」という点に、説得力を見出していることになる。

 現代社会においては、専門家役割にこのような点を見出すことができる。おなじことをいうのでも、市井のひとと専門家とでは、説得力が違うと感じることがあるだろう。これはなにも市井のひとを軽んじているのではなく、専門家の意見には、その背後に自分たちの理解できない深い理論があるのでは、という期待をいだかせるからだ。

 他方、数学の定理のように、べつに誰が語っても客観的な判断をくだせる場合もある。なにもこのような極端な例でなくても、受け手の常識からあまりにもかけはなれた内容は、当然ながら説得力を欠いたものになるだろう。いくら経済の専門家が「明日の為替レートは一ドル八五円になる」と予言しても、多数のひとは半信半疑のままだろう。それは、為替予測がまだ十分な精度を持っていないということを、常識として身にまとってしまっているからだ。ここに、説得の第二の要素として、メッセージそのものの内容を挙げることができるわけだ。

 第三のポイントとして、どのチャネルから入ってきたことなのか、という問題がある。テレビで見たのか、ラジオで聴いたのか、新聞や週刊誌で読んだのか、うわさで聞いたのか。おなじメッセージであっても、ルートの違いで説得力に差を感じることはよくある。

 たとえばある出来事がテレビで報道されるかどうかで、大事件かどうかを判断することがある。さらに細かくみれば、新聞や週刊誌というメディアはおなじであっても、どの新聞、どの週刊誌に登場したかで受ける印象が違う。これわ受け手がそれぞれのチャネルに、なんらかの役割なり機能を見出しているからだろう。おなじキャンペーンにしても、大衆紙の社説と高級紙の社説で、どちらがよりおおきな説得力を持つだろうか。チェネルそのものになんらかのメッセージ性を感じる以上、そこならえられる情報に対し、読者がフィルターを通して判断するのも当然のことだろう。たとえばこの原稿を書いているとき、米国マイクロソフト社の「ウィンドウズ95」というパソコン基本ソフトの話題が、さまざまなチャネルで報道された。普段、専門雑誌ぐらいしか扱わない情報が一般のメディアに登場したこと自体が、おおくのひとに「ただごとではない」という印象を与えたのではないか。

 さらに第四番目の要素として、メッセージが誰に向けられたものなのか、ということがある。サラリーマンに向けられたメッセージなのか、ワーキング・ウーマン宛のものか、学生か、主婦か、自営業者か、信者か、被害者か。メッセージを発する者は、それを受ける対象を想定し、さまざまなコードを込めることがある。受け手の「琴線」に触れるようなキーワードといっていいだろう。たとえば不公平税制に対する問題提起は、日頃重税感をうたえることのおおいサラリーマンにとって、説得力のある論点のひとつだろう。しかし、自営業者にしてみれば、異論のある点もおおいに違いない。メッセージのなかに「主張」があれば、受け手の立場によって反応が違って当然だ。賛成の立場にいれば、よりおおきな説得力を感じるだろう。

 そして最後に、メッセージ自体の目的を考える必要がある。欲望を刺激するのが目的なのか、反対に動揺を抑えるためのものなのか。啓蒙を目的としたものなのか、あるいは娯楽を目的としたものなのか。娯楽小説であれば、作者の意図は読者になんらかのカタルシスをあたえることだろう。ならば、そういう媒体に人生訓を求めるのはおかど違いといっていいだろう。むろんそういう作品もたまたまあるかもしれない。しかし、そういう前提から「説得力がない」と批判しても、作者をとまどわせるだけだろう。そもそも狙いが別のところになるのだから。

「説得」の源泉をチェックする

 以上に示した内容は、コミュニケーション学者ラスウェルの研究にもとづくものだ。つまり、説得の要素として、「誰が(情報源)、なにをいうか(メッセージ)、どのチェネルで(メディア)、だれに向かって(受け手)、どういう効果をともなって(効果)」を軸に考えたものである。

 メッセージに対する説得力を考えるとき、一般には内容そのものの信憑性と、送り手と受け手の信頼関係に帰着させがちだ。しかし実際には、もうすこしおおくの切り口があるわけだ。たとえば本稿をお読みの読者がここでの主張に説得力を感じたとき、いったいどういった要素が作用しているのだろうか。「国会月報」というチャネルか、記事の内容か、著者のプロフィールか、それともたまたま読者の興味をひく内容だったのか。

 例の地下鉄サリン事件以来、マインドコントロールということばがしばしば引用されている。もともとこれは心理学で用いられた専門用語であり、最近の用法はややセンセーショナルにすぎる傾向があるように思われる。しかし、自分が「なぜ信じるのか」という点は、ステレオタイプなどさまざまなメディア効果に惑わされないためにも、ときどきチェックしておいたほうがいいだろう。そしてなにか偏りがあれば、みずから批判的な内容を考えてみることだ。


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