「国会月報」1995年8月号(新日本法規出版)掲載
江下雅之
阪神大震災発生の翌日、東京などのデパートで、防災用品がまたたくまに売り切れた。市民が日頃から自然災害に備えること自体、好ましいことであるといえよう。が、震災報道がなされたあとのこのような現象は、メディアの情報が引き金となったパニックのようなものだ。現実にパニックとなった例もある。七二年の第一次オイルショック当時、スーパーからトイレットペーパーがなくなるという騒ぎがあった。このいわゆる「トイレットペーパー騒動」は、報道とうわさの重なりが生じさせた、典型的なパニックといえるだろう。
マスコミのもたらす情報、とくにそれが過剰報道として繰り返される場合、人々におなじような反応や行動を換気し、それが共鳴現象のように拡大することがある。トイレットペーパー騒ぎのようなパニックにつながることもあれば、極端な場合には、暴動にいたる場合もあるのだ。ヨーロッパで見られるフーリガン(熱狂的なサッカー・ファン)の暴動は、報道がひとつの動機となっていることが知られている。
以上は報道の影響が社会または集団にあらわれた例であるが、過剰報道が個人の行動の「引き金」になることもある。典型は「後追い自殺」だ。八六年四月にアイドル歌手の岡田有希子が自殺した。この当時、後追いと考えられる自殺が三〇件以上発生したと推計されている。古くはマリリン・モンローの自殺でも見られた現象だ。
一つ注意すると、メディアの情報が単純に人々を自殺に駆り立てたわけではない。もとからそういう危険性のある人物に対し、引き金として作用すると考えるべきものだ。影響は主体的なものというよりも、副次的といっていいだろう。もっともこれは、マスメディアの影響力を低く評価するものではない。
パニック、引き金以外にも、「連鎖反応」をもたらすケースもおおい。典型的な例がハイジャックなどのテロ行為だ。きわめて反社会性の強いこの行為は、反社会的であるがゆえに、抑制がはたらいている部分もあるだろう。行為者にしてみれば、テロ成功の見込みがまったくたたないわけだから。ところが、報道によって事例を身近に見いだすことで、「行ける!」という錯覚を与えてしまうのだろう。レベルは違うが、校内暴力やいじめの全国的な波及にも、抑制をはずすという、おなじような効果がはたらいたのではないか。
以上に示した例に共通する点は、きわめて衝撃的な情報が短期間のうちに流布されることで、人々が動揺してしまうことだ。
冷静な判断は、対象から一歩離れた状態から観察してはじめて下すことができる。衝撃の強い情報を投げかけられれば、どのようなひとでも多かれ少なかれ、心が揺さぶられることだろう。反対に、どれほど衝撃的な情報でも、時間がある程度たてば冷静に判断できるようになるだろう。ところが、情報のサイクルが極端に短ければ、頭を冷やす暇がない。動揺は共鳴振動を発生させ、ますます増幅することになるだろう。それによって、対象から身を引くことができなくなるのだ。ちょっとした不安が、大量の情報によってつぎつぎと拡大する。これが集団で発生すれば、一種の集団ヒステリーのような状況にもつながるだろう。
過剰報道は、二重の意味で危険だ。パニックの引き金となりうる点がまずひとつ、そして、食傷をもたらすことで、極端な無関心を導き出す可能性があることだ。パニックから無関心――極端から極端へと向かってしまう。
こういう悪循環を避けるために、個人はなにをすべきか? メディア側はなにを意識すべきか? 個人にできることは、情報ソースを常に複数持つことが基本になるだろう。メディア側にしてみれば、一方的な情報だけでなく、さまざまな様相を伝えるようにすることだろう。実際、阪神大震災では、被害現場のみでなく、むしろ災害からまぬがれた地域を報道すべきだった、と指摘する社会心理学者がいる。
しかし、ここに書いたようなことが簡単にできるようならば、事態は深刻でもなんでもない。とっくに解決がみられたことだろう。マスメディアが発達した日本社会のなかで、個人が複数のニュース・ソースを持つことがいかに困難なことか。それはメディア側の実情を考えれば考えるほど、あきらかになる。
日本のメディアのほとんどは「商業メディア」だ。視聴者あるいは購読者の支払う対価、企業の支払う広告費が、メディアの経済的な基盤となっている。視聴者・購読者のおおいメディアは、それだけ宣伝媒体としての価値が高くなるため、広告収入も増大する。経済的基盤がしっかりすれば、情報の制作でさらにコストを投入できる。結果的にこれが視聴者・購読者獲得に寄与するだろう。三重のシナジー効果がはたらくわけだ。
メディアの巨大化は、個人が情報ソースを複数持つことのマイナス要因となりうるだろう。なぜなら、提供チャネルが寡占状態になるからだ。そしておおくの視聴者・購読者を得るためには、それだけセンセーショナルな情報を扱わざるをえないだろう。特定のニーズに応じた地道な内容は、それだけ対象市場をしぼるこむ結果になってしまうからだ。
じつはニューメディア・ブーム当時も今回のマルチメディア・ブームでも、対象市場の規模と投入コストの問題が忘れられがちだ。細かなニーズに応える内容は、規模が限定される分、制作コストの制約が大きくなる。このことは、映画の制作費とビデオ・ムービーの制作費を比べればあきらから。
この問題に対して、まだはっきりとした回答は存在しない。しかし、パニックのメカニズムを回避するには、商業メディアの論理から脱却するルートを育てる必要があるのだ。最近話題のインターネットにしても、このような視点から将来像を考える必要があるだろう。
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月刊誌、新日本法規出版/発行
1974年より同誌の発行継承