行動と思考のモデル化を考える(2)
エリート社会と分散処理システム
フランスのエリート社会に見る高等教育機関の役割

「国会月報」1993年6月号(新日本法規出版)掲載
江下雅之

分散処理システムとは?

 情報システムの世界では、20年ほど前から「分散処理システム」という形態が唱えられ、今では世界的に一種の流行となっている。その対立用語に当たるのが「集中処理システム」である。

 分散処理システムとは、ユーザ一人一人が高度な処理能力を有する小型コンピュータを持ち、それらをネットワーク化したものある。ここには通常ワークステーションと呼ばれる機種が用いられ、文書作成から計算まで、通常の業務処理に必要な機能が全て備えられている。反対に、集中処理システムの場合、ユーザの手元にはデータのやりとりを行う端末があるだけである。両者の違いはユーザ側マシンの機能の違いである。

 分散処理システムでは、ユーザの手元にあるワークステーションは「クライアント(客)」と呼ばれる。大規模なシステムになるとクライアントの他にサーバ(給仕)が大きな役割を果し、システムの機能を実質的に特徴づける。これは専門的な機能を備えたコンピュータのことで、データベースの管理、高度な科学技術計算、プリント出力などの「サービス」を提供する。また、システムにはアドミニストレータ(管理人)という管理機能を持ったクライアントがおり、一般のクライアントやサーバの調整を行う。各クライアントが要求できるサービスの範囲は原則的に同一であるが、アドミニストレータの権限で差をつけることができる。その意味で、アドミニストレータはシステムの最高責任者と見做せる。

 フランス社会では、エリート対労働者の関係はまさしく集中処理システムの形態であるが、エリート社会そのものは分散処理システムの構図を取っていると考えられる。この構図の中では大学と企業の関係がかなり明確化されており、日本社会の抱えるいくつか問題、特に大学の位置づけに関して貴重な示唆を与えているように思われる。

エリートとは?

 日本社会で「エリート」を特徴付けることは難しい。フランスでは極く簡単に「エリート=仕事を作る人」と定義できる。組織において計画を立案し、その実行策を考えるのがエリートであり、エリートの考えた仕事を指示通りに行うのが労働者と言ってよかろう。当然ながらエリートに科せられる責務は大きく、「エリートを目指さないこと」が人生の一つの選択肢にさえなっているという。「エリート=成功者」ではないのだ。

 エリートは全ての業務に精通していなければならない。分散処理システムのクライアントと同様、エリートには業務処理に必要な全機能が求められる。企業の財務畑のエリートであれば、帳簿のつけ方に始まって、ミクロ経済理論まで精通していなければならない。請求書の様式作成からその処理手順、財務管理までを全て一人のエリートが行うからである。人事や営業畑でも状況は同じである。

 エリートは社会に出た瞬間からエリートである。叩き挙げられてエリートになるわけではない。エリートに成るためには、グランゼコールと呼ばれるエリート養成学校を出ることが必要条件である。この辺りの実情は、日本も及ばぬ学歴社会と言ってよかろう。

 グランゼコールは大学と並行するフランス独自の高等教育機関である。技術系、商業系など多くの系統があり、商業系グランゼコールでは徹底して企業経営の方法論を教え込む。フランスの高等教育制度は社会人にも門戸が広げられており、一度企業に入ってからグランゼコールに再度入学してエリートを目指すキャリアパス組もかなり多い。

エリートを支える専門家群

 このように、エリート達(分散処理システムの「クライアント」に相当)はグランゼコールにおいて仕事の作り方を学び、入社と同時に経営者(同「アドミニストレータ」に相当)から一定の権限を与えられ、企業というシステムの運営にあたるわけである。いくら必要な事は学校で教えられるとはいえ、果して彼らはそれで十分に機能して行けるか?ここに多くの専門家群(「サーバ」に相当)の存在意義が生じる。

 専門家の役目は新しい手法や方法論、視点、データ等を提供することによって、現場のエリートを支援することである。彼らの立場はエリートの中でも特定分野に特化した一群と位置づけられる。この点、まさしく分散処理システムの「専門的な機能を備えたコンピュータ」と同じ役割を果しているわけである。

 フランスの場合、このような立場にグランゼコールや大学教授が位置づけられることが多い。「教授=象牙の塔の住民」という認識は全く当て嵌まらない。反対に、コンサルタントや企業関係者が大学等の教授や非常勤の講師を勤めることは当たり前のことである。

 日本社会の場合、未だ社会と大学との関係が不明確なようである。企業においては技術系を除けば企業内教育のウェイトが高く、少なくともフランスのような「必要なことは学校で習え」という常識は通用しない。コンサルタント業やMBAがアメリカやフランスほど大きな機能を果していないのも、本質的には同じ要因に拠るものと考えられる。エリート、大学、専門家等が一体となったシステムが社会全体として構成されておらず、それぞれがどこか浮き上がった存在となっているようである。

 ところがここに日本企業の強さがあるのも事実である。フランスのエリートが運営する企業では、どこも似たような意志決定を行う危険性があるはずである。この点、日本企業の方が経営に際してそれぞれの独自性を保ち、産業全体としての逞しさにつながっていると言えよう。

 反対に弊害は何か?日本企業の構成員は多かれ少なかれ「エリート」役を担わされるため、全員が否応なく多忙な業務とプレッシャーに晒される危険性がある。そして、社会全体の効率から言えば、大学、学生双方とも不合理な投資を強いられている可能性がある。しばしば日本の社会科学系大学生は全く勉強しないと批判されるが、学生側に立てってみれば、企業が「大学で習うことなど役に立たない」と言うのだから勉強しても意味がないということになる。フランスの学生が必死なのは、やはり必然性があってのことなのだ。大学改革を社会全体の中で位置づける必要があることは、この点からも明かである。

 日本経済が世界最強を誇っている現在、日本型スタイルの方が優位なようではあるが、労働時間や大学改革などの問題がある以上、単純にそれを認める訳にはいかない。フランス型エリート社会が理想的モデルなわけではないが、日本の社会と大学との関係を考える上で多くの示唆を与えているように思われる。


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