《電脳文化》の困惑と可能性(5)

「国会月報」1995年3月号(新日本法規出版)掲載
江下雅之

関西地区を襲った大地震は、あらためて都市生活におけるメディアの役割を考えさせる出来事であった。多くの問題が指摘されている。さまざまな非難がマスコミ報道に向けられている。しかし、ことはメディアのあり方そのものに、発想の転換が求められるのではないか。
まずなによりも、一月十七日の震災で犠牲になった方々のご冥福をお祈りしたい。そして、被害にあわれた方には、心からお見舞い申し上げたいと思う。本稿が出版される時点でも、まだ復旧活動の途中と考えられる。現場にて懸命な活動をされている関係者一同に、激励のことばをおくりたいと思う。

ライフラインとしてのメディア

 本当に必要な情報がゆきわたらないという状況は、残念ながら阪神地区をおそった大地震でも生じてしまったようだ。いまは安易な行政やマスコミ批判ではなく、そうなるにいたった背景や原因を考えるべきだろう。

 今回の災害で、かなりのひとがまっさきに電話に飛びついたという。家族や友人の無事を確認するために、被災地の内外にいたひとたちは、必死に電話をかけつづけた。電話で声を聞いてほっとしたというひとは、かなりの数にのぼるのではないか。

 地震は神戸という大都市を襲った。そして、都市のなかでは地縁社会が失われて久しい。都市住民の多くにとって、「隣人」とは隣りに住むひとではなく、精神的に近いひとを意味するのだ。その絆を維持するのが、電話というメディアなのである。電話がもはやライフラインであることはあきらかだ。

 援助活動がすすむにつれ、必要な情報がきちんとゆきわたっていないという批判が高まった。とくに、テレビへの批判が厳しいようである。

 被害がおきてから、例によってすべてのチャンネルが地震の報道に集中し、あらゆる時間帯におなじようなニュースが流されるようになった。地震学者が予知の難しさを訴え、防災の専門家が自然の前には無力であるとコメントする。その他、「良識ある」意見が披露された。

 これらの報道姿勢に対し、多くの非難がまきおこった。キャスターがまるで「見せ物」のように報道している。いま必要なのは学者のしたり顔の意見ではない、被害がこれ以上広がらないためのアドバイスではないのか。地元が本当に欲している情報、たとえば給水場の場所などがあまり報道されない。

 ネットワーク通信で地震関連の意見を探してみると、これら「怒りの声」が随所でわきあがっている。

マスコミの機能と限界

 ひとつはっきりさせたいのは、マスコミ批判はえてして「天に向かって唾をはく」行為になるということだ。テレビ民放はつねに視聴率という厳しい査定にさらされている。番組を決めているのは、ほかならぬ視聴者自身なのだ。視聴者が普段望む内容は、報道や地元に役立つ情報ではなく、はでな「見せ物」ではなかったのか。だからこそ、ジャーナリストや地道な取材のプロでなく、タレントが活躍しているのではないか。

 このような態勢は、緊急時だからといって急にかえるわけにはいかないのだ。報道姿勢を批判するまえに、普段、自分がマスコミにどのような接し方をしていたのかを自己批判すべきだろう。

 一方、取材を目的におとずれる者は、たとえ国際的なジャーナリストであろうと、著名なカメラマンであろうと、現地の人間にしてみれば《邪魔者》であることにかわりはない。しかし、この《邪魔者》の伝える情報が、おおくのひとの共感を招き、救助の手や物資をさそうことになるのだ。マスに訴えてよりおおきな影響力をもたらす点にこそ、マスコミの存在価値がある。極端なはなし、地元のこまかなニーズに応えることがマスコミの機能ではないのだ。

ライフラインとしてのメディア

 災害の現場では、末端まで情報がゆきわたらずに、たいへんな混乱が生じた。行政の対応の遅れを非難する声も強い。しかし、関係者の話を聞く限り、行政はベスト以上を尽くしていたようだ。

 彼らにしてみれば、メディアという神経がなければ情報を伝えることも、知ることもできない。たとえマニュアルが用意されたとしても、神経網が寸断されては対応が遅れて当然という面もあるだろう。ここはむしろ、行政そのものよりも、神経網が現代の都市災害に対応しきれなかったことに注目すべきだ。

 一般住民が手にするメディアは、テレビ、ラジオ、そして電話の三つだ。このうち、テレビ、ラジオによるマス・コミュニケーションの限界は、先の項目で指摘したとおりだ。対象が巨大である以上、その体制はおなじくマスに対応したものでしかありえない。

 電話は隣人とをつなぐものだけに、かえって脆い面がある。被災地に電話をする。通じなければ再度繰り返す。このような状態で、有限の容量しかない回線はあっというまにパンクしてしまう。道路網も車が殺到したことにより、緊急車が運行できなくなった。電話でもおなじことが生じ、友人の声を聞きたいというナイーブな隣人愛が、本当に緊急な連絡が阻害するのだ。

 マスを対象にしたメディアは細かな神経としては機能せず、パーソナルを対象にしたメディアは、依存度が高まりすぎた結果、肝心な部分が麻痺してしまう結果になるのだ。

いまこそ分散的なメディアを

 つまるところ、メディアの構成をマスとパーソナルという、両極端なものだけにしてしまった責任であろう。その間にあるべきものこそが、個人と組織とを仲介するものなのではないか。

 例はいくらでも考えられるだろう。ミニFM局が多数あれば、もっと土地勘のある情報がいざというときに提供できるのではないか。兵庫県内には多数のBBS局(注:小規模なパソコン通信網)があった。これらは情報収集でかなりの活躍を見せたが、それをより有効に活用するためには、横の提携関係をもっと進める必要があるだろう。

 情報スーパーハイウェイは巨大なネットワークだと考えられがちだ。しかし、最大の魅力はさまざまな規模の活動が可能になる点なのだ。マスとミクロに隔てられた従来のメディアを、いまこそ最適な段階へと分散し、融合すべきではないだろうか。


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