「France News Digest」(France News Digest/発行)
江下雅之
毎週金曜の夜十時、パリ市のイタリー広場には多数のスケーターが集まる。真冬でも数百人、夏のバカンス明けには何千人もの規模になることもある。これは昨年五月に始まったPARI−ROLLERというローラーブレードおよびローラースケートの愛好家グループが主催する走行会で、深夜一時までの三時間にパリ左岸を中心とした車道を滑走する。毎週日曜午後二時にもバスティーユ広場に集合し、同じく三時間パリ市内を滑走する走行会もある。週に二回、パリ市内のあちこちの車道がスケーターたちに専有されるということだ。
車道といえば当然ながら自動車の交通が主な用途であるが、パリ市では、それ以外にもいろいろな活動に利用されている。デモ隊の行進はもちろんのこと、夏には革命記念日のパレードがあり、ツール・ド・フランスでは自転車のロードレース会場となる。パーキング・エリアは朝は市が開かれ、春や秋にはあちこちでガラクタ市が開催される。道路が公共空間であることを再認識させてくれる。
もちろん、日本の都市でも車道がイベントに用いられることはある。たとえばパリの姉妹都市・京都では、祇園祭や時代祭で車道が専有されるし、市民マラソンや駅伝も開催される。デモとて警察に届け出れば敢行できる。これは憲法で認められた権利だ。しかし、市民レベルでのイベントに対し、警察当局が積極的に受け入れる姿勢を示しているとは考えにくい。実際、自治体側がイベントのために道路を使用したくても、許認可権を持つ警察がなかなか承認してくれないという。パリ警察とて、無制限に道路の使用を認めているわけではないだろうが、それでもイベントは毎週開催され、警察にはローラーブレードを履いた姿で警備するチームまでもあり、PARI−ROLLERの走行会に同伴している。そもそも当局の対応は、市民側の参加意識によっても違いが出てくるだろう。その点、パリ市民には、道路も公園とおなじような公共空間であり、自分たちの活動のために使用していい場所、という意識が徹底しているのではないか。
「フランス人は英語ができるくせにフランス語でしか話さない」とは、フランス人に関する典型的な風説だ。しかし、語学力に関するフランスの世論調査結果を見れば、外国語を話せないとするフランス人が過半数を占めていることがわかる。むろん、こうした調査に対する回答は各人の自主申告であるが、外国語に強いとされるベネルクスや北欧の国民に比較すれば、フランス人は外国語が苦手と見て間違いなさそうだ。
この現実をどう評価するか。外国語に堪能なことをほぼ無条件に肯定する日本の世論を基準にすれば、フランスは国際化に遅れているとも言えないなくは。しかし、国民が概して外国語が苦手ということは、じつはその国の経済力・技術力が強いことの証明でもある点に注目したい。逆にベネルクス国民が外国語に堪能なのは、多民族国家という要素もあるが、経済活動に占める外国資本の割合が高いためでもある。語学はけっして趣味や教養の対象ではなく、パソコンが使えるとか経理の知識があるというのと同じく、安定した職を得るための必須の職能なのだ。
これに近い状況はフランスにもある。外資系、とくにアメリカ系企業への就職を目指す学生は英語学習に熱心であるし、MBAがブームになったこともある。そうであっても国民の過半数が外国語に疎遠のままでいられるのは、フランス自身に国民を養っていけるだけの経済力があるからに他ならない。じつはこの状況、日本もまったくおなじである。外国語は必須の素養と叫ばれて久しいが、実際問題、外国語に堪能でなければ職が見つからないわけではない。他方、おなじ状況でありながらも、外国語に対する切迫度は日本の方が高そうな印象を受けてしまう。それはおそらく、フランス語自体が他の国民から必須の技能として学習される対象となっているからであろう。国際化とは、国民が外国語に堪能となるという側面だけではなく、外国人がこちらの言語を学ぶメリットを増大させることでもあるのだ。
コソボへのNATO軍空爆にフランスも参加していることもあって、最近では抗議活動がフランスのあちこちでも見られる。コソボ問題に限らず、ボスミア、ルワンダ、北アイルランドなど、民族紛争は世界各地で発生している。フランス国内とて、イスラム系移民、コルシカ島住民、さらにはアルザス系住民などによる「民族」に関連した活動なり現象が頻繁に見られる。民族紛争とは、集団レベルでの価値観の衝突と言い換えてもいい。価値観は本来は個人に還元できる属性と考えてしまいがちだが、その個人そのものが、いわば集団の規範といったものを通じて形成されるものだ。集団にもアイデンティティがあり、それがしばしば衝突するのである。宗教は最も典型的な例だ。
こうした紛争を前にして、「みんなが多様な価値観を認めるようになれば、紛争など起きないのに」という素朴な疑問を抱く人がいるかもしれない。いや、おそらくはそれが平均的日本人の発想だろう。しかし民族紛争とは、多様な価値観を認識しているからこそ発生することなのだ。イスラム系生徒がスカーフをして学校に行くのも彼らの価値観なら、それを否とする学校当局者の判断もまた、一つの価値観である。異質な価値を認めることは、苦痛を伴う。異質さが明瞭であるほど、それは自分たちのアイデンティティを揺るがすからだ。スカーフをしようがしまいが関係ない、という姿勢は、決して多様な価値観を認めることではない。「そんなものに価値はない」という姿勢に他ならない。多様な価値観を認めるとは、異質な世界に対峙することであり、それはしばしば争いという形を取る。
人種のサラダ・ボールのパリでは、大規模なデモから酒場での口論に至るまで、様々な価値観の攻防が見て取れる。もとより紛争を礼賛するつもりは毛頭ないが、そもそも全体主義の社会なら、価値観の攻防など起きようがない。あるのは問答無用の排斥だけである。紛争とは、多様な価値観を認め合う上で、避けては通れない過程であることを認識すべきであろう。
■多面鏡
|
週刊新聞、France News Digest社/発行、1990年創刊
フランス在住の日本人向けに無料配布されている日本語の週刊新聞である。インターネットがまだ普及していなかった時代、OVNI、Jeudi Paris-Tokyoとともに、在フランスの日本人にとって日本のニュースを知るとともに、ヨーロッパのニュースを日本語で知るための貴重な情報源であった。
ニュース以外には個人情報を掲載する欄があり、帰国売り、アパートのバカンス貸し、ベビー・シッター募集などの情報が載っていた。在仏日本人の生活情報誌でもある。
なお、発行は週刊だが、わたしのコラム連載は隔週であった。