21世紀の日記
20世紀の日記

*この日記について

92年12月の日記は、パソコン通信NIFTY-Serveの「外国語フォーラム・フランス語会議室」に書き散らしていたものを再編集したものです。ただし、タイトルは若干変更したものがありますし、オリジナルの文面から個人名を削除するなど、webサイトへの収録にあたって最低限の編集を加えてあります。
当時の電子会議室では、備忘録的に書いた事柄もあれば、質問に対する回答もあります。「問いかけ」のような語りになっている部分は、その時点での電子会議室利用者向けの「会話」であるとお考えください。


1992年12月30日 パリの夜景

 此頃やけに冷えるなぁーっと思っていたら、もう噴水には氷が張っていた。さっきも郵便局に行く途中、車道の端がやけに白いと思ったら、水たまりがすっかり凍っているのに驚かされた。
 完璧に冬である。
 昨日は夕方ふと思い立って凱旋門を登ってきた。パリ5回目、滞在数ヶ月というのに、実はこの時が初めてであった。決して31Fを惜しんでいたわけではないのだが、何となく機会がなかった。
 夜、高いところに登って期待するのは夜景であろう。しかし、パリには夜景と呼ぶべき華麗な光のカーペットとでもいふべきものが欠けている。確かにクリスマスデコレーションのシャンゼリゼは、上から眺めてもナカナカとは思う。しかし、肝心の街に「光」がない。オフィスは既に閉まっているし、アパートの住民はカーテンや雨戸で窓を閉ざしている。何より間接照明主体では、漏れるべき光自体が乏しい。
 そんなわけで、夜景というよりも巨大な池に光の筋が放射状に伸びている、そんな印象を受けてしまった。遠くのエッフェル塔やサクレクールが何やら墓標のやうに思へてしまふのは私の乏しい感性のせいであらう。
 私は基本的に冬の様々な光景が好きである。特にたそがれの美しさは最高で、かつてその色の変化にみとれて何度風邪を引いたかしれない。特に、昨日、今日のやうに金星と三日月が彩りを添えている時が素晴らしい。年によっては水星も加わるのだが、今年は折り合いが悪い。
 夜景はないけれど、パリのたそがれ時はなかなか魅力的だと思う。平坦で古い町並みとたそがれ時の微妙な色の変化が何とも言えぬけだるさを醸し、うっかりするとまた風邪を引いてしまいそうになる。
 てなわけで、今度はたそがれ時に凱旋門に登ってみやうと思うのであった。
 蛇足ではあるが、今まで一番感動した夜景は実に大坂である。確か阪奈峠から眺めたものだと記憶している。それで、2番がニューヨークと東京、3番が函館、パリは番外という感じである。

1992年12月28日 怠惰な日々...

 冬休みに入ってからというもの、4時就寝、3時起床という日々が続いている。どうせ冬のパリはほとんどお天道さんとは無縁だし、なにより夜明けが遅いので、あたしのやうに典型的怠け者且宵っ張りには理想的(?)環境である。てなわけで、今日起きたのは5時であった。
 んでもって始めたことはニフティへのアクセス。まったくもぉ...

1992年12月27日 Le dernier metro vient de sortir...

 日頃節制しているとはいっても、まあ、クリスマスくらいは、と、ついつい懐が緩み、昨日はレアールのはずれ、商工会議所の隣にあるレストランで11時頃の遅い夕食を取った。前菜は無論生ガキである。私は決して牡蛎好きではないのだが、カミさんにつられてついつい注文してしまった。
 パリの人達は宵っぱりなので、11時過ぎになって食事を取るためレストランに入ってくる人も多い。我等もたまの外食であったので、ついついのんびりと生牡蛎やら海老のクリームソースなどを正味した。
 禁煙コーナーで悠然と煙草をふかしていた(とは言っても、店の者が灰皿を提供したのだから彼らに罪はない)日本人旅行者が帰った折に時計を見ると、既に12時10分。まだデザートも済んでいないというのに、終電の時間が迫っていた。ここで何も動揺せずに、「おや、もうすぐ終電だ」と他人事のやうに感じるところが現地化であろうか。
 店を出たのが結局12時35分、もうどうせ間に合わないかなと思ったので、ついでに近くにある24時間営業の中央郵便局で切手を買ってきた。その後駄目元でシャトレ駅のメトロ7番に向かってみたのだが、ホームには電車待ちとおぼしきグループがちらほら。ひょっとしてまだ終電が、と一瞬喝采を上げた。しかし、始終電時刻表を調べると、7番南方面のシャトレ発最終は12時55分、そして現在12時59分、そういえば、エスカレータあたりで発車のベルが鳴っていたやうな気がした...。
 結局ハイな気分と出費後の寂寞感が手伝って、結局シャトレから家まで歩いて帰ることにしてしまった。とは言っても、そこは案外狭いパリ市内、メトロで6駅分の距離は歩いて40分なりであった。

1992年12月26日 クリスマスの一日

 冬休みに入って完全に昼夜が逆転している。起きた時間が昨日は2時、今日は3時半である。特に今朝は5時半まで「日本の歴史(23):大日本帝国の試練」なんぞを読み耽っていた。
 実は異国(何とまあ厳めしい表現ではあるが)のクリスマスはこれが5度目である。パリでのクリスマスは昨年に続いて2度目、いやあ、こんなもの慣れてしまえば、ねぇ、えへへ、何て心境からはほど遠く、昨日のイブはやはりお昇りさん気分で一杯になってしまった。とはいうものの、遊ぶ資金を持ってイブを過ごせる旅行者の立場と違い、何をするにもついつい銀行の残高が頭にチラついてしまうのが悲しい。結局、数々のレストランの「Fruits de mes」は眺めるだけ(!)で終わってしまった。
 友人達も皆クリスマスはクニに帰っているので、年末まではパーティなしの日々である。それぢゃ、いっちょう贅沢してテンプラや刺身でも食いに行くか、と勇んで6区の「やまに」に向かったものの、ドアには「クリスマス休みにつき、24、25日は休業致します」。何で普通のレストランが開業しているのに、日本料理屋がクリスマス休暇なのだろうと、いささか不可解な気分にさせられてしまった。
 ところで、昨日フナックで買い物をした際、レジで「Bonne fete!」と言われた。試しに帰りに八百屋で「Bonne fete!」と言ったら、八百屋のおにいちゃんは嬉しそうに「Merci, vous aussi!」と応えた。
 さて、クリスマスも午睡の結果何もせぬまま早7時。これからムフタールに向かってSylvieの家でも探してこやう。
 では皆さん、Bonne fete!!

1992年12月24日 Lexique d'informatique 「D」

 Iさんへのクリスマス・プレゼントとして、ひさかたぶりにLexique d'informatique "D"を捧げませう。

anglaisfrancais


to dampamortir
data acquisitionsaisie des donnees
data bankbanque de donnees
data carrier storememoire a support amovible
data entrysaisie
data flow chartorganigramme des donnes
data processingtraitement des donnes
dead endbout mort
deadlocksituation bloquante
debuggingmise au point
decimal digitchiffre decimal
decimal pointsigne decimal(virgule decimal)
defaultdefaut
default valuevaleur implicite(par defaut)
default optionoption implicite
delayretard
to deleteeffacer, supprimer
delimiterseparateur, repere
deliveryremise
to designprojeter, construire
design reviewexamen de projet
detail filefichier mouvement
devicedispositif, mecanisme
dialcadran
die castcoule sous pression
digit pulseimpulsion d'information
digitizerconvertisseur analogique-numerique
directoryrepertoire
to disassembledemonter
disk arrayunite de disques
to displayafficher
display terminal unitterminal a ecran de visualisation
docuent handlerlecteur de documents
drawingdessin, plan
to drop outretomber
dummy instructioninstruction fictive
to dumpvider, decharger
dynamic accessacces mixte

1992年12月22日 フランス語が公用語だったのは...

 前に少し話題となった「イギリスではフランス語が公用語云々」ですが、よく見たらNSF3にそのエピソードが載っておりました。Unite 2. Lecon 1の中で、68頁に「La Francophone」と題する短い記事があります。その冒頭部分に15世紀までイギリスではラテン語とフランス語で法律が布告されたこと、それに対しフランスではラテン語が公用語として用いられていたこと等が解説されています。

1992年12月22日 ではカフェの値段など...

 というわけでパタさんのフォローを少々。
 パリに住んでいるという特権をフルに生かし、週に3度は寝る前にサン・ミッシェルやモンパルナスのカフェにfrequanterしています。やはりカフェの存在はパリの最大の魅力の一つでせう。
 カフェの値段を決める要素は次の3つであると考えられます。
 P=f(立地、席、時間帯、(格式))

(1)立地の要素

 立地が価格に繁栄される点は東京と全く同じ。東京で代官山辺りと高田馬場とでは劇的な価格差があるように、パリでも気取った地区と庶民的地域とでは大幅に料金が異なる。例としては次の通り。

気取った地区(代官山的)例割と庶民的な地区(下北的)例


Champs-Elysees及びその近隣Gare du Nord / d'Est 界隈
Avenue MongaigneBoulevard de Sebastolop
Avenue Marceau ほかBoulevard de Strasbourg
Avenue de l'OperaRue de Faubourg St.Denis
Boulevard St.GermainRue Baubourg

 最も気さくで感じの良い地域、個人的意見ではやはり5区、6区でせう。場所で言えばSt.Michel/Odeon、Montparnass あとはカルチエラタン内辺りです。カミさんはLes Hallesも気に入っています。

(2)席の要素

 これは次の3ゾーンで決定します。喫煙、非喫煙は今のところ料金には反映されていません。
 上席:外のテラス(まあ冬は少ないけどね)
 中席:店の中の席(冬はこれがほとんど)
 エコノミー:カウンター(立ちんぼう)
 当然のことながら上席が一番高く、同じカフェを頼んでもカウンターの3倍以上。逆に、単にコーヒーを飲みたいだけならカウンターに直行すべし。

(3)時間帯の要素

 夜10時以降は深夜料金が適用されます。ただ、深夜料金を全てのメニューに設定している店もあれば、コーヒーやショコラなど一部にのみ設定している店もある。いずれにせよ、夜カフェに入るなら、10時前に注文すべし。

(4)格式の要素

 まあ、これも一種の暖簾代みたいなもんでせうか。FouquetとかDeux Magotなど、妙に有名な所はそれなりの料金設定をしているやうでもあります。

 では、コーヒー1杯(エスプレッソ、デミカップ)の値段は?
 学食のカフェテラス :2.5F
 学校の自動販売機 :3F
 学校のカフェテラス :3.5F
 庶民的地区カウンター:5F
 5、6区カウンター :6から8F
 庶民的地区店内 :8から12F
 5、6区店内 :12から16F程度
 気取った地区店内 :15から20F前後

 だいたいの目安でございます。カフェオレやショコラはエスプレッソに比べてかなり割高です。コーヒー12から16Fの店で概ね18Fくらいでしょうか。私はたいていコーヒー15F、カフェオレ/ショコラ20Fを目処にしています。
 なお、料金は全て税サービス料込みです。とはいえ、たいてい1から2Fのチップは置きますが。

1992年12月22日 フランス語版ワープロ(Mac)など

 私の近辺ではMacWrite II の人気が高いようです。学校のMacにもこれがインストールされております。
 あと、フランス語の場合グラマーチェッカーも貴重なソフトなようですね。この辺伝言調なのは、まだHugo Plusを入手できないからであります。先日見た雑誌によると、PC版では次の3ソフトが紹介されておりました。
 Hugo(DOS版、WINDOWS版)
 GramR(DOS版、WINDOWS版)
 Grammatik(DOS版のみ、WINDOWS版はBeta)
 この中で一番評価が高かったのはGrammatikでした。雑誌は少々古いものでしたので、既にWINDOWS版も出ていることと思います。Hugoの評価はGrammatikとほぼ同じ、GramRは両者よりやや劣った採点をされていました。

 PS
 長らく入院中だったPowerBook 100がようやく退院しました。

1992年12月20日 CD辞書

 以前、仕事の関係で三修社の前田社長に取材に伺ったことがあります。氏は「日本人が(英語以外の)外国語を学習するときは、英語を緒にするのが最も合理的なはずだ。」という信念をお持ちでした。ですから、三修社版の辞書は概ね英語がワンクッション入っていると考えて間違いないでせう。
 私もデータディスクマンを買おうかどうか相当迷いました。今でもちと迷っているところです。コンセプト自体は気に入っているのですが、実物をいじったり、カタログを詳細に検討するうち、
 ・一充電当たりの操作可能時間が短すぎる。
 ・日←→仏、日←→英、仏←→英を全てダイレクトで検索できるソフトがない。
 ・表示画面があまりにも辞書イメージそのままで、あのサイズの液晶画面では見ずらい。
 等の問題が気になりました。それが購入を躊躇させたのです。
 操作時間について、私は学校に持ち込むイメージがありましたので、最低5時間は耐えてくれないと困る。これは半導体レーザを使うCDにはちと無理かもしれない。フラッシュメモリーに期待するしかないかも。
 残りの2つはソフトの問題ですが、これはあくまで使う以前の懸念にすぎないので、既にご利用されている方は是非ともご意見を伺いたいところです。

1992年12月20日 「Quiz」のひとこま

 夏にアップしたように、「Quiz」とは試験のことである。
 昨日は秋学期の最終試験の最後の試験があった。試験用紙の表紙には「Quiz final.」と印刷してあり、私は思わず自分がクイズのオーディション番組に参加しているやうな錯覚を一瞬受けてしまった。
 この日の試験は朝9時に始まり、午後2時まで連続5時間続くものであった。試験監督はどちらかというとパリのブラッスリー辺りで朝からワインでもくらっていそうな、何となく気のよさそうなオジさまであった。でも昼飯はいったいどうなるのだろうとこの時は思った。何しろ私に限らず皆いつも通り朝メシは食っていないはずだった。
 試験中、トイレに行くのは自由である。私も1時間半後くらいに催してきたので、一度席をたった。教室の一番後ろの机に座っていた監督のおじさんは、新聞のクロスワードパズルに夢中であった。
 11時頃、そろそろ問題のあらかたに見当がつきはじめたころ、そこかしこでひそひそ声の「議論」がはじまった。「この点はこうあるべきだ」「いやオレはこう考える」等々。中には夢中になって普段の声で議論を始めそうになる者も出てきたので、さすがにこの時は監督が笑ながら(!)注意をした。
 しかし、このおじさんが一服するため廊下に出るや否や、皆待ってましたとばかりいつもの調子で議論を始めるのであった。念のために確認するが、これは試験中の出来事である。ドアは半開きだったので廊下で煙草をふかしている監督にも議論の声は聞こえているはずだが、おじさんは煙草を味わうほうがこの時は重要だと考えていたようである。
 12時15分、皆腹が減ってきた様子であった。一人が「食い物を買い出しに行ってくるけど、何か欲しいものはないか?」と宣言した。皆これを待っていたかのように、「コーラ一本」とか「サンドウィッシュ1つ」とか頼み始めた。監督のおじさんも、「ワシにもサンドウィッシュとビール1本頼むよ」と言っていた。生徒のうち2人もビールを注文していた。
 12時25分、買い出しに言っていたパトリックが戻り、注文品を分配しはじめた。その後は皆試験復帰モードとなったが、サンドウィッシュをかじりながら用紙にかじりつくもの、ビールをぐびぐび飲みながら考えているものなど、実に様々であった。
 なお、試験は持ち込み可であったので、皆ノートやら参考文献を自由に見ることができた。日本の試験と異なっていたのは、試験中他の生徒の文献を借りても特に注意を受けないことであった。だから、試験中に「おいカリム、あの本貸してくれ!」と大声でどなると、当のカリムが分厚い本をぶん投げてよこしたりするのであった。
 1時半、そろそろ終わりが近づいてきた頃。皆最後の確認を始めた様子であった。すると、そこかしこで回答用紙を交換して相互チェックならびに疑問点の指摘が始まった。かなり大きな声で議論をしたものであるが、この時間になると監督の方も何もいわなかった。
 2時、別に「これまで!」の声もなく、皆てんでバラバラに回答用紙を提出していた。私が一番最後の提出であった。
 ちなみにこの日は「情報システム概論」の試験で、問題は一種のケーススタディであった。従って、特に唯一の正解があるという性格のものではなく、どういう視点でどう考えるかを問うことが試験の目的であった。そうは言っても、沈黙と緊張がつきまとう日本の試験とのあまりの違いに、私は一瞬とまどいながらも「ビールを飲みながらの試験もオツなものだ」と思ってしまった。
 前にデータベース論の試験があり、その時は議論の量は少なかったものの、結構似たような雰囲気があった。傑作だったのが、試験開始直後に担当教授が皆にアメを配ってくれたことだった。私が「Bonbon, apres laniere...」とボソリつぶやくと、周囲からは「Tout a fait」「C'est la vie.」という反応が帰って来た。その後、考え込んでいる生徒がいると、教授は再度アメを持って来て激励することを忘れなかった。

1992年12月18日 目に映る

 思わずロベールを調べてしまった。
「se voir」については、受動的表現として「pouvoir etre vu」がございました。
「voir」そのものには確かに「目に映る」というニュアンスがございますので、再帰動詞形にすると「見えるようになる」となる可能性は否定できませぬ。これはちとあたくしには判断ききれませぬが、「se voir」が自然なような気がしてしまうのです。まあ、窓に目をやるとその建物が「目に映る」と考えればいいやうに思えますが、ううん...。
「se trouver」は確かに変な感じですね。ただ、「on trouve」でも実はちと抵抗を感じるのでございます。「trouver」だと「発見する」「見つける」というニュアンスがございますから、かえって「se voir」より積極的な意味になってしまいませぬか? 単に「regarder」でもいいやうな気もするけれど、これもちと抵抗を感じてしまうのでございまする。
 またMarie-Pierreにヘルプせねば。

1992年12月17日 Hypermarche

 巨大なスーパーマーケットは「Hypermarche 」というシロモノです。店によっては自動車まで売っています。最近はパリの近郊に住む人が増え、そのような新興の街には買い物のインフラが不十分なため、たいていショッピングセンターの中にHypermarcheが入っています。RERの主要駅、メトロの終着駅などにはしばしば見られます。
 私の家からだとメトロ7番終点のMarie d'Ivry近くにある「Carre Four」が最寄りのHyper です。ここも「体育館のような」広さであり、店員は何とローラースケートとトランシーバーで監視やサービス等の巡回を行っています。
 郊外に住む人はアメリカ的に相当な量を買いだめしています。あの手押し車2台に食料品やら雑貨品を満載しているのですから、かなりのものでしょう? パリ市内の便利な所に住む人はマメに買い物をするので、冷蔵庫も小さめ。消費生活はこんな点でもかなり異なります。

1992年12月17日 1年が10ヶ月

 別の本にローマの暦のことが書いてありました。それによると、元々ローマ共和国では太陰暦が用いられ、一年は10ヶ月だったそうです。冬は数えなかったといいますから、太古から「イタちゃん」してたわけですね。
 その後12ヶ月になったそうですが、31日月が4回、29日月が7回、28日月が1回で、1年は355 日でした。そのため、時々潤月が設けられたそうです。
 ユリウス暦では1年 365日となりました。12月がDECA(10)なのも1年10ヶ月の名残ではないかと思います。カエサルとアウグストゥスの2人で帳尻を合わせたわけですね。
 革命暦が出てきたついでに余談を一つ。
 ナポレオンは何と円周を360度から400度に変更してしまいました。まあ、これはメートル法の制定とも関係あります。ただし、400は360に比べて約数が少ないため、結構不便なことがあります。実際にこんな笑話もある。
「ナポレオンが三帝海戦で敗れたのは、他国が「敵艦左30度!」と一言で命令できるところを、ナポレオン軍は「敵艦左33.33333333.....」といい続けなければならなかっためだ。」

1992年12月15日 旅行者はストにご用心

 今日から秋学期の試験が始まる予定であった。
 朝、目覚まし時計のベルをいつものように無意識下でリセットしてしまった私は、7時半頃の突然の電話にようやく目を覚ました。きっと誰かが気を利かせてモーニングコールでもしてくれたのだろう。
 いつもと同じ時間に家を出て、いつものようにChateletでRERに向かった。最近は必ず電車到着のディスプレイ表示を見る習慣がついたので、ホームでまず案内表示を見た。
「CERGY行きがない!」
 と、2ヶ月前ならとてつもなく動揺していたところだが、最近は完全にストというものに免疫ができたようで、殆ど機械的にSt.Lazareへと向った。
 しかし、St.Lazareの雰囲気がいつもと違っていた。
 普段のスト(笑)ならたいていストダイヤ(笑)に従って電車が動いているのに、今日はなぜか異様にシーンとしていた。ホームには人がなく、手前のスペースに所在なげな人の群れが出来ていた。そういえば、公衆電話にはえらく長い行列ができていたし、電車発着の表示には何も出ていなかった。
 この頃からいつものストとは様子が違うと分かった。インフォメーションで確認すると、デファンスより先は全く動いていない由だった。
 仕方なく、オペラまで戻って級友の一人に電話した。案の定、朝の電話は彼からで、ラジオで知ったスト情報を私に伝えようとしたそうだった。今日のストは全面的ストップだそうで、学校に行くのは不可能とのことだった。
 私は試験の心配をするよりも、昨日一夜づけなどせずさっさと床に就いた行動が正解だったという奇妙な満足感に浸ってしまった。
 家に戻って電話機の傍で即昼寝を始めた。1時間後、立て続けに3人から連絡が入り、試験が延期になったことを知った。テレビのニュースを見ると、今日のストがかなり大規模なもので、TGVから何から全てストップしているそうだ。
 そんなわけで、またまたスト、というニュースにもならないニュースであるが、今年は本当にGATTの影響でスト多発ゆえ、旅行者はくれぐれも用心されたし。また、国際郵便事情も極端に悪化しているため、特にフランス着の郵便物はなるべく早く出した方が良さそうである。

1992年12月15日 クリスマスメッセージ

 先日買いだめしたカードでも、ほとんどが
 Bonne Annee!
 Joyeux Noel et Bonne Annee!
 Meilleurs Veux pour La nouvelle Annee!
 の3パターンでした。
 ちょっと洒落ているなと思ったのが、
 Recette de Bonne Annee...
 で始まって、
 Une bonne sante, De l'amour partage, une grande aminite...
 などとリストアップしているやつでした。
 なお、このところストの余波で国際郵便事情がえらく悪く、普段は日本から5日で届く航空便が、運が悪いと3週間以上かかる場合があります。ですからフランス宛郵便物はなるべくお早めに投函した方が良いと思います。

1992年12月15日 もろもろ

(1)「月」の変則

 1月の「janvier 」から6月の「juin」まではローマ神話に出てくる神様の名前です。1月はJanus :ヤーヌス(門戸の神)、3月はMars:マルス(軍神)、6月はJuno:ユノー(ギ名ヘラかな?)だと思ったけれど、後はいまいち不明。
 7月はユリウス・カエサル、8月はアウグストゥス(オクタビアヌス)が割り込んだため、以降数字が2つズレてしまいました。だから、Sept(7)が9月、Octa(8)が10月、Nona(9)が11月、Deca(10)が12月を表す。
 歴史の本によりますと、7月をカエサルの月に決めたのは紀元前44年のこと。当時、ローマ共和国ではユリウス暦を用いていたので、一年は365 日で4年に1度の閏年まで定められておりました。ユリウス暦が定められたのが紀元前45年、これが現在のグレゴリー暦となったのが1582年です。

(2)comprendsとcompris

「je comprens」と「j'ai compris.」は同じニュアンスだと思うのですが。複合過去は基本的に過去の事象が現在まで影響を継続させているニュアンスがありますから、「j'ai compris」は「理解した。今も理解している。」となるのでせう。普段は「j'ai compris」をよく使う。
 なお、相手の言うことに同意を示す意であれば「je suis d'accord」、だから「みんなオレの言うこと分かるだろ(同意してくれるよな)?」という場合は極めて日常的に「On est d'accord?」といいます。

(3)voudraisとveux

 JOE さんの書かれているとおり、丁寧な表現です。英語の「would like」と全く同様です。vouloir はそのままだと「したい!」ですから、表現としては幼い印象を与えるそうです。
「j'aimerais ...」という表現もしばしば用います。「知りたい」「買いたい」なんて表現はだから「j'aimerais savoir...」「j'aimerais acheter...」もしばしば用いられる。
「当たりくじ」なら「je veux 」でもええんでないですか?ただ、「願望」のニュアンスがあるときは「souhaiter 」の方がよく用いられているような気がします。細かい違いは分かりませんが。ビジネスレターで「おめにかかりたい」と表現するときは「je souhaiter... 」だそうです。
 ところで、「宝くじ」=「多空くじ」、「LOTO」=「徒労」...。
 なお、英語の-erがフランス語の-reになったのではなく、フランス語の単語が英語に導入された際、-reが-erになったらしい。同様な現象は-oir(e) で終わる名詞が-oryに、-iteが-ityに、-eurが-orに化けるところでも見られる。

1992年12月14日 禁煙法、その後は...

 前にちょっと議論をかもした禁煙法(la loi Evin)に関する最近の状況です。
 駅構内ではかなりの喫煙者減となったようです。あまり取締の現場を見たことはないのですが、吸っている人の姿はたまにしか見かけなくなったような状態です。まあ、一人や二人はふかしていますが。
 レストランでは入るときに必ず「Fumeur? ou non fumeur?」と聞かれます。これはかなり徹底している。席の比率は「Fumeur」の方が多いやうに思われます。
 カフェでもエリアが分かれており、灰皿が置いてなければ「non fumeur」。たまに「non fumeur」で煙草を吸っている人がいると、ギャルソンが早速来て「吸うのならあちらへどうぞ」と案内しています。今日もそのような場面に遭遇しましたが、言われた人はさっさと喫煙席に移動していました。
 ところでこのEvin法は思わぬところに余波をもたらしました。報道でご存じの方もいらっしゃると思いますが、F1の93年フランスGPがキャンセルされてしまったのです。F1の大手スポンサーであるタバコ産業の広告に対する規制が問題で、特にフランスの裁判所が昨年のオーストラリアGPでタバコのロゴを映した放送がそのままTVに流れたことに対し、ロゴを付けていたチームに罰金を求めたことが発端のようです。
 ちなみに、我が校では学食の喫煙席が少なすぎるとして、喫煙者一同が近々アピールを出すとのことです。

1992年12月11日 Lisibilite

 たまたま今日の「Communication ecrite」の授業で出てきたテーマです。
「Les 6 regles de George Orwell」なるものがありましたので、その概略をご紹介いたします。

 R1:N'employez jamais un mot long!
 R2:Rayer un mot, si possible!
 R3:N'employez jamais la voix passive!
 R4:N'utilisez jamais un cliche, une image, une expression!
 R5:N'utilisez jamais un mot etranger, savant, ou de jargon!
 R6:Brizez les "regles" dans d'interet du lecteur!

 いずれも、「可能ならば」のただし書きつきですからね。
 ちなみに、単語の数やら音節の数などにいろいろな係数を掛けて、何やら「読み易さ」指数なるものを計算する方法も載っていました。他の言語にもあるのでせうか?

1992年12月11日 化粧映え

 パリで生活している実感からすると、概ね肌の色に合わせて、という気がします。白人系はかなり淡いピンク、黒人系は濃い目のルージュといった感じで。ただ、ラテン民族だとかなり様々な血が混在しているので、案外色白の人が少ない。これ事実。だから、白人系と言ってもけっこう浅黒い人がいますので、そのような女性はそれなりに色の濃い口紅を使っている例が多いように思われます。
 ところが、東洋人は全体にそのバランスよりも濃い目の口紅を使う傾向が強いように思われます。以前、化粧、特に口紅の濃い東洋人はたいてい日本人だ、という話を聞いた覚えがある。これも口紅重視の現われでせうか? カミさんの説によれば、「フランス人はアンブラセやキスする機会が多いから、いちいち口紅を気にする暇がないんじゃない?」とのことです。

1992年12月10日 クシャミの場合は?

 屁理屈かも知れないけれど、クシャミは鼻から出るものだから丸。何ていうこともないけれど、決してタブーではあるませんよ。まあ、真正面からするとしぶきが飛ぶのでさすがに皆、あさっての方向でやっていますが。
 あと、クシャミをした時の表現は以前アップしたことがあります。
 X:へぃっくしょん!
 Y:Tes amours!
 X:Les tiennes.

1992年12月9日 ところかまわず...

 基本は「口から出るものはエチケット違反」だそうですから、尻からでるものも一応はエチケット違反の内に入るのでしょう。
 が、しかし、そこは融通性抜群(?)のラテン民族、いろいろ「寛大」な部分が多いのではないかと察しています。ただ、このやうな問題は相当個人差があるし、当然のことながらそこいらじゅうでコキまくって構わないということはないでしょう。これは私の想像ですが、無理に我慢しなければならないほど深刻なタブーではないという気がします。前回のアップはその程度の意味であったのですが、表現が未熟でした。結構無神経であるといっても、そこはやはり程度の問題がありますね。反省。□\(-_-;)
 それが「失礼」に当たるのか、「恥」になるのか、それとも粗忽な「不始末」ですまされるのかは、いずれ級友と議論してみたいと思います。
 ところで、「エチケット」なる意味の元は、宮殿の庭での野グソ禁止の「エチケット(立て札)」から来ているのでしたよね?私はベルサイユだのフォンテーヌブローだの、宮殿を訪れる度にこのことを思いだしてしまう。
 屁は兎も角として、鼻みずは実に皆さん勢いよくチンしております。

1992年12月8日 ところかまわず...

 以前、欧米人はゲップには神経質だが「屁」には結構無神経であると聞いたことがあったものの、私はずっと懐疑的であった。しかし、最近になって周囲に観察が行き届くようになると、結構そこらぢゅうで屁をひっている光景を目撃することが多くなったのも事実である。何もパリジャン、パリジェンヌがいたるところでコきまくっているわけではないが、駅で椅子に腰掛けていたマダムがふっと腰をずらしたかと思うと、周囲の騒音の中にもかすかに「ぷっ」というあのphonetiqueを認識することができるのである。
 車内でもそしらぬ顔で「ぷっ」という光景はたまにある。さすがに鼻先でかまされた経験はないが、横で立っていた男の腰から下の方から、何やら聞き覚えのある破裂音が発せられるのを確認した経験が何度かある。そんなときは、かえってこちらの方が目をあわせるのが恥しくなってしまうのがおかしい。連絡通路での歩きっ屁という光景もままある。
 何にせよ、私にとって住みやすい所である事実に変わりない。

1992年12月6日 50 Millionsのワイン特集が...

 リヨン駅の売店で売っていたのを見つけました。見出しによれば、販売価格20から150FまでのCRUを500銘柄特集したとのこと。
 毎年この特集は50millions de consommateursでも人気が高いようです。
 Hors de seriesは町田さんの情報によれば日本での入手が困難だとのことなので、購入をご希望される方はこちらから郵送しますので、読書会の本と同様住所とその旨をメールでお知らせ下さい。費用は恐らく郵送費込みで60FF程度、日本円で1400円程度になると思います。

1992年12月6日 FONTAINEBLEAUにて... (1)

 Fontainebleau はパリの南やや東より40kmくらいにあるので、交通手段はリヨン駅からS.N.C.F.のBanlieu 線を利用することになります。RER なら本数も多いのですが、Banlieu 線だと1時間に1本です。
 家からリヨン駅までは91番のバス、そして地上ホームで初めてリヨン駅を見るカミさんに「ほら、あれがT.G.V.だっぺ!」と一瞬の観光案内をしただけで一目散に地下ホームに向かいました。窓口はどうせ行列だろうと思い、即、自動券売機に並んだのですが、直前のおばちゃんがえらく手間取った上、Carte Bleue が使えず結局パス、私も小銭がなくCBで買おうと思ったので、結局並び損、窓口でParis-LyonからFontainebleau まで片道35F也を買いました。
 自動改札をくぐり時刻表を見ると、何と17hまでのBanlieu 線は全て地上ホーム!しかも次の電車の発車までわずか3分でした。そこから猛烈にダッシュしたものの、運悪く端から端に移動しなければならない位置関係にあったため、30秒間に合わずに行かれてしまった...。(;_;)
 インフォメーションにて。(パターンはSF2で覚えた通り)

私:Quels sont les horaires des trains pour Fontainebleau?
係:Ben...le prochain train...c'est...14h50...Non! 13h50!
私:et de quelle voie?
係:Je ne sais pas. (きっぱり)
私:....OK. Merci...

「ホームは?」「知らねぇ!」っというのが妙におかしく感じてしまった。
 約50分の間は仕方なくキオスクを覗いたりカフェで時間を潰したり。駅構内のカフェは物乞いが巡回しているので、一番外側に座るのは禁物。
 リヨン駅からは40分弱、駅から城まではバスが利用できます。暖かい季節なら自転車を借りてお城だけでなくバルビゾンの森まで行くというコースもなかなかでせう。でも今日は底冷えのする一日なので、躊躇なくバス。駅から城まで片道7.6F也です。
 Fontainebleau のお城は「歴代の諸王に愛された」という表現がしばしば冠せられるように、Henri IV やFrancois I、Louis XIV、そしてNapoleonが特に愛用した城と言われています。かなりの長期間現役であったため、多くの様式が随所にちりばめられており、私はベルサイユ宮殿よりもかなり気に入っています(今回が2度目)。
 バス停から2分ほどで正面入り口、そこから正面の階段に向かい、向かって右側にある通路から中庭に抜けました。池にはカモだのアヒルだのに混ざって海のギャングまでおりました。池の中央には亭もあります。確かオルセーにこの亭を描いた有名な絵があったやうな気がしたものの、明確には覚えていない。以前は亭側も散策できたのですが、今日はペケになっておりました。
 ここからは例によって噴水に向かい、そしてフランス庭園おなじみの運河に向かうといふ典型的散策コースを歩みました。とにかく今日は寒かった!庭を見た後は走るようにして宮殿の見学コースに向かいました。倉庫か何かのゲートのような入り口を押し開け、一人26F也の入場券を買って巡回開始。詳しい内容は何しろ30代の衰えた記憶力には重荷ゆえ再現できませんが、ルネッサンス様式に始まって、ロココ風あり、ナポレオンの紋章で埋めつくされた様な部屋がありと、かなり変化に富んだ様はベルサイユ以上に楽しめることうけあいであります。
 帰り、バスを5秒差で逃してしまった。底冷えする中待つこと20分、ようやく次のバスに乗って駅まで。次の電車は30分後でした。
 Fontainebleau はZone 6なので定期の通用するZone 6までの切符を買おうとしました。ところが窓口でZone 5までの切符と言っても「何だそりゃ?」と言ふので、Zone 1 から5までは定期があるので、と説明すると、「切符で乗車する場合は全区間買わなきゃあかんよ」との事。ううむ、これは知らんかった。でも、Zone 5の駅名が分かれば自動券売機でそこまで買える。でも、この場合もし検札が来たらどう判断されるのだらう?確かに途中駅は2駅しかないので、Zone 5で乗ったという言い訳は通用しない...。そんなわけで帰りも片道35FF也を払って帰ったわけです。
 んで、帰りに驚いたことが一つ。途中駅Melun で電車の通過待ちがあったのですが、通過して入った列車がどうも蒸気機関車だったような気がする。ひょっとして、フランスではまだSLが現役なのだろうか?!!?

1992年12月5日 思わずホロリ...

 クラスに一人中国人留学生がいるのですが、語学力がいまいちで本人はかなり苦労しています。優しき級友達のいろいろなアドバイスの甲斐あって、何とか多少の会話はできるようになったものの、まだまだ道は困難です。
 剽軽者のThomasは彼の近くに住んでいることもあって、何かと気を配っています。ある日Thomasが彼の家に遊びに行ったとき、TVがないのに気づきました。彼は給費留学生であるため、自由になる資金がそれほど多いわけでなく、TVを買う余裕がないのだそうです。語学力をつけるためにTVは有用と考えたThomasは彼に内緒で級友達に話しをつけ、一人50Fずつ出し合って彼にTVを送ろうということになったのです。
 そして今日の休み時間、いぶかしがる彼を学部の部屋に連れ、紙でつくった巨大なリボンで飾ったTVを彼にプレゼントしたのでした。
 始めのうち、彼は状況をのみこめなかったようです。みんなが「これは全員から君へのプレゼントだよ」と繰り返し説明したり、私が紙に「謹呈」と書いたりしてようやく何が起こったのか理解できたようです。
 本当にいい連中だなぁ、と、今日もしみぢみ思ってしまった。

1992年12月5日 「K7」以外に

「NRJ」というのもあるそうです。他にもいくつかあるかもしれないということなので、判明次第アップします。
 NRJ=energie

1992年12月3日 水曜が休みだと・・・

 フランスの小学生は宿題地獄だそうですよ、これはよく話題になることですが。宿題が多すぎるので、とても塾などに行く暇がない、だから塾が存在できるわけがない、という話しを以前聞いたことがあります。
 どのくらい多いか?
 フランスの小学生は結構ランドセルを使っているそうですが、それが宿題でパンパンになる。当然相当な重さとなるわけです。そしてこの重荷が小学生の発育に悪影響を及ぼすのではないかとマジに議論されていたそうです。
 まあフランスと言えば日本どころでない学歴社会、エリートを目指す子供らにはファミコンをやったりアニメを見る時間などはないのではないかと想像しております(あっ、これはまだ裏をとってませんからね)。


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二年続けてのNoel

巴里生活は半年足らずだが二度目のクリスマスを迎えることとなった。この時期、街はイルミネーションに飾られ、じつに煌びやかな美しさを競っているのだが、生活者にとっては辛い季節でもある。なにせ北緯54度の高緯度地方、冬至近辺ともなると、太陽が南中しているときでさえ夕方のような感じである。いや、まだ太陽が出ている日はマシで、連日曇天ばかりなのだ。西風のおかげで緯度のわりに気温は低くないが、太陽光線を欠いた日々は、日本の太平洋側に住み続けた者にはつらい。
なにがいちばん辛かったといえば、通学の際、夜明け前に家を出ねばならないことだ。朝7時45分ごろは、まだまだ真っ暗なのである。そんななかを、ネイティブたちはごく普通に移動しているのだが、こちらの体内時計はまだ睡眠中の時間帯を指している。元来が夜型のわたしにとって、これは本当にストレスが募った。
Chatelet-Les HallesでRER A線に乗り換え、Nantereの先で地上に出るのだが、そのころにようやく日の出である。列車の北方向を窓越しに見ると、La Defanceの新凱旋門あたりから日が昇るのが見えたものだ。
いまにして思うと、わたしは6月末に来仏したので、夏の心地よさを知っているだけまだマシだったかもしれない。11月に来仏したカミさんにとっては、着いたそのときから連日曇天続きだし、たまに晴れても高くのぼらない太陽をほんの束の間接することができただけだったのだから、気分的にキツかったかもしれない。
そうはいっても、この時期にはこの時期だけしか楽しめないことがいくらでもある。fruits de mersが味わえる季節だ。生牡蠣はもちろんのこと、生ウニまで扱う店があった。市場に行けば新鮮な魚介類がいくらでも手に入る。ワインも安い。チーズも安い。いろいろな食材が楽しめるのは、冬の特権といっていい。 (2006.3.1記)