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98年3月の日記は、パソコン通信NIFTY-Serveの「外国語フォーラムロマンス語派館」に書き散らしていたものを再編集したものです。ただし、タイトルは若干変更したものがありますし、オリジナルの文面から個人名を削除するなど、webサイトへの収録にあたって最低限の編集を加えてあります。
当時の電子会議室では、備忘録的に書いた事柄もあれば、質問に対する回答もあります。「問いかけ」のような語りになっている部分は、その時点での電子会議室利用者向けの「会話」であるとお考えください。
日本人にとっても、アルベールビル五輪は思い出深い大会でしたねえ。獲得メダルが長野以前では最も多かったし、複合団体の劇的な金もありましたから。
日本のスキー場のなかでも、八方尾根は居候天国みたいなところでしたが、こういう連中はダサイ格好を競うようなところもありました。いちばんうまい人は、それこそ厨房で着ていた普段にレインコートをひっかけただけ、みたいな姿でナイターを滑っていたりするし。
今年、白馬でスキーをやったとき(男子滑降競技を兎平で見るために、一応、スキーセットは持って行った(笑))、数年ぶりに履こうとしたスキー靴は、材質が劣化しきったためか、見事真っ二つに割れました。まあ、なにしろサロモンの最初のモデルですから、すでに17年選手。いくらなんでも寿命なんでしょう。ちなみに板の方も、ユーゴスラビア時代の ELAN です(笑)。
そんなわけで、パリに帰ったらスキーの materiel を買おうかと思ったのですが、うーん、なかなか店が見つからん。フランスのパターンからすると、板や靴を売っているのは12月ぐらいまでですかねえ。神田だったらいまごろがバーゲン真っ盛りなのに。
ELAN の板を使う前までは、ジャン=クロード・キリーにあこがれ、Dynamic の板を使っていたのです。要するに単なるミーハーっすね(笑)。
Espace の時代は終焉しつつありますか。Espace がフランスの語学学校デビューしたのが92年、日本では93年ごろから本格的に NSF から切り替わったのですが、この Espace、あまり評判は良くなかったんですよね。当時ぼくは Allianceの本校に二ヶ月だけ集中講座で通っていたのだけど、そこの講師も「NSF の方がいい。Espace はフランス国内で使うにはいいけど、外国のフランス語学校で使ったり、独学用テキストとして使うには構成が悪い」と指摘してました。他の講師たちの意見もそういう感じでしたね。
このテキストはとにかく単語が多い。中級用の Espace 2 でさえ、それ以前の上級用 NSF3 よりも5割近く多い状況でした。だから講師は自分の好みで取捨選択し、ほかの副教材をあわせて使っていたのですね。その点、独学者やフランス国外の講師が使いこなすのは難しいんじゃないか、という評価につながったのだと思います。その点、Sans Frontier や NSF は、テキスト全体がかなり体系化されたつくりだったので、テキストを黙々とこなせばそれなりの達成度に到達できるって構成になっていたと思います。
好意的に解釈すれば、Espaceは多様性をものすごく重視したのかもしれない。たしかに NSF3 までやったような上級者が、さらに場数を踏んで語彙力を増やすにはいいテキストだったでしょうね。articles が多かったから。でも初級者・中級者には、「うげ」と思わせるテキストだったと思うぞ。
「しょせん教授語学」というのは、語学学校で教えてくれるのは、あくまでもスタンダードであって、実際の現場ではそれを応用しなくちゃいけないし、例外を覚えないといけない、ということですね。語学学校を無視していいんじゃなくて、あれは基礎であって満足レベルじゃないってことです。
はっきりいって、フランスに語学留学をするなら、日本で上級まで終わらせておくのが前提だと思いますね。現地でフランス語環境に接するといっても、初級・中級だと非ネイティブと接する時間の方が圧倒的に多いから(しかも文法的にめちゃくちゃなフランス語)、変なクセがつく危険性がすごく強い。それでいて会話ではみょーに場慣れしちゃうんで、かえってマイナスが大きいような気がします。スタンダードを知らずに例外(俗語)ばっかおぼえることにもなるし。
個人的に留学相談を受けることが多いのだけど、ひとつ言わせてもらうなら、「留学すればハクがつく」なんて時代は、30年以上も前にとっくに終わっているということ。いまじゃ留学経験は就職にはマイナス、ぐらいに考えておいたほうがいいと思いますね。渡航先がフンラスに限らずアメリカでもイギリスでもそうだけど。
留学で意義があると思うのは、学者を目指している人が交換留学やフェローシップで留学するか、「この人!」という師匠がいるか、最初から「これは遊び」と割り切るか、のいずれかだと思いますね。遊びの留学ってやつは、ぼくはけっこうポジティブに受けとめてます。
steak hache を頼んだときに焼き加減を聞かれたときは、ちょっとしたカルチャーショックがありましたね。もちろん bien cuit にしたのだけど、聞いてくるってことは、saignant な人もいるんでしょうねえ。まあ、タルタルステーキだってあるんだから、不思議はないとは思うけど、ハンバーグのレアはやっぱなじめないっす。
最初に通った学校は ESSEC という grande ecole だったのだけど、その前に二ヶ月、Alliance Francaise に行ったんですよ。まあ、日本でも上級までやってたから、AF でも上級コースに入り、それなりについていけもしたので、なんとかなるかな、なんて気もした。ところがとんでもない。ネイティブ・スピードは全然違いますね。おまけに発音も違うし、俗語もじゃんじゃん飛び出てくる。語学学校というのは、しょせんは教授語学なんだということを思い知らされました。だいた学長の面接は英語だったし。
休憩時間なんかはみんなカフェテリアで雑談するんだけど、しゃべっている内容がわからないから話の輪には加われない。だけどここで輪からはずれると、絶対に彼らの中に入っていけないと思い、必死で食らいつくような感じでした。話を向けられても答えようがないから、ごまかすのが大変でしたね(笑)。
ところが不思議なもので、二ヶ月すると馴れるんですねえ。ぜんぜんわからなかった彼らの会話が、すーっと膜をはがすような感じで見えてきた。「聞こえてきた」というよりも、本当に「見えてきた」って感じなんです。そうなると、話題に参加することが愉しくなりますわな。
ESSEC で幸いだったのは、この学校、フランスの高等教育機関では授業時間が最も多く、年間で 1200時間もある。しゃべる時間も相当あるので、いやでもフランス語に馴れないわけにはいかない。これが大学の DEAコースだと、理系でだいたい 350時間、文科系だと多いところで 400時間、少ないところは 300時間を切りますから、案外としゃべる時間はないですね。その分、読まないといけない文献は多いから、読解力はつくだろうけど。
現在痛感していることは、一年で身につけた語学レベルは一ヶ月サボるだけでリセットされる、ということであります(;_;)。
日本語には渇望しましたね。読むだけでなく、書くことの方も。昔の留学生、それも横浜から船でマルセイユに来た人たちが、文藝春秋を隅から隅まで、それこそ広告まで舐めるようにして読んでいた、という気持ちが理解できたような気がします。
ぼくもホテル滞在中は、とにかく手紙を書きまくりました。もともと書くことは習慣のようなものでしたので、ついつい枚数が増えてしまう。毎日5人分ぐらい、それも一人につき十枚ずつぐらい書いたんじゃないのかな。郵便局から送るときも、最低重量料金にはなりませんでしたね(笑)。
ホテルから短期貸しステュディオに移ってからは、なんとかモデムを使えるようになったため、ふたたび NIFTYにアクセスできるようになったので、膨大な手紙は会議室発言に切り替わりました。当時は 70円/分の TYMPAS しか使えなかったので、月間の海外接続料金がだいたい 15,000円でした。それでもログの量が一日10KBぐらいかな。いまはもう毎日 600KBぐらいですけどね(笑)。
ぼくがフランスに住み始めたのは6年前のことで、9年ちょっと勤めていた会社を休職しました(といっても最初から辞めるつもりだったので、2年後には退職)。で、そのときはソフト・ハードの二つのスーツケースに大型トランスなど、合計80キロのかかえてパリにやってきたものの、とりあえずの滞在先は Odeon の二つ星ホテル。なにせパリに着いたらまず家を探すことからしなければならなかったので、文字どおり、完全な根無し草状態でしたね。
べつに学者を目指そうとしたわけでもなく、32歳の当時、年収 900万円という恵まれた状況にあり、仕事にも愛着があり、ことさら環境を一新するべき必然性などはいっさいなかったのですね。いまだに「なぜフランスに留学したのですか?」と聞かれても返事に困ってしまう。「一度外国に、それもパリかニューヨークに住んでみたかったから」と答えているのだけど、本当のところはいまだに明確には答えられない。ただ、サラリーマンが多かれ少なかれ抱いている閉塞感というものに、当時のぼくは堪えられず、いちどなにもかもリセットしてみたい気持ちが強かったのは確かです。まあ、いわばその「はけ口」が渡仏という行為につながったのでしょう。
それにしても、成田での心細さったらなかったですね。ギリギリまで仕事が忙しく、荷物の詰め込みさえも当日の朝おこなったぐらいです。四時半まで会社で仕事をし、五時に帰宅して荷物をパッキングし(なにを持っていくのかを土壇場まで決めてなかったので、カミさんにやってもらうわけにはいかなかった)、風呂にざぶんとつかり、あわただしく家を出たのが7時。カミさんの運転する車のなかで多少の仮眠をしたものの、9時に成田に到着し、10時半には搭乗口へと向かいました。
そのあたりになると、あわただしさも一段落し、かわりに「これからいったいどうなるんだろう」という不安が一気にこみあげてきましたね。「いまならまだ引き返せる」とも思いました。航空機の座席につき、周囲は見知らぬ人たちばかり、そしてパリに着けば、知り合いもおらず、住む場所もないという状態が待っている。不覚にも涙がポロリと落ちました。
ソウルで乗り換えてからは、徹夜続きの疲労もあって、感傷に浸る間もなく寝てばかりいました。で、パリ到着の2時間ほど前、最後の食事のところで、たまたま隣の席に座っていたカップルと雑談するようになりました。この人たちがとても親切で、空港ではぼくの膨大な荷物の一部を運んでくれたり、リムジン降り口の凱旋門ではタクシーまで運んでくれたりしたのですが、オオゲサではなしに、このときの親切で「ああ、なんとかやっていけそうだ」という気持ちになったものです。
人間、不安定な状態にあると、ささいなことですぐ悲観的になることもあれば、急に道が開けたような気分になるじゃないですか。ぼくにとってはそのときのカップルの親切が、気分を逆転させる契機となりました。
いやしかし、パリに住んでも腹の立つことばかりで、もろもろの不条理を遊び心で対応できるようになったのは、まるまる二年滞在してからですね。リラックスして生活を見つめられるようになったのは滞在三年目になってから、94年の夏ぐらいからです。このぐらいから、旅行にも出掛けるようになりましたしね。子どもが生まれたのも滞在三年目の年です。
だからこそ、95年秋に日本に一時的とはいて帰ることになったときも、「絶対パリに戻ってやるぞ」という執念がありました。せっかくおもしろくなってきたところで帰るのが、いかにも未練たらたら、悔しいことだったのですね。で、幸い、自由職業者ビザがあっさりと取れたために、翌年の夏に戻れました。
海外に滞在するのはそれだけでも得難い機会だと思う。ただし、「滞在」を実感するには、最低3年はいなきゃ不十分だという気もします。単純に長ければいいというものではないですが、年月が経つから見えてくる風景・人間関係ってやつもあるでしょう。隣の食料品店のオヤジに、「トイレに行ってくるからちょっと店番しててくれ」なんて頼まれるようになるのも、やっぱ3年目以降ですから。
個人的な経験としては、
■個人的に知り合ったアメリカ人には「いいやつ」が多い。
■商売で接したアメリカ人はなかなか手強い相手が多い。
■都会のいろいろな店のアメリカ人店員は sympa だ。
■高級ホテルの従業員のなかには「やなやつ」がけっこういる。
■アメリカ政府は大っ嫌いだ。
というところですね。ぼくぐらいの世代(59年生まれ)だと、小学生のころに「ルーシーショウ」とか「じゃじゃ馬億万長者」「奥さまは魔女」などのアメリカン・ホームドラマの洗礼を受け、高校生のときに「バイオニック・ジェミー」や「チャーリーズ・エンジェルズ」を見てきたので、まあそれなりに American way of life への憧憬が残っているんじゃないのかな、という気はいたします。テクノロジーにしたって、「アメリカの方が圧倒的に進んでいる」という潜在的な認識があるので、ハイテク国家ニッポンといったって、どこかウソ臭く感じるし。
逆に、フランスの原風景的なイメージとなると、「おそ松くん」のイヤミなんすよね。フランスっていうよりも「おフランス」って感じ。
普通、スポーツの「チーム team」に相当するフランス語は equipe じゃないですか。スキーなんかでもそうだけど。ところがモータースポーツだと ecurie なんすね。F1 なんかでも ecurie Prost Mugen-Honda(そら去年だわ)とかって。自動車がもともと「馬なし馬車」だったから、なんすかね。
ヨーロッパで怖いのは、高速道路での追い越しもさることながら、対面交通の一般道での追い越しでしょうね。制限速度が80キロの道で60キロ走行中のトラックを追い越すとき、反対車線を80キロで走っている車との相対速度が 160キロあるわけだから、相当見晴らしのいい道で、しかも対向車がはるか彼方にいるときでないと追い越せない。日本の道のような感覚で追い越しを始めると、すぐに元の位置に戻らなきゃならなくなりますね。
ドイツのアウトバーンなら、追い越し車線を走っているとき、どれだけはるか後方からパッシングを浴びせられても、すぐに走行車線にどく習慣が必要ですね。180キロで走っていても、そういう車は230キロ以上で走っているわけだから。
2月の長野五輪はメダル・ラッシュに湧いたが、地元開催なのである程度は予想の範囲内といったところだろう。その点、92年のアルベール五輪こそ、予想外のメダル・ラッシュで盛り上がった。なんといってもノルディック複合団体の金メダルは快挙だろう。その後、エースの荻原健司がワールド・カップで個人総合三連覇を果たしているのも凄い。歴史ある競技で日本人が何年間も続けて世界王者となった例は、自転車の中野ぐらいのものではないのか。荻原の評価はもっと高くていいと思う。