21世紀の日記
20世紀の日記

*この日記について

98年7月の日記の一部は、パソコン通信NIFTY-Serveの「外国語フォーラムロマンス語派館」に書き散らしていたものを再編集したものです。ただし、タイトルは若干変更したものがありますし、オリジナルの文面から個人名を削除するなど、webサイトへの収録にあたって最低限の編集を加えてあります。
当時の電子会議室では、備忘録的に書いた事柄もあれば、質問に対する回答もあります。「問いかけ」のような語りになっている部分は、その時点での電子会議室利用者向けの「会話」であるとお考えください。


1998年 7月25日 パリで観る京都時代祭り

 たしかに京都と巴里は姉妹都市なので、京都のイベントが巴里で開かれてもおかしくはないのだが、それでも時代祭を巴里で観られるとは思わなかった。これ、日本ではまだ観たことがない。

1998年 7月19日 黄金の丘:ボーヌ

 今回の予定では、ブルゴーニュ地方に立ち寄る予定などなかったのだが、ルートの都合とはいえ、ボーヌに寄る機会ができたのは大ラッキーであった。94年に初めて訪れて以来、この街はすっかりとお気に入りの旅先である。街は安全だし周囲に綺麗な観光地があるし食事もうまいしで、とにかくここは満足度が高い街だ。今回もHotel des rampartsには泊まれなかったことだけが残念。それでもここのホテルはハズレは少ないが。

 義父母はもちろんボーヌは初めてなので、まずは観光事務所の推奨コース(なぜかサファリと名付けられているのだが)を車でめぐることにする。ムルソーなどの有名なワイン産地を通るほか、断崖絶壁あり、11世紀の朽ち果てた教会あり、おとぎばなしに出てきそうな古城ありと、このコースはけっこう楽しめる。我らはこれが三度目だったが、何度走っても飽きが来ない。

1998年 7月18日 チュービンゲン

 ザルツブルクからパリまで一気に帰るのは(不可能ではないけれども)もったいないので、南ドイツで一泊しよう、ということになった。ミシュランの地図とガイドブックを見てコースを検討。ストラスブールは行ったばかりだし、コルマールも去年行ったので、いっそブルゴーニュ地方を目指すルートを取ろうか、ということになった。そうなると、チュービンゲンで泊まればいちばん手頃である。
 昼前にチュービンゲンに着き、Informationでホテルのリストをもらう。学園都市とあって、Infoは英語だけでなくフランス語が通じたので助かった。しかし、リストで目を付けたホテルはどこも満室だったりしょぼかったりで、一時間後、ようやく小ぎれいな宿をキープできた。
 宿で一服後、まずは街の先にある城を見に行く。名称は失念したが(チュービンゲン城……とは違ったような気がするのだが)、フュッセンにあるノイシェバンスタイン城とは「兄弟」城なのだとか。
 途中、森と畑ばかりの田舎道を走る。城は小高い丘の上にあったので、かなり遠くからでもわかった。丘のまわりをぐるぐるまわるようにして上ると、頂上部はまるで個人宅のような雰囲気だった。ヨーロッパなので、もしかしたら最近まで個人が住んでいたのかも、と思ってしまった。

1998年 7月16日 ザルツブルクまでの長い道のり

 義父母が日本から遊びに来てくれたので、レンタカーを借りてドイツ・オーストリアを一週間ほど訪れることにした。最初はフランスのナンシーに泊まり、次にドイツのハイデルベルクに泊まり、そのあと、古城街道、ロマンチック街道を抜けてアウグスブルクに寄り、それからザルツブルクへ、というルートをたどったが、アウグスブルクでトラブルに遭遇した。市内で食事をするため車を駐車場に入れたとのだが、食事から戻って車を出そうとしても、エンジンがかかってくれない。バッテリーあがりではなく、点火寸前で止まってしまうのだ。
 そうこうしているうちに、隣におなじ型のオペルに乗っていた夫婦がパーキングしに来たので、なにが原因なのかを尋ねてみた。親切な旦那さんが何度かキーをひねってくれたのだが、どうやらセキュリティ・ロックがかかっているとのこと。なんらかの安全装置が始動してしまったらしい。
 非常に運が良かったのは、駐車場のすぐそばにACAD(日本のJAFに相当)の事務所があったこと。そこにかけこみ、事情を説明して技術者に来てもらえることになった。30分後、体格のいい技術者がキーをひねってすぐに尋ねてきたのは、「キーのなかにICチップが入っているはずだがどうした?」ということ。そういや、後ろのハッチバックを上げたときにキーが天井にぶつかり、カバーが二つに分かれたのだった。

 それから子ども以外の全員が駐車場の床を舐めるように探し回った。と、下の階層で探していた技術者が、小指の爪の半分ほどしかないチップを探し当ててくれた。それをキーにもどすと、何事もなかったようにエンジンは始動した。やれやれ。結局、チップを探しただけということで、料金は一銭も取られなかった。
 アウグスブルクを出たあとは万事快調で、アウトバーンを150〜190キロで走り抜け、すぐにザルツブルクに到着。現地ですぐにホテルを探したが、トンネルのすぐ外側にこじんまりとしたいい宿をキープできた。

1998年7月15日 新聞買いまくり

 l'Equipe の他に、Parisiens と France-soir も買いました。
 しかし、解散するならたしかに今だよな(笑)。

1998年7月14日 On est champions !

 その歴史的な日に、お隣イギリスのシルバーストーン・サーキットでミカ・ハッキネンの応援をしていたのはワタシです(笑)。
 試合はミルトンキーンズの友人宅で眺めてました。シャンゼリゼの大群衆はCNNが繰り返し放映してましたねえ。150万人集まったってことは、パリ市民の半分以上がやって来た、ということか?
 パリには13日の午後に戻ってきたのだけど、遊路★のマネージャーが行き先・到着時間をアナウンスするとき、「Paris, la ville de champion du monde」とゆうてました(笑)。
 さっきは presse に l'Equipe を買いに行ったのだけど、すでに二〇人ほどの行列ができておった。もちろん一人に一部しか売ってくれなかった。これは我が家の家宝にしよう(笑)。
 しかしイギリスGP、ハッキネンがちょっと可哀想だったぞ。

1998年7月10日 On est en finale !

 市役所前広場でも、一斉に On est en finale ! でしたねえ。ロスタイムに入ってからは、警備にあたっていた機動隊員たちもテレビ局のモニタを見ていたぞ(笑)。
 フランス・クロアチア戦のダフ屋レートが 2,000 Frs だったそうだけど、日本戦に比べて随分安いよなあ(笑)。

1998年7月9日 視聴率73%!

 さきほど、革命状態(笑)のパリ市役所前から帰還しました。
 いやー、すごかった。ああいうのは観衆を見ているのがいちばん楽しいですね。同点のときまでは観衆のど真ん中にいたのだけど、最後は France 3 の中継車の近くから眺めてました。

1998年 7月9日 Coupe du Monde 98 demi-finale : France vs Croatie

 7月9日、サッカーW杯準決勝のフランス対クロアチア戦をパリ市庁舎前広場で観戦するサポーターたち。準々決勝で難敵イタリアを破った地元フランスは、この試合に初の決勝進出をかける。イタリア戦ではこの広場だけで1.5万人の人出があったそうだが、クロアチア戦はその5割増ぐらいの人数がいたんじゃなかろうか。

 夜10時ぐらいになってようやく薄明がかすかになる。どの街灯にもスクリーンを見ようとする連中数人がよじのぼり、国旗をはためかせていた。この写真を撮ったすぐあとぐらいに、クロアチアが先制点を入れ、大観衆からブーイングと溜息が。もちろん僅かながらいたクロアチアのサポーターは大はしゃぎだったが。
 しかし、ブーイングがようやくおさまったころに、今度はフランスが同点ゴールを決めたのは、おそらくご存じのとおり。その瞬間、鼓膜が破れるかと思ったぞ。全員の手が一斉にあがり、皆人差し指を立て、あちこちで爆竹は鳴るわ、ロケット花火を打ち上げるやつがいるわ。

 念願の勝利を果たして「決勝だ!(On est en finale !)」と浮かれるサポーターたち。ここに居た大観衆たちが車道に繰り出し、どの道もほとんど歩行者天国状態となった。だけど車の方もクラクションを連呼して歩行者と一緒に大騒ぎ。いやもう、試合終了から二時間たったいまでも、車のクラクションが絶えない。たぶん、明け方までこの調子なんじゃないか。

1998年7月7日 宿敵イタリア

 広場前では、中継が始まる前は「Allez, les Bleus !」だったのだけど、中継が始まってユニホームが白とわかってからは「Allez, les Blancs !」に変わってました(笑)。Bleus のままだったら、イタリアの応援になっちまうもんな(笑)。
 Zidane に対しては愛称 Zizou を叫ぶ人も多いですね。

1998年7月5日 フリーズ状態

 今日のイタリア−フランス戦、最後のPKを失敗したイタリアの選手、仰向けになったまましばらく動けませんでしたね。まあ、あれが優勝を狙うチームの姿でもあるんでしょう。
 前半はパリ市役所広場前で大スクリーンを眺めていたのだけど、ラ・マルセイエーズの大合唱はすごかった。じつはこの日、うっかりとイタリア国旗のワンポイントが入ったチョッキを着ていたのだけど、広場にいるときはさすがに脱ぎました(笑)。
 しかし、イタリアに勝ててよっぽど嬉しかったんでしょうねえ。夜中になってもクラクション鳴らしながら走ってる車が多かったです。ああいうのを見ると、うらやましいと思ってしまう。まあ、長野オリンピックの白馬ジャンプ台も雰囲気としてはおなじようなものだったとは思うけど。

1998年7月1日 レベルが違う

 決勝トーナメントを観ていると、素人目にもJリーグ・レベルとの絶望的な差を感じてしまいますね。日本サッカーの抜本的なレベルアップは、もはや移民政策を全面的に開放に向け、アフリカや南米から何百万人単位の移民を受け入れることしかないんじゃないか、なんていう気がする。そうすれば少子対策にもなるんだから、一石二鳥だと思うんですけどねえ(笑)。


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まるで革命

サッカーW杯の決勝当日は、じつはイギリスにいた。どうせ生では見られないワールドカップよりも、F1イギリスGPを生で見る方を選んだのである。シルバーストーン・サーキットのわりと近くに友人夫妻が住んでおり、しかも今年が駐在最後の年なので、イギリスGPを見るチャンスは今年が最後だったのだ。それにしても、小雨のシルバーストーンの寒かったこと。7月なのに冬とかわらないじゃん。
友人宅に戻り、テレビをつけると、決勝のフランス対ブラジル戦がおこなわれているところだった。どうせ勝つのはブラジルさ、と思っていたら、ジダンが2点入れるわ、プチがだめ押し点を入れるわで、あらら勝っちゃったよ、という感じで眺めていた。翌日、ユーロスターでパリに到着する数分前に流れた乗務員のアナウンスが良かった。
「Nous allons, dans quelques instances, arriver a Paris, la ville du Champion du Monde.」
やっぱりすごいことだったのね。
決勝戦のあったその日は、フランス中が革命のような騒ぎだったそうな。そういや、パリに住み始めた1992年には、ヨーロッパのCLでフランスのオランピック・マルセイユが優勝し、その日もパリ市内はどこも大騒ぎだった(このCL、八百長疑惑が持ち上がり、OMの優勝は取り消された)。ワールドカップ優勝ともなれば、その何十倍もの騒ぎだっただろう。
シャンゼリゼでおこなわれた優勝パレードには、沿道に200万人が集まったというけど、それってパリ市の人口とおなじである