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98年5月の日記の一部は、パソコン通信NIFTY-Serveの「外国語フォーラムロマンス語派館」に書き散らしていたものを再編集したものです。ただし、タイトルは若干変更したものがありますし、オリジナルの文面から個人名を削除するなど、webサイトへの収録にあたって最低限の編集を加えてあります。
当時の電子会議室では、備忘録的に書いた事柄もあれば、質問に対する回答もあります。「問いかけ」のような語りになっている部分は、その時点での電子会議室利用者向けの「会話」であるとお考えください。
メキシコ五輪はわりと鮮明に覚えてますね。マラソンの君原、体操の加藤沢男、それと女子バレー。重量挙げの三宅も健在だったのかな。
冬期大会はグルノーブルでしたね。でも当時はスキーには興味も関心もなかったので、ジャン=クロード・キリーがアルペン三冠王になったと知ったのは、ずっとあとになってからです。キリーは92年アルベールビル大会では競技委員長をやってましたね。
ストラスブールも前々から行きたいと思っていた街である。もしかしたら、94年に引っ越してきたかもしれなかった。ストラスブール第二大学で講師をしていたPhillipe BRETONという研究者に師事しようと思ったことがあるのだ。電話で相談したこともある。BRETON氏もほぼ毎週、パリ第1大学に非常勤講師として通っているため、パリでも「弟子入り」は可能とわかった。結果的に、ほぼおなじ領域の研究がパリ第3大学でもできることが分かったので、そちらに進むことにしたわけだが。
ストラスブール自体は小さくて綺麗な街だ。フランスのエリート校ENAがあるとか、欧州議会が置かれているなど、典型的な文教都市といった感じだ。ドイツ国境沿いにあるため、いろいろな店でドイツ・マルクがそのまま使えた。
とくに有名な観光地がある、というわけではないが、ルクセンブルクには前々から一度行ってみたいと思っていた。アンの洞窟からフランスに向かうとルクセンブルクを通過することになるので、この機に一泊してみた。ただ、この街はEUの官庁街みたいなところなので、ちょくちょく大きな国際会議が開催される。この日も金融関係の会議期間中ということで、空いているホテルを探すのに一時間かかってしまった。
ルクセンブルク市は案外と起伏があり、城壁から見下ろす光景はなかなか絶景である。フランスのブルターニュ地方にあるディナンを大規模にした感じだ。
ベルギーは国土そのものは狭いけれど、そこはそれ、大陸の一部。けっこう雄大な景色やら名所があちこちにある。ルクセンブルクとの国境にも近い小さな田舎町 Han sur Lesse には大鍾乳洞がある。ここ、それほど期待して行ったわけじゃないんだけど、いやもうすごかった。
街中から小さな専用列車に乗って洞窟の入り口まで行き、そこからフランス語またはオランダ語のツアーに加わって見物するんだけど、日本の鍾乳洞とは規模がまったく違う。ジュール・ヴェルヌ原作の映画『地底大探検』の世界そのまんまです。
洞窟内の気温は一年を通じて13度に保たれているとのこと。この日は外も18度程度だったので、洞窟に入ってもそれほど寒いって感じはしなかった。足下がすべるわけでもないし、急な坂や段があるわけでもないので、3歳の娘もそのまま歩かせられた。まあ、小さい子にしてみたら、鍾乳石を見ることもままならず、ひたすら薄暗いところを歩かされただけ、だったかもしれない(笑)。
特徴のある鍾乳石には名前がつけられている。この石、なんて名前だったかいな。ヨーロッパの鍾乳洞だとたいていは「悪魔のなんたら」とか「天使のうんたら」という名称が多いのだけど、ここもその類だったような気がする。
グループの先導をしたのは、地元の大学の学生だった。もう何度もやっているんだろうね。石の名前から形成に何年かかっているか、なんて説明を、ごくごくスムーズにやっておった。
写真中央に映っている大鍾乳石、手前にいる子どもと比べれば、だいたい大きさを想像できるでしょ? 高さ約4メートル。推定で1万2千年がかりで出来上がった石だそうだ。表面にはほこりが積み重なっていたので、触ってもカルシウムの感触はほとんどなかった。
この洞窟、後半はかなり広い空間が続き、いちばん大きなホールでは、底から天上まで140メートルもあった。地底湖もちょこまかとあり、そのうちの一ヶ所では客席を設け、15分ほどの光と音響のショーをやってくれる。出来映えはぼちぼちってとこなんだが、地底のこんなとこまでライトやスピーカーを持ち込んだ努力は認める。
写真中央に映っている大鍾乳石、手前にいる子どもと比べれば、だいたい大きさを想像できるでしょ? 高さ約4メートル。推定で1万2千年がかりで出来上がった石だそうだ。表面にはほこりが積み重なっていたので、触ってもカルシウムの感触はほとんどなかった。
最後は地底湖から船で川下り。これがなかなかおもしろい。でもこういう「本物」を経験しちゃうと、ディズニーランドの「カリブの海賊」がえらくちゃちく感じてしまうんでしょうね。
パリからリスボンに車で行くには、正味二日間かかるでしょう。距離がたしか2300キロだっけかな。まあ、旅行の日程が二週間あればやってみたい気もするけど(笑)。
もし決行するなら、今回走った感じからすると、南仏まで一気に下ってバルセロナ側から入るよりも、ボルドーから大西洋岸に抜け、それからマドリッド、リスボンと進んだ方が楽そうな気がします。宿泊地はサン・セバスチアンあたりっすかね。
バルセロナはさすがにカタルーニャの州都だけあって、インフォメーションは〈フランス語できます〉印付きの係員がいました。
日本のジャーナリストのなかには、「1968年は現代日本の転換の年」と認識している人がけっこう多く、たとえば元毎日グラフ編集長の西井一夫氏は、近々『20世紀の記憶』というシリーズものを刊行するのだけど、その第一号が「1968年」というタイトルになる予定だとか。
実際、この年は、いろんな事件が集中してますね。日本では、金嬉老事件、三億円事件がこの年に起きている。全日空機墜落事件や永山則夫事件もこの年だったんじゃないか?
日本以外でも、「プラハの春」もこの年。メキシコ五輪で「体操の華」といわれたチャスラフスカは、粛清の恐怖と対峙しながら大会にのぞんだそうだ。
アメリカではアポロ8号の月周回が成功し、翌年の月着陸へとつながりましたね。
細かなところでは、東名高速の開通、吉田茂死去なども68年っす。
まあ、はっきりと記憶しているのは、三億円事件っすかね。あのときはみんな、「どうせすぐにつかまるだろう」って思っていましたわな。
あれからパリは連日25度を越す日が続いてます。
気流がかわるとこれですからねえ。
ちなみにスペインは曇りがちのようで。
原則的に「好きな大学へ行ける」ですね。
ただし、大学・学部によっては先着順なので、出遅れると入れないところもあります。二年前だったか、どこかの大学の医学部がミニテルで登録を受け付けたところ、二分ほどで予定数が埋まってしまい、ちょっとした問題になったことがありましたね。
Bac の成績が問われるのは、大学ではなく grandes ecoles に入ろうとするときです。こちらは Bacによるフィルタもあれば入試もあるので、日本の大学入試よりも厳しいといっていいでしょう。あと、就職のときなんかも、けっこう Bacの成績が問われることがあります。
フランスの大学のなかでも、パリ大学(とくに第4、第6、第9)は人気があり(場所柄のせいでしょうね)、そのために、毎年10〜12月は慢性的な設備不足状態になります。10月の新入学生のデモはすでに定例化してますわな。大学の方も、「さっさと半分ぐらい脱落してくれねぇかな」と思っているんじゃないっすかね、新学期は。
アメリカだって恵まれた高等教育機関というのは、けっこう入学のハードルも高いですね。まあ、誰もが入りたいと思うところにはかならず競争があるわけで、それはフランスだろうが日本だろうがアメリカだろうが、結局はおなじってことです。日本だっていまは総定員数の方が志願者数よりも多くなったんじゃなかったっけ。
ブートン氏はド・ディオン伯爵の(今でいうところの)メカニックかなんかだったんじゃなかったのかな。このあたり、ちょいうろおぼえ。
世界初の自動車レースといわれるパリ〜ルーアンの計時走行会(ド・ディオン伯爵の運転する蒸気自動車が一番時計を記録)は、たしか Porte Maillot がスタート地点になったハズですぜ。その近辺に記念碑があるそうっす。
葉書はまだ売っているでしょう。
ロワール河沿いは城とワインで有名なところ。アンボワーズは観光ラインのほぼど真ん中にある小さな街。トゥールから見て右岸側が県道で、こちらの方が街並みをぬいながら進めるんだが、途中、大型車を迂回させるロータリーで、国道側にそらされてしまった。ただし、城の全景を眺めるには、対岸側の方がいい。
アンボワーズの街に入ってからは、橋を渡って県道側に抜けた。橋の途中からは城や街並みが綺麗に見える。小さな街だけれども、見るからにうまそうなレストランが多々あった。本当なら二泊ぐらいはしたいところだが、この日はパリに戻らなければいけなかったので、泣く泣く通過した。
アンボワーズからブロワに向かう道すがらには、岸壁をくり抜いたワイン蔵がある。まあ、保温がいいってことなんだろう。時間が早ければ試飲をさせてくれるところもあるんだが、なにせここを通過したのが夜の8時(でも日没の1時間半前)だったので、どこもクローズ。
カルカソンヌを一泊で後にし、高速に乗ってペルピニャンで地中海沿いに抜け、そのまま高速でスペインとの国境を越える。風がえらく強かったが、これがたぶん「ピレネーおろし」か。フランスから地中海沿いに陸路でスペインにすすむと、カタルーニャ地方に入ることになるのだが、カタラン語という言葉はスペイン語とフランス語を微妙にミックスさせた感じだ。出口はフランス語が「sortie」、スペイン語が「salida」、カタラン語だと「sortida」である。
途中、「地球の歩き方」に乗っていない街に立ち寄った。穴場探し、という狙いがあったのだけど、結局そこはただの新興住宅地で、見ておもしろそうなものは皆無。きょうび、これだけガイドブックが発達すると、本当の穴場などないのかもしれない。
バルセロナに着いてからすぐにホテルを探す。Informationではフランス語が通じるので楽だ。市街地の便利なところに見つかった。しかし、そこには高校生の団体が止まっていて、夜中までうるさいこと。
バルセロナでは二泊した。ひととおりの観光地を見てまわったが、とにかくパエリアがうまく、三食つづけて食べてしまった。
このあとはマドリッドに行く予定だったのだが、高速道路情報によると、相当ひどい渋滞が出前に待ちかまえている。きゅうきょ目的地をトレドに変更した。これが大正解で、宿は城壁のすぐ外にこぎれいなところが見つかったし、旧市街地もノスタルジックな雰囲気がたっぷりである。城をとりまく周回道路から眺めた街並みは、本当に小さなおもちゃのようであった。
トレドでは都合二泊した。小さな街なので、二泊だけでもすみずみまで歩くことができた。ヨーロッパを旅するなら、大きな街も魅力的ではあるけれど、やっぱり田舎の歴史ある小さな街のほうが楽しめると再認識。
フランスでは三番目に人気のある観光地がカルカソンヌなんだそうだ。中世の城がほぼ原型のまま残っているのはここだけなんで、国内からの見物客が相当多いらしい。
パリから一気に車でカルカソンヌまで行ったはいいが、着いたのは夜になってから。とりあえず市街地でメシを食い、高速インター近くのモーテルに泊まりはしたが、城壁がどきにもない。これがフランスを代表する観光地なのか……と思ったが、じつはそこ、ただの新市街地だった。原型のまま残る城壁は、高台の上にあったのである。
城壁内は、ただの公園なのかと思ったが、登ってみてたまげた。街がまんま残っているのである。これは確かに見事で、狭い道がうねうねと続き、しかもそのことごとくが石畳。観光化されているのは仕方がないけれど、しばし中世にタイムスリップするような雰囲気をもたらしてはいる。
城壁に囲まれた旧地区は、野球のグラウンドぐらいのものか。そのなかに、ホテルが何軒かとレストラン、みやげ物屋が連なっていた。昔から住む住民もけっこういそうな感じである。
旧市街地を一通り眺めたあと、城の内部を見物してみた。城壁のところどころに立つ塔と、館、そして屋外の円形競技場をガイドの説明を聞きながら歩いた。だいたい30分ぐらいのコースである。
ただしこの日、えらく風が強く、体感気温は完全に冬に近い状態だった。日本から来た同行者の一人はこれで完全に風邪をひいてしまった。
一週間前のことなんだけど、日本出発の前日、神保町をあちこちひやかしていたところ、長嶋書店という古書店の店頭に、ポプラ社のルパン・シリーズの本が3冊、束ねられているのを発見。手にとってみたら、『8・1・3の謎』『三十棺桶島』『虎の牙』でした。
いやー、なつかしい。ポプラ社のこの児童向けミステリーは、小学校3、4年生のときに夢中になって読んだんですよね。もう三十年も前のことになるわけだけど。たしか全十五巻だったと思います。その三冊、セットで百円だったので買ってしまいましたが。
で、ちょっとした発見というのはそれだけじゃなくて、先日某古書店からもらった絶版漫画目録を眺めていたら、おなじくルパン・シリーズが、永井豪の手で漫画化されていたことがある、ということ。これは知らなかった。目録によれば、
奇岩城、S59初、小学館、並、800円
怪盗紳士、S59初、小学館、並、800円
ルパン対ホームズ、S59初、小学館、並、800円
金三角、S59初、小学館、並、800円
虎の牙、S59初、小学館、並、800円
八点鐘、S60初、小学館、並、800円
最近の古マンガ市場での永井豪の高騰ぶりからすると、状態が並でこの値段は、復刻ではなく実際にあたらしいものなのかな、なんて思うんですが、雑誌にこういう連載があったなんて話を、不覚にも知らなかった。
アンの洞窟は何度も行ってみたい。地底湖から地上に出るところは、それほど長い時間ではないけれども、けっこうわくわくする時間を味わえるのだ。ジュール・ベルヌ原作の映画『地底探検』の気分である(笑)。まあ、こういう大規模な洞窟を見ると、やっぱり大陸の一部なのだと実感する。