21世紀の日記
20世紀の日記

*この日記について

93年4月の日記は、パソコン通信NIFTY-Serveの「外国語フォーラム・フランス語会議室」に書き散らしていたものを再編集したものです。ただし、タイトルは若干変更したものがありますし、オリジナルの文面から個人名を削除するなど、webサイトへの収録にあたって最低限の編集を加えてあります。
当時の電子会議室では、備忘録的に書いた事柄もあれば、質問に対する回答もあります。「問いかけ」のような語りになっている部分は、その時点での電子会議室利用者向けの「会話」であるとお考えください。


1993年4月30日 ウェザーリポート

 ここ2〜3日、パリは日没頃になると雷雨に見舞われます。今日もさっきまで物凄い稲光でした。雨も一時期強かったので、道が水で溢れています。
 今頃の季節は気候が不安定なもの。特に先週辺りから日中は汗ばむような陽気ですので、雷くらいあっても不思議ではないでしょう。今週から私も半袖にしています。とはいえ、雷雨の後は気温が下がり、今日も雨が上がった後は息が白かったくらいです。

1993年4月27日 誕生日のプレゼント

 今日は級友の一人、ピエール・マルタンの誕生日であった。トマ、マリー・ピエールといった連中が数日前から何やらプレゼントを用意していた。今日になってそれが分かったのだが、なんとピエールが生まれた年月日のル・モンドであった。
 日本でもよく生まれた日の新聞のコピーを誕生日にとったりということはあるが、実物をプレゼントするところは始めて見た。彼らは一体どこで手に入れたのだろう。無論、ピエールは大喜びであった。
 1968年4月26日には何があっただろうか?昭和で言えば43年、3億円事件や東大紛争は次の年だし...。

1993年4月26日 ロイヤル・ウエディング!

 皇太子妃の報道は結構フランスでもなされているみたいですよ。伝言調でしか言えないのは、朝弱い私はテレビを見るヒマもなく家を飛び出しているからです。エンゲージの儀式も友人から教えて貰ったくらいです。ラジオだと国営FMのRadio Franceで毎朝必ず日本のニュースを報道しているといいますから、結構知っている人は知っている(当たり前か)ようですね。
 ネイティブ・チェックの入る和文仏訳の場合、バカ正直なくらい忠実に訳すのがコツだそうです。といっても単に単語を置き換えるのではなくって、説明調でくどいくらい丁寧に説明するのだそうです(以上はパリで長年翻訳をやっている人のアドバイス)。変にスマートな文章を目指すと、かえってリライターを錯覚させるそうですよ。

(1)キャリア・ウーマンについて

 une femme qui fait une carriere では、何となく事業とか文筆業とか、何らかの業績を挙げた女性という感じがしますね。私は「キャリア・ウーマン」に関する厳密なイメージを抱けないのですけど、「外務省のエリート官僚」ではまずいですか? フランスにもENA出身のエリート女性はいくらでもいますから、かえってフランス人には理解し易いように思うのです。
 Elle est une d'elite chez Ministere des affaires etrangers

(2)報道自粛について

 selection がちとひっかかりますね。単に「妃について」で逃げては?あと、なぜ自粛したのかについて説明が必要ではないかと思います。これについては「英国王室に見られるように...」なんてシャレを入れては?

 Les presses japonaises ont accorde de s'absetnir volontairement les activites journalistiques, en matier de future princess, qui pourraient entrainer certains influences funestes sur le processus de fiancailles du prince imperial nippon. On comprend bien que les activites journalistiques pourraient causer le malheur par rapport au prince, comme on a vu dans le cas de famille royale Anglaise!

 これ以上はボロが更に出そうなので「自粛」致します。
 皇室に嫁ぐと日本国籍及び名字を失うなんてことを加えると、日本社会での皇族の特殊な地位がフランス人に伝わるかも知れませんね。また、今のままだ次の次の世代で皇統が絶えてしまうため、雅子さんは男の子を3人生まなければならないとか(注:皇室の男子は秋篠宮以降誕生していません。年令的に男子を得る可能性があるのは紀子さんと雅子さんだけです。だから皇室典範を改正して「女帝」を認めるようになる可能性もあるとか...)。

1993年4月24日 春のフランス

 春の天気はフランスも不安定なようです。昨日は朝は曇り、午後から晴れ渡り、夕方俄雨。おかげて8時の夜空(?)に壮大な虹が架かっていました。今日は朝から暑いくらいの陽気で、空は雲が3分の1ほど。午後から晴れ渡ったのですが、今になって(夜9時)突然の雷雨です。

1993年4月23日 無難な悪態は(?)

 ははは、Merde 連発なら驚かれてしまうでしょうね。私がやった失敗(?)では、「et pourtant...」とつぶやいたつもりが、周囲には「et putaint...」に聞こえて顰蹙を買った事がありました。つい昨日も、データの入力をしていて、「MR」をちと間延びしたように行ったら、マリー・ピエールから Massa, pourquoi tu as dit "Et merde!"? と聞かれてしまった。
「Satut」と「Salaud」も時々間違えそうになります。
 無難な悪態は「Zut!」だけみたいですね。やはりマリー・ピエールに「merde」と「putaint」のどっちがマシか聞いてみたら、「merdeの方がマシ」ですって。彼女もしばしば「Merde!」と叫びます。

1993年4月23日 レギュラシオン

 レギュラシオン理論については本家のロベール・ボワイエの書いたその名もズバリの「The regulation school」という本があったと思います。一時期話題になった「資本主義対資本主義」(著者は忘れてしまった)も、アングロサクソン経済モデルとヨーロッパ大陸経済モデルの違いを述べたものだそうですから、レギュラシオンや日本モデルの話題が載っていると思います。そうそう、ロベール・ボワイエといえば「トヨティズム」という造語の言い出しっぺですね(注:トヨティズム=多品種少量生産システム。対立用語は「フォーディズム=大量生産システム)。
 幕末というのは、フランスがこれまでに最も日本に関心を寄せた時期ですね。大雑把に見ればイギリスが薩摩・長州支持、フランスが幕府支持。徳川慶喜愛用の軍服はナポレオン3世の贈り物でした。幕府内部は親仏派と中立派に分かれ、親仏派の代表が小栗忠順。実はこの小栗忠順が三島由紀夫の曾祖父だというから何やら不思議な感じ。中立派の勝海舟の後日談によれば、「西郷吉之助と坂本竜馬がいなければ、日本はフランスの植民地になっていたかもしれない」。そうなっていたら、我々は悲しきfrancophone?
 日本文化は「吸収期」と「醸成期」がサイクリックでしょ?だから西洋文化の吸収期の端緒である幕末は、新たな価値観の模索期と見るべきでしょう。自らの価値観を普遍化するどころが、多くの価値観が崩壊した時代であったと思うのです。天智朝の「中国信仰」と本質的には同じだという気がしますね。価値観の普遍化は「次の時代」の使命だと思います。
 で、今は「幕末の次の時代」という時代認識を私メは持っておりますので、価値観の普遍化が求められる。私の勝手な感想だと、最近は「和風」のステイタスが徐々に高まっているように思うのですがいかがです?

1993年4月22日 ECとナショナリズム

「平和」を国家戦略と考えるのはなかなか鋭い視点だと思います。ただし、この戦略も第二次大戦以前から存在していたと見るべきでしょう。ミクロのレベルでは戦争で利潤を挙げる経済活動も有りえますが、マクロではやはり「平和」の方に利が多い。
 この辺りの話しはワシントン大学ジョージ・モデルスキーの長波理論(覇権安定論の一つです)が参考になるでしょう。百年周期で世界的価値観を敷衍する覇権国家が「平和」をもたらし、やがて平和維持のコストによって衰退するというような理論です。覇権の移行期が「戦争」です。
 日本的モデルに注目しているのは、経済系ではドイツ、フランスの経済学者ですね。レギュラシオン学派はアングロサクソン型の自由競争よりも、ドイツや日本型の政府関与を認めた経済運営の方が、結果として社会全体の富を増大させると主張しているのです。貿易面でも、現実には自由貿易ではなく「調和主義」に基いた「実質的」管理貿易が台頭しています。これなども、日本的モデルが結果的に浸透しつつある例と言えましょう。
 思想面で言えば、価値相対性とか無常観なんて、ヨーロッパ的科学思想と根本的に異なりますね。尤もこの分野は日本的と言うより東洋的と言うべきかも知れません。現代物理や現代数学がヨーロッパの伝統的科学思想の限界に端を発し、むしろ東洋思想との親和性が強いというのは面白いことですね。
 戦後と言えば、私は江戸末期から太平洋戦争敗戦までを一つの展開と見るべきだと思っています。つまり、「幕末はペリーに始まってマッカーサーで終わった」というのが私の歴史観です。自分が歴史小説家だったら、この変革期に「竜馬の夢」なんて命名したいですね。フランスだって大革命一発で絶対王政が崩壊したわけではないですよね?安定期、すなわち完全な共和制に至るのに100年近くかかったはずです。

1993年4月21日 最高気温23度

 多分、今日のパリは今年一番の暑さでしょう。半袖姿でグラースをなめなめ歩く人の姿が突然目につくようになりました。日一日と日が長くなり、今は9時頃になってようやく暗くなります。日没は8時頃でしょう。
 学校のあるセルジーともなると土が多いため、そこいら中花で一杯です。花壇の花だけでなく、イヌフグリをはじめとする草花が一斉に咲き誇っています。そうそう、花壇のチューリップが今頃文字通り「満開」なんですよ。あのぼってりした花びらが全開がご開帳(?)ですからおかしなものです(何が?)。

1993年4月19日 【留学のために】(3)準備編[2]

 フランスの高等教育機関は多くの留学生を受け入れています。最も多いのはアルジェリアやモロッコなどのマグレブ諸国からの学生、次いでドイツ、イタリア等のヨーロッパ近隣諸国でしょう。アジア系は語学学校でこそかなり多数を占めていますが、大学等ではまだ小数派でしょう。
 言葉の問題で殆ど苦労がないのは当然ながらマグレブ留学生です。文語表現で微妙な違いがあるだけのようですから、まず言葉が障害になることはありません。反対に、四苦八苦を強いられているのはアジア系学生、特に中国系の学生と言えましょう。技術系の領域になると、テクニカルタームの問題が彼らに重くのしかかってきます。この領域になると実用レベルでは英語とフランス語の用語がチャンポンになっていますので、場合によっては仏漢及び英漢両方の辞書が必要になるようです。この点、我々の身近で外来語が氾濫していることは、文化的には不幸なことかもしれませんが、それなりに実利的側面もあるのです。
 案外ととまどいが多いのは英語圏の学生です。かれらは日常コミュニケーションで苦労することは比較的少ないのですが、やはりテクニカルタームで苦労することが多いのです。何しろ英語は世界の共通語という認識が強いですから、時事用語に案外弱点があるようです。技術系では英語がそのまま用いられることが多いとはいえ、経済用語は当然全てフランス語が用いられますから、このあたりでしばしば戸惑いを感じるようです。
 結論的に言いますと、高等教育機関では語学力と同じレベルで専門知識が重要になります。こんなことは当たり前と思う人が多いでしょうが、留学の際は案外とこの点が見落とされがちなのです。辞書レベルで多くの単語を知っているよりも、専門用語を深く知っている方が重要と言っても構わないでしょう。あまり語学力に目が言って、肝心の専門知識の表現力が置いていかれては、それこそ本末転倒です。教授と議論できてもマルシェで値切ることができない、そんな留学生が案外と多いのも事実でしょうが、反対にマルシェで値切れても専門分野で議論できなければ無意味なのです。

1993年4月19日 会社の暖簾

 私メは息抜きにいつでも旅行できる職に就くため、今はストックに励んでいるといえましょう。フランスでもバカンス・シーズン以外に自由に休みが取れるわけではないそうですから、サラリーマンである限り、犠牲にしなければならないことの一つなのでしょうね。パトリシアの話だと、フランスでも上長の命令で有給を取り消されることは決して珍しくはないそうです。「バカンス大国フランス」というのは結構誇張されたイメージなのではないかという気が段々としてまいりました。
 私はフランス行を決める時、「会社の暖簾」というものを考えずにはいられませんでした。名刺の中から社名を取ったら何が残るか? 自分の名前だけの名刺なんて誰も見向きもしてくれないだろう、そうなれば会社の指令には否応なく従わなければならないだろう、そんな恐怖に駆られたものです。
 フランスのエリートと呼ばれる連中は、会社の暖簾ではなく個人の交友関係を拠り所としているように思われます。極端な話し、会社がコケても個人のツテで新たな食いぶちを確保できる構造だと思うのです。だから、個人間のツテを広げたり維持することに、学生時代から熱心なのではないかと思うのです。
 いずれにしても「一人では生きては行けない」ということに変わりなく、どちらを選ぶかは趣味の問題だと思うのです。人付き合いも苦手な完全モラトリアムおじんである私メはできればどちらもパスしたいところなのですが、まあ、取敢ずはフランス式にツテ依存の方が気楽かな、などと思っています。

1993年4月19日 平和とは

 フランス人に「平和」とは?と尋ねれば、自分達の生活を平穏な状態に保つこと、という応えが変えってくるでしょう。これは他の国の人間でも多分同じでありましょうから、「平和」という概念自体は普遍的なものだと思うのです。ただ、「世界平和」などというと、それをどう実現し、管理運営するかという方法論の問題が絡んできますので、その背後に植民地主義の断片を見出すことは可能かもしれません。
 フランス人にとって「平和」は闘って勝ち取るものであり、勝ち取って得た「平和」は闘ってでも守らねばならないものなのだそうです。その意味で、平和と闘いは対になっていると言っても良いでしょう。戦後数十年間に亘ってひたすら自国の繁栄に専念できた日本は、極めて恵まれた状態にあったと言えるのでしょう。自立能力があることも事実でしょう。何しろ我々は自分達の通貨で貿易ができ、外国語を知らなくても生活ができる産業基盤を持っているのです。ヨーロッパですらこの点に危機意識を抱き、EC統合という戦略に至ったことを忘れてはならないでしょう。
 対外的に何もせずそれで問題を起こさなかったのなら、それはそれで平和を愛する行動と言ってもおかしくはないでしょう? 自分達の価値観を盲信してやたらと火種をばらまいた挙げ句、自国経済を崩壊させて世界中にとばっちりを与えている元超大国に比べれば、日本は「平和国家」のモデルの一つと言えましょう。
 自分達の理想に基づいた北欧国家の行動も、やはり「平和国家」のモデルでありましょう。ただ、これは彼らのモデルなのです。今の我々に必要な行動は、日本としてのモデルを示すことにあると言えましょう。言い換えれば、日本的な価値観の普遍化が求められているはずなのです。世間一般では「国際化」と言えば「外国を知ること」ですが、これは一面に過ぎないはずです。日本の国際化と言ったら、日本的価値観の普遍化が伴っていなければ不完全なはずなのです。我々がしなければならないこと、それは漠然と表現するならば日本的価値観を明確に認識し、普遍化できる部分を普遍化することだといえましょう。今日世界常識と言われている「自由貿易」が、元々はアングロサクソンの世界観であることを忘れてはなりません。
 まあ、十代の少年少女に国の問題を尋ねても、私メはあまり多くの内容は期待できないと思うのです。ヨーロッパの20歳前後の連中は尤もらしく「演説」しますが、現状認識の足りなさは如何ともしがたいように思うのです。中には立派な活動をされている人もいるのでしょうが、平均的に見て皮相的と言って構わないでしょう。かく言う私メもまだ小僧っ子でございますが。

1993年4月17日 【留学のために】(3)準備編[1]

 手続き編がまだ未完ですが、語学力の話題が出ましたので、準備編を先行させたいと思います。一応次の構成で考えています。

 1:語学の問題
 2:家探しの問題
 3:フランスでの行政手続き他

 今回は語学の問題パート1です。
 語学の問題は留学では確かに大きな障害の一つでしょう。ただ、私は語学力の問題とコミュニケーションの問題を分けて考える必要があると思います。これについては次回述べましょう。
 端的にどの程度の語学力が必要か? 応えは簡単、あればあるだけいい。本当に他に言い様がないのです。ただ、確実に言えることは最低レベルとして中級レベルが必要不可欠ということです。付け焼き場でしのいだものは忘れるのも速いもの、私は集中コースの価値や意義を否定する意志は毛頭ありませんが、こと留学のためということであれば、極めてオーソドックスな方法が結局早道だと思うのです。日本の日仏やアテネの週2日正規授業でも、複数の講座を同時並行させたりアラカルト・コースを交えれば、例え今初心者であっても3学期(9ヶ月)フランスの語学学校の上級コース履修レベルに達することは不可能ではないでしょう。反対に、中級すら終えずにフランスに行くなどというのは、時間の無駄意外の何物でもありません。無論、語学留学はまた別問題で、ここで対象としているのはあくまで語学留学以外を目的とするものです。
 結論から申しましょう。中級の実力さえあるのなら、チャンスがある限りとっととフランスまで来てしまった方がよい。語学力を心配して出発を1年遅らすのは上策ではありません。これは他の留学生も肯定していますし、私も同感でした。私はNSF3のUnite 2が終わった状態で来仏し、パリのアリアンスでエスパス3を2ヶ月の集中コースで修了させました。始めはもう一年待ってNSF3を終え、少し会話を習ってからとも思いましたが、友人や現在の学校の学長が早目に来仏した方が良いとアドバイスされました。
 私は上級コースの履修を否定するつもりはありませんし、フランスで語学学校に通う場合も日本で既に上級コースを修了しておいた方が有利であることは言うまでもありません。理解して頂きたい点は、日本での苦労はフランスでの苦労を「多少楽にする」ものであって、決してフランスでの苦労を「なくすものではない」という違いです。日本で勉強していると「通用すれば嬉しい」ですが、フランスでは「通用しないと困る」のです。その意味で、同じ苦労するのなら、フランスで苦労する方を選ぶ方が、こと留学に関しては効果的だと思う次第です。日本の語学学校上級コースは商業ベース、研究ベースの交流には効果的だと思いますが、留学にはさらに日常生活ベースのコミュニケーションが必要なのです。これはネイティブと日常的に接しないことにはどうしようもないのでは?

1993年4月17日 RE:ECとナショナリズム

 以前、アルジェリア人と「愛国心」について議論したことがありました。まあお互い殆ど見解の相違がなかったせいか、口から泡をふいてなんてことにはなりませんが、共通の合意点として、「NationalismeとChauvinismeとPatriotismeは違う」という点でございました。一般にナショナリズムと呼ばれるのはむしろChauvinisme でありましょう。そして現在吹き荒れている「ナショナリズムの嵐」とやらも、正確にはChauvinisme ないしは生活確保の闘いでしょう。
 この辺りの違いは、要は文化的視点があるか否かという点です。自分の文化的アイデンティティを確保しながら相手の文化を尊重できる、彼女と私の合意ではこれがPatriotisme なのです。他方、Nationalismeというと、相手の文化への尊重が嘲笑に変わる、さらにChauvinisme になるとそれを否定、排斥するに至るというわけです。私メの感想としては最近は「メシくいたい」がこれらとは別に台頭し、結果的にChauvinisme と結びついたという気がします。もともとChauvinisme は政治的欲求であり「メシくいたい」は経済的欲求ですから、本来は別個のものなのです。ただ、現在の政治・経済情勢のもとでは目的が同じなので、運動の上では全く同じに見えるし容易に合体しやすいものでもある。「日本は拝外的だ」というご意見も出ましたが、以上の視点から捉えると単に「異文化」という視点が欠けているだけなように思うのです。ですから、拝外主義と言うよりも、国家的極楽トンボ主義と言うべきでしょう。
 フランスのナショナリズムについて少々感想など。極く大雑把には、「Patriotisme 」が極めて強いと言えましょう。無論、これは良い意味にとって下さい。あれほど自文化に強い誇りを抱くフランスで、東洋やアラブという全く異質な文化の研究が、世界で一番進んでいるという事実を忘れるわけにはいきません。
 その一方で、平均的フランス人はきわめてつつましやかな生活(これは東京やニューヨーク辺りの市民生活と比べれば、本当に質素極まりないもの)を送っており、その防衛意識もすこぶる強いといえましょう。徹底した保護貿易主義はここに端を発していると言って構わないでしょう。ささやかな生活を維持するためには糧を得る手段が要る、その手段を「奪う」っているのが、形の上では日米の超近代産業であり、移民労働者となっているのです。
 EC統合の賛否はこの視点からは完全に一致しているのです。唯一の違いは、統合推進派が「防衛のためには戦線を全欧州というフレームに広げないといけない。でないと日米に個別撃破される」と主張するのに対し、反対派は「戦線を広げることで、かえって内部崩壊が先に来る」と主張しているのです。ですから、生活防衛意識の強い労働者の支持を背景にした左右両極が反対に回ったのは、長・中期的戦略よりも短期的危機意識を前面に出したものと言えましょう。いずれにせよ両者の違いは国の取るべき「戦略」ではなく「戦術」の違いという気がします。

1993年4月17日 経済大国はフランス語で...

 確か以前、「経済大国」はフランス語では何というか、ってご質問がありましたね。ようやく思い出しました。新聞などでは puissance economique 表現しているようです。ですから「世界第二位の経済大国」と言う場合は、 la deuxieme puissance economique mondiale となります。英語でも「大国」は「power」ですから、同じ構造ですね。最近は「経済超大国:economic superpower」という表現がTimeなどでは多いようですが、「superpuissance economique 」はまだ見たことがございません。

1993年4月15日 スリにご用心

 ごく内々でスリの被害が発生しました(誰が被害に遭ったかは本人の名誉のため特に秘する。私メではございませんぞ、念のため)。場所は多分メトロの中か、メトロに入るときの入り口だとのことです。さすがに相手もプロとあって(?)、いつ被害に遭ったかははっきりとは分からなかったそうです。
 幸いにして被害は財布とクレジットカード1枚、現金200Fほどとテレホンカード2枚だけ、しかも保険に掛かっているので現金などは戻ってきます。これは不幸中の幸いというべきでしょう。
 クレジットカードは即24時間サービスに電話して利用ストップ、被害翌日には警察に届け出ることになります。無論、盗品が返ってくる可能性はゼロに等しいですが、カードのトラブルや保険のために届け出は必要です。以下にその手順をお知らせしますので、旅行中万一被害に遭遇したときの参考に。

(1)居住地区または被害場所の管轄警察署に行く。
(2)Declarationの係に赴く。
(3)自分の身元、被害状況等を述べる。
(4)被害届の写し(署名入り)を貰う。

 さすがにスリの多い所とあって、以上の手続きは機械的に行われます。(3)で申告する内容は次の通りです。

 3-1:被害者の氏名、年令、国籍、住所等(身分証明書提示)
 3-2:被害場所(メトロ何番のどことどこの間などと申告)
 3-3:被害の日時
 3-4:被害内容の詳細(サイフの色・材質、中身、金額など)
 3-4.bis:カードがある場合はカード名、カード番号も聞かれる。ただし、
      番号が不明の場合は「分からない」でも可。

 なお、「どこで被害にあった?」という質問では動詞「se produire」が使われたので、一瞬何を応えてよいのか分からなかった由。たしかに「生じる」という意味はあるが、どうも「se passer」でないとピンとこない。
 友人の話しによると、メトロ内のスリは最近とみに多く、バッグの口をしっかり閉じていても底をナイフで裂かれて盗まれるケースもあるそうです。従って、メトロの中ではバッグを自分の前側に置き、できれば底をかかえるようにして持っていた方が良いとのこと。

1993年4月15日 ライティング・コミュニケーション

 グランゼコールのコミュニケーションの授業も、結構似たようなもんではないかなって気がしますね。演習問題なんかまさしく「ランデヴーを取る手紙」「短い新聞記事を2つ」書いてきなさい...それだけでございました。
 私は商売柄、レポート、雑誌論文や投稿の類は年間1,000頁以上書いておりまして(典型的粗製乱造)、ある程度モノを言う資格があると思います。これまでの経験から、日本の学生はピントがはっきりしない、フランスの学生はつまらないことをクドクド書き過ぎるという傾向があるように思います。何だか日本料理とフランス料理の違いのようです。
 商業文でも日本はアメリカに比べて決まり文句が多いように思われますが、フランスなどは日本に輪を書けて定型的パターンが多く、芝居がかったような感じさえ受けます。これも時代と共に築かれたプロトコルなのでしょう。慣れようと思えば本当に場数を踏むしかないですね。
 論文や発表で文章を作るのは非常に困難な作業ですが、一つだけちょっとした逃げ道がある。それは図表を多用することです。概してフランス人の書くものに図表は少ない、あってもえらくセンスがない。ただ最近はマックなどが普及してきたおかげで図表を好むようになりつつあるらしく、要所要所を図表でカバーするのは有効な手段だと思います。
 私、プレゼンをする時も黒板に図を書きまくります。無論、OHPも図や個条書きで満載させておきますが、それに輪をかけて図の書きまくり。ひょっとして、発表中に喋っている言葉って「Comme ca」「Voila」くらいではないかと思うこともある。
 プレゼンの際は数字の連発も有効。なにせフランス語の不気味な数字のせいで(?)、連中はえらく数字に弱い。有効数字一桁で構わないから数字を連発することは、連中の煩い質問を封じる決定打でございますぞ。

1993年4月11日 フジェール

 レンヌを出たのは夜11時に近い時間だった。日中こそ雨が降ったり止んだりであったが、夜になったら雲一つ見えなくなった。フランスに住み始めて初めて見る澄み切った星空である。
 稚内でも感じた事だが、緯度が45度以上になると北極星が空高く輝いているという感を受ける。ましてや稚内より遥か北に位置するレンヌともなると、北極星を「見上げる」という感覚だ。空低くにカシオペア座の姿も認められたが、この緯度になると1年中地上に姿を見せている。カシオペアがこの位置なら、北斗七星は天頂付近であろう。木星の圧倒的な輝きも見えた。
 ずっと運転しっぱなしのパトリシアには申し分けなかったが、後部座席で体を大きくのけぞれせ、リアウィンドゥからしばし星空をながめた。窓越しでもかなりの星の数が見えた。アブデルに「星を見るのが好きか?」と尋ねたら、即座に「オレは詩人じゃないから寝るほうが好きだ」という応えが帰ってきた。
 この日泊めてもらうことになっているパトリシアの両親宅に着いたのは、夜12時頃であった。家の途中にライトアップされた古城の姿があった。運転疲れにもかかわらず、パトリシアはその周りを1周してくれた。封建時代のものとしては一番古い城だということだ。明日帰る前にゆっくり見物しようということになった。
 旅行に出ると、初日こそ寝つきが悪いものの、第2日目からはどんな場所でも寝られるのが特技であった。しかし、ブルターニュ3泊目のこの日はなぜか寝つきが悪かった。頭を洗っていないからだろうか?
 朝9時頃アブデルが起こしにきた。寝ついたのが2時過ぎと思われるので、カナッペのベッドから出ても足元がフラついた。下に降りるとパトリシアの両親は勿論、アブデル達も朝食を終えた後だった。
 アブデル達は近くに住むパトリシアの祖母に挨拶してくると言って出かけていった。残った我々2人はまだぼっとする気分のままで、パンとコーヒー、チーズだけの朝食を取った。パンを簡単に浸すことができるよう、小さなボールでコーヒーを飲んだ。パトリシアのお母さんは我々の昼の弁当として、サンドウィッチを作ってくれているところだった。
 アブデル達が帰ってきた。みやげに鳥や魚の形をした中空のチョコレートを買って来てくれた。イースターの週間だということだ。子供達はこのチョコレートを庭に隠すという習慣もあるそうだ。鳥の形をしたチョコレートには、ひよこや卵の形をしたチョコレートが入っていた。魚の中は魚であった。
 パトリシアの両親の見送りを後にして、我々は帰路に向かった。途中、昨夜レイトアップされた姿だけをぐるりと巡った古城に足を止めた。城そのものは戦災のために外壁と見張り台が残るのみであるが、堀や町並みはまだ昔の面影を留めているようだ。
 駐車場に戻ってさあ城を1周しようという頃、突然パトリシアの両親がやって来た。何事かと思ったら、昨日我々が買ってきた牡蛎を冷蔵庫に忘れて行ってしまったのだった。城に寄ってから帰るということを知っていたので、わざわざ車で追いかけて、届けに来てくれたのだった。
 城の裏側に回ると、旧市街とでも言うべき古い町並みが残っていた。城自体が11世紀のものなので、この町並みが成立したのも900年前ということになろう。源氏物語の時代と大差ないのだから驚きである。一番古そうな建物は半ば倒れかけていたが、衛星通信のパラボラがちゃんと立っているところが「現役」であることを示していた。ちょっと古い建物には壁に聖マリアのミニチュアがはめ込んであった。雰囲気としてはドイツの町に近い。
 城を後にして、我々は4日前に来た道を逆に辿った。フジェールを出るころ曇りだった天気も途中から晴れてきた。ル・マンを過ぎ、再び北海道のような風景を何となく眺めていた。渋滞に出くわすころには、モンパルナスタワーの姿が見えてきた。
 パリに住み初めて10ヶ月経ちました。この時期をフランスで迎えるのは3度目の経験なのですが、パリ及びパリ近郊以外の土地を訪れるのは初めての経験でした。果たしていつまでフランスに滞在できるかは分からない(実際、10月で帰国という可能性もあります)のですが、これを機会にまたどこか訪ねてみたいものだと思っています。
 因みに、昨年9月より流通が始まった20フラン硬貨の裏は、今回訪れたモン・サンミッシェルがデザインされています。

1993年4月10日 レンヌ

 レンヌには8時過ぎに到着した。途中でレンヌ大学の学生寮に住むサレと別れた。学生寮とは言っても高島平の団地のような大規模な建物群である。パトリシアも学生時代はそこで過ごしたそうだ。
 レンヌに着いてから、どこで食事をするかであちこちをフラつくことになった。こういう時は観光客の方がスパっと決めてしまうのだろう。なまじ地元の人間だと、かえって持ち駒が多いだけにあそこがいいここがいいと迷う羽目になる。結局、アブデルが一度だけ入ったことのある「馴染みの(このあたりのレトリックは彼もアラブ人である側面をよく示している)」ドイツ料理屋に入ることとなった。
 パリにしても地方にしても、大衆的なレストランは本当にサービスが気持ちよい。フランスにハイテクとサービスは存在しないとは、口の悪い日本人の口癖であるが、レストランのサービスは文句なくフランスの方が良いように思われる。特に大衆的な所の親しみやすさは格別だ。打算的な意味ではなく、やはりチップが収入源であることの影響だろうか。少なくとも、職業意識に大きな違いを持たせるように思われる。日本のタクシーのサービスが悪くなったのは、チップの習慣を廃したためだというタクシー運転手のコメントを思いだした。
 カミさんは念願かなってシュークリュートを食した。これにはジュネーブで苦い思い出があったので、私は肉の煮込みを頼んだ。向かに座ったロランスも同様であった。他の面面も皆シュークリュートであった。
 2時間ほどを食事に費やした後、レンヌに住むサイッド、ロランスを別れることとなった。道のド真ん中で別れの儀式である。ちゅっちゅっ。アブデルとサイッドも男同士のアンブラセである。

1993年4月10日 サン・マロ

 ディナンでしばしタイムスリップを味わったあと、我々はサン・マロに向かった。古い町並みで有名な港町で、イギリスとの定期航路があるため、イギリス人観光客が特に多い町でもある。
 日曜で天気もまあまあとあって、町の中は人込みでごった返していた。駐車場も当然満配で、我々は城壁の門からはかなり離れた埠頭の部分に路上駐車した。車のすぐ横には小型のフェリーが停泊していた。
 城壁の外側からの眺めは、まるで絵に書いたような古い町の造りである。見晴らしの塔にはフランス国旗の他に、ブルターニュ地方の旗、サン・マロの旗などが翻っていた。ディナンもそうだが、何となくドイツの町並みに雰囲気が似ている。建物の木組み、屋根の形なども、ドイツの中くらいの町にありそうな雰囲気である。ただ、不思議なようだがドイツよりも質素な色彩である。
 城門の中は人、人、人である。恐らく住民よりも多くの観光客で賑わっていたことであろう。耳に入ってくる言葉はフランス語よりは、むしろ英語やドイツ語の方が多かったように思われる。東洋人の姿は殆ど認められなかった。
 建物の造りや城壁の雰囲気は確かにヨーロッパの古い町の魅力に満ちていた。ただ、ゆっくり町の顔を眺められる点で、ディナンの方が印象的であった。町そのものは確かに一見の価値はあるが、ここではタイム・スリップを味わうには至らない。
 町を一度突っ切って、海沿いの門から一度波止場に出た。ここを城壁沿いに回り込むと、砂浜が広がる一角に出た。城壁がそのまま防波堤のような形になっていて、途中一箇所梯がかかっていた。ここから浜に降りることができる。城壁沿いに進める道は途中で途切れており、その先には海の中の根に建てられた小さな見張り台のような建物が見えた。
 ここを一度引き返し、途中にあった小さな船着場の先端まで行ってみた。この時は干潮だったらしく、船着場の左右は所どころ水たまりの残る干潟が広がっていた。その干潟の上を丸々と肥ったカモメが歩き回り盛んに足跡を残していた。サン・マロ近辺は牡蛎等がふんだんに採れるので、恐らくカモメもえらく栄養が良いのであろう。
 船着場の先端でほんの一時海を眺めた後、再びサン・マロの町に戻った。午後も暫く経った後なので、皆空腹であった。そしてサン・マロで食事をするとなれば、自動的にガレット+クレープである。
 最初にくぐった門の近くに手軽なクレープ屋があるとパトリシアが言うので、皆一目散にそこを目指した。途中古い教会があり、数分だけ中を覗いた。教会の造り自体はパリ市内にある教会と大差ないのだが、ステンドグラスの色合いがモスグレーや煤けた黄色を中心にしており、パリのカトリック系教会より地味な印象を抱かせた。
 教会沿いに巡る道は人通りも少なく、古い倉庫風の建物などもあって一瞬ディナンと同じような感覚を抱かせた。尤もこの気分を瞬く間にぶちこわしたのが、教会沿いの一角から放たれたPispisの刺激臭である。
 3時頃の遅い昼食をサン・マロのクレープで取った。ブルターニュ標準プロトコルに従い、まずはシードルで乾杯、そしてガレットを一皿である。残念ながら、シードルを飲む器はグラスであった。パトリシアが「ちぇっ!」と舌打ちしていた。
 モン・サンミッシェルで私は「oeuf, jambon et fromage」を頼んだが、今回はフルトッピング、つまり「galette complete」を頼んだ。値段は20F、味はこちらの方が良かった。他もだいたいcompleteを頼んでいた。アブデルはバターを「大盛り」で頼んでいた。
 一皿でもかなりボリュームがあったため、追加のクレープには至らなかった。デザート代わりのコーヒーを一杯飲んだ後、サン・マロを後にすることになった。何やらガレットを食べに来たようなものであった。
 サン・マロの次に向かったのは、カンカール(Cancale)の港である。何でもここでは海産物を直売しているそうで、牡蛎の買い出しに行こうということになった。サン・マロの東約20kmほどの所である。私は横浜の雑踏育ちなので、港のあるところはやはり楽しい。今では横浜の海に砂浜はなくなってしまったが、私が小学生の頃は屏風浦(京浜急行で上大岡の1駅先)は潮干狩の名所だったし、京浜富岡は海水浴で賑わっていた。磯子や本牧にはよくアイナメ釣りに行ったものであった...。
 既に6時近くだったため、牡蛎の直売をする店もそろそろ帰り支度を始めていた。干潮の海には牡蛎の養殖を行っているらしき囲いがむき出しになっていた。堤防の下では牡蛎の殻から身の残りをつっついたいたカモメの姿が見られた。栄養が良いせいか、このカモメどもも恐ろしく肥っていた。
 アブデルとパトリシアが牡蛎を買い出している間、残る者達はかすかに虹の残る海を眺めていた。ブルターニュ地方はどこかで必ず雨が降っているのであろう、虹の姿が全く珍しくなくなった。ロレンスが何か急に呼びかけた。海の向こうに浮かぶヨットの横に、モン・サンミッシェルが見えると言うのだ。目の悪い私であるが、確かに海の彼方にキス・チョコのような姿をおぼろげに認めることが出来た。
 アブデル達が戻ってきた。全然値切れなかったと不満気であったが、袋に一杯の牡蛎を持ってきた。「牡蛎のツラ」を拝むためには、あの堅い殻を自分達でこじ開けねばならない。
 買い出しが終わった後、レンヌに戻ることにした。駐車場までに戻る間、古い小さな大砲が無造作に置いてあった。下の話が好きな私はここぞとばかり大砲にまたがり、「Voila, mon canon!」と騒いだ。この種のジョークが好きなのは世界の男共通?アラブ人特有?それとも我々固有?なのか、サレとサイッドが写真を撮るからそのままでいろと叫んだのであった。

1993年4月10日 ディナン

 最初に到着したところはレンヌとサン・マロの間にあるディナン(Dinan)という古い街であった。ここは「地球の歩き方」には載っていないものの、フランスではかなり有名な観光地だとのことである。中世の町並みがそのまま残っており、歩いているとタイムスリップしたような錯覚に陥る。街にはかなり高い橋を渡って入るのだが、中心街から石畳を下りながら12世紀の建物と身近に接することが出きる。馬籠や妻籠の規模を大きくしたような感じのところである。
 古い建物は喫茶店、レストラン、あるいは陶器の工房になっていた。坂を下る途中時折振り返ると、写真好きなら殆ど進むことが出来なくなるような「絵になる風景」が延々と続くのであった。レンタカーでブルターニュの旅を計画されている人には、絶対にお勧めできる場所である。
 坂を下り切ったところ、そこは川沿いの道である。仰ぎ見る橋は遥かかなたにあるという感じだった。駐車場まで戻るためにはそこまで登らなければならない。そう思うとますます遠くに見える気がした。
 坂の途中から見下ろす川沿いの倉庫群も見逃せない光景である。街道の商人の街として、歴史の教科書に出てきそうな景色である。坂を登り切って道を渡ると城壁にさしかかるが、ここにはライトアップの設備があった。
 しばしタイムスリップの散策をした後、俄雨が降ってきた。空の半分は青空だし、太陽もまだ姿を見せている。私が空を指して「Mariage du renard」(「狐の嫁入り」のつもり)と言うと、サイッドやアブデル達が驚いたような顔をしていた。理由を聞いたら今度は私が驚いた。モロッコではこういう天気雨を、「Mariage du loup」(「狼の嫁入り」)と言うのだそうだ。狐も狼も種類から言えばイトコのようなもの、表現の不思議な符合に全員で大笑いした。そういえば、アラビア語で「toi」は「アンタ」(女性形は「アンティ」)と言うことは以前教えてもらった。ここぞとばかりサイッドの肩を叩いて「あんた!」と言うと、再び笑が盛り上がった。

1993年4月10日 レンヌ

 さすがにパーティ疲れのため、皆起きてきたのは11時頃で、それからパンとコーヒーだけのブランチを済ませた。ヨーロッパの人はしばしばパンをコーヒーに浸して食べる。実は私のオヤジもかような癖があったので、私にもそういう習慣があった。ここでも皆ちゃぷちゃぷとコーヒーにパンを浸して食っていたわけであるが、面白いことに、パンを簡単に浸せるよう、コーヒーはカップではなく小さなボールについである。
 出発前、ティエリーからポルトガルを旅行したときのアルバムを見せて貰った。ポルトガルの女性が荷物を運ぶ際、インド人のように頭に乗せる光景が珍しかったと言っていた。我々はヨーロッパというと一つのイメージで捉えがちであるが、実際ポルトガルの寒村の風景はむしろインドや東南アジアに似ていた。すくなくともフランスとは全く異なる。
 アルバムを見せて貰った後、ティエリーが車庫を見に来いという。私はてっきり中古のスポーツ・カーでもあるのかと思ったが、車庫の中にはモーターボートが入っていた。ティエリーの趣味は釣りなのだそうだが、ここまでやるとはさすがである。「残念ながら海の上では写真が撮れない」というので、私はすかさず愛用のニコン・ピカイチカリブを見せた。これは距離計タイプの小型カメラながら、水深5mまでOKという全天候型のスグレものである。あまりに価格を安くしすぎたので、ニコンがあっさりと製造中止にしてしまったそうだ。2,000Fで買ったと言うとティエリーの目が輝いた。今は全く入手不能だと言うと、本当に残念そうであった。
 パリでの再会を約してティエリー&ベロニック宅を後にした。この日はまずはレンヌの待ちを見物しようということになった。
 レンヌの中心街の駐車場に車を止めると、アブデルが何やらとある喫茶店に向かった。彼は1年だけレンヌに住んでいたそうでる。レンヌ大学にはモロッコ人学生が多く、彼の友人の多くがまだレンヌに住んでいるそうだ。煙草の煙が濃厚に漂う喫茶店の一角に、アブデルを始めとするアラブ人のグループがいた。彼の見込み通り、友人立ちがたむろしていたのだ。我々もその輪に加わった。20分ほど雑談した後、その中の一人が「オレが案内してやる」と言って、我々を街見物に連れて行ってくれた。
 ブルターニュはフランスの中で一人当たりのアルコール消費量が最も多い地域だそうだ。アブデルの言によれば、「レンヌには飲み屋しかない」そうである。これはさすがにオーバーだとしても、最初に我々が通過した通りは確かに左右どこを見てもバーかブラッスリーであった。繁華街の飲み屋密度、住民の気位、街の古さ等を考えると、日本で言えば金沢に相当するようなところだと思った。
 さすがにレンヌ在住者の案内とあって、観光ガイド頼みとは趣の異なる案内をしてもらった。突然普通の建物に入ったかと思うと、「ここの階段は造りが古いから面白いだろ?」とか、古い城壁の一角に入って、「あの中華料理店の地下はディスコになっているんだよ」といった調子である。途中雨に降られたが、1時間ほどかけて主な見所を案内してくれた。
 と、ここまで書いていて自分の記憶違いに気づいてしまった。以上の出来事は9日(土)のことで、モン・サンミッシェルからベロニック宅に向かう途中の事であった。
 4月10日はアブデルの幼なじみの住むアパルトマンに向かうところから始まったのでありました。
 で、レンヌのアパートでアブデルの幼なじみサイッド、そのルームメイトのロランス、サイッドの友人でレンヌ大学生サレの3人と合流した。我々4人と併せて合計7人でドライブである。

1993年4月9日 モン・サン・ミッシェルにて

 窓からこぼれる光はグレーがかっていた。どうやらこの日は雨男アブデルの勝利を予感させた。
 徹夜明けの疲れが手伝って、起きた時には既に12時をまわっていた。パトリシアの両親は既に出かけていた。昨日聞いた話しでは、シャトー巡りの25kmハイキングに行っているはずだ。我々はアブデル夫妻とパリにいる時と代わらぬ遅い朝食を取った。当然、パンとコーヒーだけのコンチネンタルである。
 この日は海上の寺院として有名なモン・サン・ミッシェルに向かった。フジェールから約50km、途中の景色は相変らず富良野・美瑛である。途中から雨が降り始め、雨男アブデル曰く「これがブルターニュの週末さ」。
 私は横浜育ちゆえ、海と言えば丘の向こうに見えるものという感覚が強い。湘南海岸でさえ、鎌倉の山を越えた向こうに広がる。だから、ブルターニュのようになだらかな丘陵の果てに海があるという光景には違和感を覚えた。潮が引いていたこともあって、海というより干潟の中という雰囲気であった。
 小雨が時折パラ着く中、突然モン・サン・ミッシェルが浮かびあるようにして視界に飛び込んできた。近づくにつれて絵や写真でおなじみのキスチョコ型輪郭がはっきりしてきた。島に至る道の両側が駐車場になっているのだが、路上の駐車スペースは既に満配で、結局先端部にある有料駐車場に止めることとなった。風がかなり冷たかった。
 島の門をくぐると案内板が立っていた。満潮の時間も記されていた。そして、案内板にはフランス語、英語等に交じって、日本語の説明も書かれていた。フランス駐在の日本人は必ず訪れる場所というから、かなりの数に上るのであろう。尤も、オペラ座界隈とは比較にならない。
 島に入ってしばし狭い坂を上る。両側は古い石造りの建物を利用したみやげ屋でいっぱいである。ちょうど京都の二年坂、參年坂辺りに渋谷のスペイン坂風猥雑さを加えたような雰囲気である。場所が場所だけあって、英語をしばしば耳にした。ここではイギリス人がおのぼりさんである。


 まるで江ノ島のようなモン・サン・ミッシェルのロケーション、ぐるりと一周した後は教会に上ろうとした。生憎とその時は昼休みだったので、30分ほどカフェで時間を潰すことになった。
 午後の見学開始時間は1時45分からである。2分前に入り口に着いたのだが、まさに門前に列をなす状態であった。結局開門からチケットを買うのに30分以上かかってしまったが、タイミングの悪いもので、この頃から雨足が強くなってきた。
 中にあった日本語の解説版(!)に、教会とブルターニュ地方の簡単な説明が載っていた。建設は11世紀のことで、英仏100年戦争の折は要塞となっていた由である。パリ市内にある教会より質素な作りで、ステンドグラスもかなり控えめな色遣いだった。天井も板張りである。
 上部の中庭とそれを囲む回廊は一見の価値がある。礼拝堂からその回廊に出たときは、外の光と中庭の緑がとても眩しく、繊細な造りの小さな柱の並ぶ光景に一瞬声が漏れてしまった。回廊自体は一周数十m程度のものであるが、半周した辺りから教会の塔を覗き込むことができ、また振り返れば断崖絶壁から眺めるような海の光景が広がる。
 教会内部は見学用の順路が設定されており、1時間もあれば丹念に見てまわることができる。最後の6番のところで人垣ができていた。格子戸が閉まって中に入れないようになっていたのだ。ところが、戸の下の方で日本語で何やら呟いているフランス人女性が、必死に鍵を明けようとしていた。しばし他のやじ馬たちと眺めていると、どうやらフランス人ガイドと一緒に旅行していた日本人家族がいて、子供が戸の鍵を締めてしまったらしかった。ヤジ馬たちはてっきりここを通過しないと帰れない思っていたので、心配気に事の次第を眺めていた。最後は結局かのガイドが「右側から降りられますよ」と一言、それから行列はしずしずと降りていった。
 教会を一通り見た後は、風も出てきたし昼も食べていなかったので、モン・サン・ミッシェルを後にすることになった。ここはライトアップされるので、黄昏時や月夜の晩などはさぞ美しかろうと思われる。次に訪れるときは是非とも満月の夜に訪れて、ムーンライト・セレナーデなどを口笛で奏でたいものだ。人さえいなければさぞロマンチック、と言いたいところだが、人気がなかったらさぞ不気味であろう。こういう所は観光化されてちょうど良いと思った。
 ブルターニュの食べ物と言えばやはりクレープであろう。私もかつて横浜元町のブール・ミッシュにしばしば通ったくらいなので、ブルターニュ旅行の楽しみの一つがクレープであった。
 ところで、パリでもちょっとしたCreperieなら「Crepe」と「Galette」をはっきり区別している。辞書によればガレットは「そば粉を使ったクレープ」とある。実際、クレープとでは使っている小麦が違うので、腰の強さや色が当然異なる。もう一つ、両者の「具」がはっきりと区別されている。
 ガレットの具はチーズ、卵(サニーサイドアップ)、玉葱、トマトなどである。トッピングは自分で選べるが、全て少しずつセットされたものもあり、メニューの中に「Galette complete」と書いてある。値段は20F前後。
 クレープの方は砂糖を中心にショコラやマロンのクレーム、バナナ、アイス等で、パリのクレープスタンドとだいたい同じである。さすがに全て込みというものはない。値段はやはり20F前後。
 ブルターニュ出身のパトリシアによれば、まずシードルで乾杯、そしてガレットを1皿か2皿食べ、それからクレープを1皿、最後にカフェというのが正当プロトコルなのだそうだ。そして、シードルにはグラスではなく茶碗に似た焼き物の器を使うのが正調だという。この辺りはお好み焼き屋でまずお好み焼きを1、2枚、それから焼きそばを食う、お好み焼きを食べるのには箸ではなくヘラを使うのが正調、などと言うのと同じ類であろう。東京だとお好み焼きの前にもんじゃというオプイCS(N)>Vョンもある。
 因みに正調クレープ屋はパリ市内だとモンパルナスに集中しているので、パリで食してみたい方はそこでおためしあれ。モンパルナス通りの途中、メトロ4番Vavinとメトロx番Monparnasse bienvenuの間あたりを、タワーに向かって左側に伸びる小道にクレープ屋が集中している。


 島へのアプローチの途中にあったクレープ屋で遅い昼食を取った。雨の中を歩き回ったので、体中びしょびしょである。と、この種の展開には極めてありがちのことであるが、ガレットを食し終わるころには雨がすっかりと上がり、空の向こうには晴れ間さえ窺うことができた。
 この日はパトリシアのお姉さんベロニックの家に泊めて貰うことになっていた。場所はレンヌの郊外である。1ヶ月前に引っ越したばかりだそうだ。ベロニックには一度パリのパトリシア宅で会ったことがある。彼女の家に向かう途中太陽が顔を見せ、平坦な土地に半円状の壮大な虹が架かった。
 ベロニック宅には6時頃到着した。彼女の旦那さんはティエリーといって、レンヌに工場を置くキャノンに勤務している。だからといって、特に日本語が得意だとか日本贔屓というわけではないから、それだけキャノンが多国籍企業として認知されている証拠なのであろう。ファックスとレーザープリンタの営業管理を行っているとのことだった。
 この日は土曜ということもあってパーティが行われる由で、彼女達はつまみ作りなどに励んでいた。この日のメインはアブデルの作るモロッコ風クスクスである。彼の家には良く招かれ、クスクスも2度馳走になったことがあるが、これは本当に絶品である。他の料理の腕も中々なもので、彼のおかげで私は未だにパリのうまいアラブ料理屋というものを知らずにいる。
 我々2人もぼんやりしては所在無気なので、料理の準備を手伝うことにした。野菜の切り出しを頼まれたのだが、フランスではこういう時にまな板を使わずに、ボールの上で削るようにして切る。横ではパトリシアがいかにも手慣れた手つきで切っているのだが、さすがにカミさんも私もすぐには要領がつかめなかった。結局アブデルが羊の肉をさばくのに使っていた俎板をかり、それで何とか用を足した。
 パーティに集まった人数は我々を含めて13人、ベロニックが高校の先生なので、皆学校に勤めている人達ばかりである。フランスではパーティの際に花かショコラを持参するもの、とものの本には書いてあるが、この時何かを持参したのは一人だけであったから、「招かれたら手ぶら」というパターンが増えているのであろう。パリでも概ねそうである。
 これだけの人数が集っても、左右2回ずつのちゅは厳守される。無論、アラブ人はアブデルだけなので、男同士は握手である。ちゅの間に自分のPrenomを名乗り、「Ca va?」や「Enchantee」で間をつなぐ。
 フランスで生活を始めて既に10ヶ月経ったとはいえ、さすがに1ダースもの会話には耳がついて行かない。ここは手近な会話に参加する傍ら、他の流れを観察することにした。見ていて何となく分かったことは、「声の大きいものが会話を制する」という極めて単純な法則である。会話は話題が完結することなく、話の途中から次から次へとポンポン飛んで行く。これはサッカーを思い浮かべれば分かり易いであろう。一人でドリブルしたり、相手にパスしたり、あるいはインターセプトしたり、それでいてシュート/ゴールまでには必ずしも到達しないのだ。流れが変わるのも始終である。
 パーティのホストであるティエリーはシャンパンを用意したり、暖炉でソーセージをやいたりと、実にこまめに動き回っていた。ベロニックもつまみを運んだり、飲み物を用意したりで、この辺り、2人とも黒子に徹していた。
 パーティの始まりは8時頃、12時頃から徐々に御開になった。席を立っても例の儀式とその間の立ち話のため、さあ帰ろうから実際にドアを出るまでに30分はかかっていた。最後のグループが帰った時には、既に2時を回っていた。

1993年4月8日 4 jours en Bretagne (1)

 来週はイースター休暇で学校が休みなので、かねてよりモロッコ人同級生に誘われていたブルターニュに旅行してきた。彼の奥さんがブルターニュ出身で、2ヶ月に1回の割合で帰省するとのこと、前回も誘われたのだが日本に帰る用があったので「次の機会に」となったわけである。
 メンバーは友人アブデル、その奥さんパトリシア、そしてカミさんと私の4人である。電車で行くより車の方が安くて便利だということで、レンタカーを借りることになった。残念ながら私はまだ法定翻訳もフランス国際免許も申請していないので、運転は専らパトリシアの役目となった。
 行きはパトリシアの友人も一人同行した。やはりブルターニュ出身で今はパリに住む女性である。前に一度面識があるのだが、これが中々の美女。こういう美女と対面の度にほっぺにちゅっちゅできるのだから、やはりフランスはいい国である。
 イースター休暇前の金曜とあって、パリ脱出には2時間かかった。オートルートはまるで土曜の中央高速のような渋滞である。電光番にはBouchon 10kmとあった。ただ、私は前日ほぼ徹夜に近い状態だったので、渋滞表示を見て間もなく記憶が途絶えてしまった。気がついた時には既に渋滞は終わっていた。
 パリの外側は一瞬にして田園風景が広がる。これはパリ・セルジー間でも同じことなのだが、本当に一面なだらかな土地が広がる。北海道の風景がヨーロッパ的だと言うが、本当にその通りであることを痛感した。特にブルターニュあたりの風景は富良野や美瑛の景色そのままである。丘陵の起伏、畑や牧草地の組み合わせ、木の配置、これらはまるっきり2年前にドライブした美瑛そのままであった。
 オートルートの途中、24時間レースで有名なル・マンを通過した。私はF1が好きなのだが、カミさんはどちらかというとプロトタイプを好む。これまでもル・マンは結構見ていたし、今年はナマで見たいと叫んでいる。私はあの三葉虫に似た車がのんびりとピットインしている光景に我慢が出来ないので、今のところ完全拒否の構えである。見るならやはりF1のベルギーGPに限ると信じている(さすがに今の財政ではモナコGPとは言えない)。
 途中、一度だけサービスエリアに寄った。給油及びPisPisである。皆そろそろたまっていたとあって、私の横に座っていたブルターニュ美女がふざけて「Maman! PisPis!」と叫んだ。
 給油後の支払の際、パトリシアがカードをなくしたと言った。レンタカーを借りる際には確かにあったのだから、レンタカー屋に忘れたかもしれないとのこと。店に早速電話したところやはり忘れていた由、スタート早々からトラブル発生であった。
 ドライブ・インの雰囲気などは、どこの国も似たようなものだと思った。トイレの数は日本より少ないものの、フランスの方が清潔なように思われた。ただ、男用・女用の区別が結構紛らわしく、女用の方はすぐにわかる「絵模様」だったのだが、男用の方は一瞬「妊婦」に見えた。それに私が入ろうとしたときにオバさんが入ろうとしたので、私は結構うろたえてしまった。5歩さがって人の流れを眺めていると、立て続けにオッさんが2人「妊婦」マークに入って行くので私も即フォローした。中にオバさんが残っていたものの、入った右側に見慣れた男用のトイレを発見した。
 パトリシアの両親が住むフジェール(Fougere)には8時頃着いた。8時と言ってもまだ日没の約45分前である。ここで同乗美女とお分れである。到着の5分後に彼女の姉が迎えに来た。  パトリシアの両親宅には9時頃に到着した。実はこの時フジェールがどこにあるのかわからなかったのだが、今日(4/12)地図で確かめたらレンヌの北約50kmのところであった。人口2万人の小さな町だが、ド真ん中に封建時代に建てられたものとしては一番古い城がある。
 パトリシアの両親宅はフランスの地方や郊外で良く見かける「2軒屋」であった。中央がガレージになって、ガレージの境界がそのまま隣との境界になる。1階は全てリビングで中央に暖炉があり、いかにもヨーロッパの家という感じであった。彼女の両親は夕食を用意して待っていてくれた。この日はここに泊めてもらった。
 ブルターニュ地方とあってメニューは魚料理である。前菜ではボイルした海老をたらふく食い、本菜ではホワイトソースのたっぷりかかった白身魚、そしてデザートは地チーズにグラース・オ・ショコラである。アルコールの飲めない私は彼女の父親が作ったオレンジ酒をほんの一口(これは口当たりがえらく良かったため、私には最も危険なものであった)だけ味わい、あとはVolvicであった。それにしても旨かった(料理も酒もチーズも)。(*^_^*)
 12時頃まで雑談の後、ベッドに入った。我が友アブデルの言によれば「俺は雨男だからね」。カミさん曰く「私は晴れ女よ」。この日はパリを出発する時こそ雨が降っていたものの、ル・マンあたりから晴れ間が広がった。取敢ずこの時点ではカミさんが1ポイント獲得したのであるが、肝心なのは次の日以降。そう簡単に毎日天気が良いはずないと思うのであった。

1993年4月8日 欠席(?)届け

 明日から4泊の予定でブルターニュに旅行してまいります。パソコンの持ち込みはカミさんから厳禁されているので、この間はアクセス・ゼロとなります。友人夫婦の実家に泊めてもらうのですが、その友人曰く、「オレは雨男だから仕事を持ってきた方がええぞ」。その仕事もカミさんから持ち込みが禁じられている。雨が降ったら一日ゴロ寝と化すでせう。
 実を言うと、フランスには仕事でも旅行でも散々来ていながら、パリ以外に行くのはこれが初めてでございます。

1993年4月8日 アルルの家は本当なら

 オルセー美術館に展示してあるゴッホの「アルルの家」は、本当なら上野で常設されていたはずなのはご存じ?川崎コレクションの一つとなっていたはずなのですよね。戦争で輸送差し止めになったコレクションの中で、返還されなかった4作品のうちの一つが「アルルの家」。おかげで(?)クラスでゴッホの話題がでる度に、「フランス政府はアルルの家を盗んだ!」と主張して周囲の顰蹙を買うことになってしまう。
 まあ、過去をほじくり出したら、大英美術館もルーブルも盗品の展示場ということになってしまう。尤も以前にODAの話題が出たとき、誰かがフランスの援助率の高さを自慢したので、私は「ナポレオン時代にあれだけアラブから略奪しまくったんだから、その見返りとして当然のことだな」と毒づいた事がある。そしたら結構アルジェリア人やエジプト人達には受けていたから、彼らがルーブルに行くときなど、案外複雑な気持ちがあるかも知れないと感じてしまった。

1993年4月8日 voie

「voie」とは文字通り「車線」という意味です(文字通りというのは、voieの本来の意味は「道」ですから、この場合、電車の通る「道」という意味になります)。またTomokoの前の「C」はvoieにくっついて、日本人には違和感がありますが「C番線」という意味になります。
 ちなみに、ホームに相当するのが「quai(岸)」です。大きな駅であれば「quai」にも「voie」にも番号やアルファベットが付いています。日本だと何番線、すなわち「voie」しか引用されませんから、この辺は我々にはちと紛らわしいかもしれませんね。
 ホームへの道筋を表す標識は「Acces au quai」、またラッシュアワーの際、「白線の内側までお下り下さい」に相当するのが「Veuillez degager le borddu quai」ですから、一般的には「quai」の方を多く見聞きします。「Acces auquai」を辿ってホームに出ると、ちょうど鉄軌道を指して「voie C」などと表示されています。車線別の行く先表示にも当然「voie C」などと表示されています。

1993年4月8日 ビジネス・レター

 手紙の書き方はかなり違うと言って良いでしょう。以前コミュニケーションの授業で依頼文の演習がありまして、アメリカン・スタイルで(これは昔会社で使っていたフォームがあったので)手紙を作って課題を提出したことがありました。そうしたら、「このような形式だと内容は分かるがあまり良い印象を与えず、結局目的を果せない可能性がある」と指摘されました。フランスにはフランスのスタイルがあるということです。
 結局、話しの切込方とか展開、そして無論表現にもフランス独特の「常識」があるため、「手紙が自由に書ければ立派」ということになるでしょう。これは日本語も同じで、「手紙」を書くという行為はコミュニケーションでも最も難しい部類でしょう。実際、会社でもきっちりしたビジネスレターを書ける人は少ない。コミュニケーションの見地からすると、「手紙」は極めて儀礼性の強いメディアですから。
 反対に、手紙の書き方を教えるというのは、恐らくフランス語、あるいはフランス文化圏固有のテクニックを教えると考えていいような気がします。商業系グランゼコールだとこのようなことを授業できっちり教えています。
 まあ、間違いなく言えることは、「手紙」にはかなり文化的背景が反映され、万国で一番共通していないことの一つのように思うのです。実際、翻訳の仕事をしていて一番たいへんなのは手紙、それも独特のレトリックに満ちた役所の手紙ですね。「拝啓、時下益々ご清祥のこととお慶び申し上げます。貴下におかれましては云々」なんて、逐語訳しても無意味でしょう?


 講座だけを受けて1年でMemoireを書けるようになる、というのはかなり厳しいような気がしますね。商業系グランゼコールでもMemoireの書き方は指導されますが、これは書き方を教えるというよりも、書く時の注意事項を教えるという感じ。個人的感想としては、この辺の注意事項はそれこそ万国共通という気がします。まあlisibiliteは各国語それぞれですが。
 実際にMemoireを書くとなると、常日頃から専門書になるべく目を通し、専門分野に応じたレトリックを覚えるなど、場数を踏んでいかないとどうしようもないように思います。だから講座だけに頼ってMemoireを書く文章力をつけるというのは基本的に無理があると思いますよ。かく言う私も秋までにMemoire
(指定枚数70頁)を書かにゃならんのですが、逐次友人に添削してもらわざると得ない。これはドイツ人をはじめ留学生共通の宿命。

1993年4月7日 RERの突発事故(?)

 今日はほぼ完徹に近い状態で学校に向かったにもかかわらず、午後の授業がキャンセルされていた。夕方の授業まで3時間以上も待たねばならないうえ、内職がまだ終わっていないので、2時半頃帰ることにした。
 セルジー駅の手前でエジプト人級友のカリムに追い付いた。何やら駅の表示板を見上げているので何事かと尋ねたら、どうもセルジー駅の手前で事故があったらしく、パリ方面の電車が走っていないとのこと。一つパリ寄りのアッシェル駅で折り返し運転をしているとのことだった。
 私一人なら当然途方に暮れているところだが、7ヶ国語を自由に扱うこのカリムは早速そこいらじゅうに尋ねまくり、アッシェルまでバスでピストン輸送している事実を聞き出した。バスターミナルのはしっこの方に、確かに「Speciale何とか」と表示したバスが停っていた。ただ、中はまるでビジネスショー開催中の晴海行のバスのようなすしづめ状態であった。そこは重量挙げで鍛えたカリムの押しが効を奏し、何とかドアのタラップに乗り込むことが出来た。
 RERは案外と脆弱で割と頻繁にストップしてしまうことが多い。これまでの経験だとロワシー行が結構トラブルことが多いように思う(とは言えこれまででせいぜい3回程度だと思ったが)。フランス旅行で帰りにRERを利用される方はくれぐれもご用心。万が一ホームに着いて不通を知ったなら、そこはあせらず同じホーム反対側のA線に乗るように。次のオベールで降りればオペラ座まですぐなので、RATPが去年から運営しているロワシー直行バスに乗れる。

1993年4月6日 駅のコントロール

 これまでの経験によれば、RERでコントロールに遭遇する確立は2ヶ月に1回。時間帯はほぼオフピークに限られていた。今日は3時頃学校を出たのでそれに遭遇する確率は確かに高かった。
 ところがところが、コントロールは確かに行われていたのだが、電車の中ではなくって駅でやっていたのである。セルジーの駅は郊外の駅と同じで改札などないので、ホームに下るエスカレータの前にRATPの職員が10人ほど、それに加えて何と警官が10名ほどチェックに当たっていた。はじめに警官の集団が見えたので、てっきり爆弾テロの警戒だと思ったくらいである。
 このにはクリスチーヌという級友と帰宅したのだが、実は彼女いつもいつも無賃乗車。そんなわけで、「Merde!」を連発しながら切符を買いに行っていた。

1993年4月4日 Macの話しをちょっと...

 RISC 搭載のマックですけど、恐らくCentrisシリーズの発展として出るのではないでせうかな? 確かRISCチップの名称がCentris 600か何かだったでしょ? 今後はCICS系=Quadora、RISC系=Centrisとなるのでせう。
 ただ、パフォーマンスが30倍というのは実際のところありえないでしょう。事実、040シリーズが出たときも日経バイトのベンチマークでは030シリーズとの性能差はせいぜい20%程度。ましてやRISC搭載機種のパフォーマンスはシステムソフトで完全に左右されますから、恐らく初期モデルはそれほど驚異的処理速度を発揮するとは考えられない。デビュー1年後以降に期待!
 いずれにしても、この世界は1年で陳腐化するのが当たり前なので、必要な時に必要なものを一番安いところで買うしかないでしょうね。昨年の6月、私はPowerBook Duo のスペック及び価格を聞いていたのですが、結局 100を買い、それなりに(!)満足しておりますから。
 ただ、ノートブック系に関しては、3年後には確実にHDがフラッシュメモリに代替されるはずですから、こっちの方が選択に苦慮するでせうね。
 それはそうと、漢字Talk7.1 は市販されておりませんが、フランス語版システム7.1 はちゃんと売っているのですね。確かフナックで2KFくらいだったと思います。


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初めての「国内」旅行

パリの住民にはなったものの、行動半径はパリ市内とパリ近郊に限定されていた。最大の遠出が電車で一時間先のフォンテーヌブローである。東京に住む人が鎌倉よりも遠いところに行ったことがない、というのとおなじことだ。とはいえ、パリでの生活に対応するのが手一杯で、とてもどこかに旅行しようという気にはなれなかった。旅行ができればいいな、とは思っていたが。
4月のイースター休暇(vacances de Paque)に、友人Abdelがブルターニュ旅行に誘ってくれた。こちらにとっては渡りに船のような申し出である。彼の奥さんPatriciaがブルターニュ出身で、この休暇中に帰省したいというのだ。それに便乗する形である。我ら夫婦が泊まれる部屋も用意してくれるとか。
ブルターニュ地方は日本人にも人気のある観光地である。モン・サンミッシェル(正確にはノルマンディ地方に属する)など、おそらくはパリに次いで日本人の訪問が多い場所だと思う。干潮時に地続きとなる島であるが、神奈川県民のわたしにしてみれば「江ノ島のようなもの」で、それ自体はそれほどめずらしいものには感じられない。ただ、島の寺院はすばらしく、とくに上部の回廊は神秘的だった。
パリからブルターニュまでの移動にはレンタカーを用い、Patriciaが一人でずっと運転をしてくれた。高速道路の途中、サービスエリアに立ち寄ったが、どこの国でも大差のないこんな設備でも、初めての経験となるとけっこうドキドキするものだ。また、わたしはこれまでに何度か海外で運転した経験を持つが、セルフの給油だけはなんとか避けてきたのだが、今回の往復では抵抗なくできるようになった。それほど大げさなことではなかったのだが。
レンヌではAbdel、Patriciaの友人たちと時間を過ごした。Patriciaのお姉さん夫婦の家に泊めてもらった日もあった。Patriciaの両親も含め、会う人すべてが歓待すてくれたので、最初の「国内」旅行では期待以上に楽しい時間を過ごすことができた。
4月ともなると、日が長くなったのをハッキリと感じることができる。冬のヨーロッパを「越冬」するのは初めてだったが、暗くどんよりとした日々を過ごしたがために、4月の明るい日差しが心地よかった。
(2006.3.1記)