21世紀の日記 |
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20世紀の日記 |
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93年8月の日記は、パソコン通信NIFTY-Serveの「外国語フォーラム・フランス語会議室」に書き散らしていたものを再編集したものです。ただし、タイトルは若干変更したものがありますし、オリジナルの文面から個人名を削除するなど、webサイトへの収録にあたって最低限の編集を加えてあります。
当時の電子会議室では、備忘録的に書いた事柄もあれば、質問に対する回答もあります。「問いかけ」のような語りになっている部分は、その時点での電子会議室利用者向けの「会話」であるとお考えください。
場所:パリの南西約60KM
交通:パリ Montparnasse/1 よりSNCF で50分。往復で一人126Frs。
電車は Grande ligne より1時間2本ほど発車。
「i」:街に数箇0所あり。駅にあり。ただし、全て日曜休み。
シャルトルまでの間に、ベルサイユ、ランブイエなど、城で有名な街を通過する。景色は相変らず「富良野」であるが、途中にあった花畑が美しかった。11世紀頃の造りと思われる古い教会も車窓を過ぎて行った。
シャルトルの見所はステンドグラスで有名なノートルダム寺院である。ガイドブックの写真よりも数倍の迫力がある。一瞬、京都の三十三間堂を思わせる石像の回廊が、寺院の中央を巡っている。ちょっと見ただけでも何か秩序を持った造りがある。解説を見たら、キリストの生涯を表したものだという。最後の方はキリストの処刑から復活に至るところを表現していた。不謹慎と言われるかもしれないが、僅かに足を出しただけのキリスト処刑の場面におかしさを感じた。復活の場面では、キリスト像のない十字架がかかっていた。
夏には毎日曜パイプオルガンのコンサートが開かれる。
シャルトルの街は小さく、3時間で主な見所は散策できてしまう。12世紀頃に立てられた家屋を中心とした町並みは、随所でタイムスリップした気分を味あわせてくれる。特に寺院の中庭を降りたところにあるお掘り、何箇所かにかかる石造りの橋が閑々とした時間の流れを偲ばせる。堀の水は以外と透き通り、水草の中を小さな魚があるいわ漂い、あるいわさっと逃げて行く。すみでじっとしていた鴨がするすると泳ぎだし、時折上体を水に突っ込んでは魚をついばんでいる。こんな風景を眺めている背景には、900 年前に建てられ、今では使われていない教会が残る。花壇だけは丹念に整えられている。
主な見所は、「circuit touristique」「monument historique」などの表示を辿れば洩らさず見ることができる。ただ、冬の重苦しい空の下では、この街はあまりにもノスタルジックかもしれない。夏の明るい空の下でこそ、気分転換のタイムスリップを味わえるのだと思う。
フランス料理に絡んで料理マナーの話が続いておりますが、コミュニケーションの立場からマナーを考えたことがあります。
私は元々が不調法ゆえ、マナーというものには、権力的、強圧的なマイナスイメージを持っておりました。しかし、これは料理を作る、あるいは給仕する人とのコミュニケーション手段と考えれば、必然性を持ったものだと思うようになったのです。形骸化されたものもありますけどね。
料理の本質は無論おいしく作ることであり、おいしく食べることにあるでしょう。ここにはヘタな理屈は必要ないかもしれません。しかし、料理人に料理の仕方、給仕する人に給仕の仕方があるように、食べる人にも食べ方もあるはずではないかと思う。繊細微妙な味をいかに賞味尽くすか、そこにマナーの本質があるのではないかと考えました。
以前、ウチの親爺メが、「客を選ぶ小料理屋」のことを怒っていたことがある。「お前のような客は来るな!」という料理人は傲慢だというのです。
でも、まてよ?と思ってしまった。例えば私は味オンチであり、旨いものとまずいものの違いは識別できますが、旨いものと抜群に旨いものの区別がとんとつかない。こんな客ばかりだったら、料理人の職人芸は全くの空振りに終わって店を殺すことは、結構あるんじゃないだらふか? バブル客がちなことですし。
伯牙絶弦という言葉もあります。それなりの料理人を相手にするためには、食べる方もそれなりの修業が必要なのではないだらふか。そんなわけで、「一度くらい星付きレストランに行きたい」というカミさんを、「我々には十分楽しむだけの用意ができていない」と言って説得するのでした。
ベルンに住むピルミンは、ワインにこだわります。彼は収入の3分の1をワインに注ぎ込んでいます。何百万円という額です。彼はワイン好きの客には秘蔵ワインを惜しげもなく振る舞いますが、下戸の客には安ワインですませてしまいます。ケチではなく、「ワインが可哀相」だからだとか。東京にもグレンリベットの水割りを頼む客は、お引き取り願うショットバーがあるそうですね。
インド・カレーは、手で直接食べるのが最高だと思う。でも、上品なステーキを手で食ったら、やはりシェフや肉が可哀相だと思ってしまう。それ以上に、必然性のわからんマナーには腹が立つけれど....
RERのAuber駅やChatelet駅では、時折あのディズニーの風船を持った子供連れ家族の姿を見かけます。ただし、会話を耳にすると、殆どがスペイン語。
実際、フランスでは20才前後の連中のデートコースには至ってない。パリ市民の足も遠いようです。おかげでパリ市民でることを証明すれば割引料金で入場できるのですよね。証明するためには電気料金の請求書を提示すればよいのだけれど、そんなのを持参ていうのもなんか無粋ですねぇ。
アメリカ人がいみじくも、「パリとディズニーランドというのはイメージが合わない」とつぶやいていました。ブタペストかバルセロナあたりにあれば、相当状況は違っていたのではないだらふか。
今の為替水準だと、入場料250Frsは日本と同じくらいでない?そうなると平均年収は日本人の方が5割くらい多いから、彼らにとって相当高いと感じるでしょうね。
クラスの連中の中から「ディズニーに行こう」と言う声は、ついぞ聞かなかったと今更ながら思いだしてしまった。
もっとも、新しいものはすべからく評判の悪いフランスのこと、30年もすればディズニーもしっかり観光名所になるのではないだらふか?問題はそれまで続くかどうか。
強いマルクや円を持った客ばかりなら、それこそ万々歳でない?
友人・知人で二人日本映画のファンがおりますが、二人とも「小津・溝口の映画は全て素晴らしい」と絶賛しておりました。私は映画音痴ゆえ具体的なタイトルまでは覚えていないのですが、パリで公開される映画は手当た次第見ているそうです。ほとんど「崇めている」という感じですね。
ちなみに、先日某週刊誌の依頼で行ったアンケートによると、一番印象に残っている日本映画として、「楢山節考」がトップに挙がりました。「一度見たら二度と忘れられない」映画だそうです。監督の人気では小津、溝口、黒沢、大島の順でしたが。
「情報は発信するところに集まる」という法則があるそうです。経験上、真であると思っています。
別に同時通訳のように喋れる必要はない。ネイティブのような名文でなければならないわけではない。研究者に重要なことは道具として外国語でコミュニケーションできれば良いわけです。大数学者ガウスは、ロシア人数学者ロバチェフスキーの論文を少しでも早く読みたいがため、70才を過ぎてからロシア語を勉強したといいます。あのガウスにしてこういう努力を惜しんでいない。
自然科学の世界では、最近とみに「グレイ・リテラチャ」の役割が大きくなっております。これは出版に至らないブリーフィング、論文、内部資料から実験データ、アイデアにいたるあらゆる「半」成果物です。件の「大先生」のような研究者ですと、このグレイ・リテラチャ収集で決定的な差がついてしまう危険性が大きい。
無論、既存の成果物だけから立派な研究をなさっている人もおられましょう。こういう問題は軽々しく評価をすべきではない。一人でコツコツ行える分野とてありましょう。しかし、研究=情報処理でありますから、コミュニケーションの範囲が限られていることは、根本的なハンディとなるはずですね。
この点からも通信ネットワークの普及は興味深い。
私が使っている英語の電子辞書ですと、シソーラスを調べたあと、リストの中の単語を選んで辞書で意味を調べることができます。度々登場するアメリカ人元同僚が英文でレポートを作るときも、一度ざっと文章を作ってから、推敲の際にシソーラスを引きながら形を整えていました。
西村さんの訴えは、言語のユーザーとして極めて基本的なニーズではないかと思います。これまでの電子辞書は言語ユーザーにニーズがありながら、内容や機能が学習者向けであった点にギャップがあったように思われます。本来、電子辞書のようなものは、ワープロなどの創造手段と結びついてこそ威力を発揮するものだと思います。
仏文のレポートを書く時など、専門的内容になると和仏があまり役に立たなくなってしまう。用語のギャップが生じるわけです。結果的に、取敢ず知っている単語から仏和辞典や類義語辞典を探索することになってしまう。これは電子辞書の一番得意とする機能のはずです。
牡蛎鍋の材料は割と簡単に揃います。ムフタールや中華街の市場に行けば、野菜から魚介まで材料は全て揃います。値段も日本より安いくらいですが、牡蛎の殻を自分で開けなければなりませんからね。レストランのテイクアウトで買えば剥いてくれますが、その分値段は高くなります。
むしろ問題は資材でしょうか。日本ならば土鍋にカセットコンロですが、この2つが結構揃えずらい。カセットコンロは韓国人の店で手に入るそうですが、店の数が少ない。私は結局電気コンロの小さい奴を買いました。電圧が高いので火力は十分あります。
土鍋は大丸や京子食品で売っていますが、民芸調の高級品なので高い。かと言って普通の金物の鍋では興ざめ。帰国売りでも滅多に見かけたことがなかったので、2月の一時帰国の折に、思い切って日本から持ってきました。中華街で売っているという説もあるのですが。
昨日泊っていったアメリカ人元同僚の反応が、まさしく「英語をしゃべるのは当然」意識で面白かった。英語の看板が少ないこと、思うように英語が通じないことに、かなりイライラしていたみたい。日本語と中国語は喋れるのに、フランス語やドイツ語が駄目というのも特別でしょうけれど....。
人間の「能力」の研究では「遺伝優位」とする説が主流となっていますので、まず基本的には個人差ば大きいと考えるべきでしょう。一方で「日本人が外国語に弱い」とされる背景には、外国語教育の問題、経済活動の中で相対的に外国語の必要性が低いこと、言語の類似性などが影響していると思うのです。
このような文脈で「外国語」と表現する場合、たいていは印欧語系の言語を指すと思いますが、語彙、構文のいずれも日本語とは大きく異なる。ドイツでは確か初等教育から英語を教えているのでしょう?そりゃ日本人よりうまくなるわな。それに日本では外国語が喋れなくても職にありつけるし。台湾やオランダなんて、マルチリンガルが生活手段でしょう?
最近のジャーナリズムでは、日本の生活洋式があまりにも西欧的になったため、欧米人はしばしば日本がアジアの国であることを忘れてしまう、という点が指摘されています。考えてみれば、この奥には「先進国=西欧文化圏」という極めて傲慢な意識があるように感じますが、現象の説明としてはなるほどと思いました。「日本人は我々と同じ言葉を話し、同じ価値観を有する」と勝手に誤解していたところが、実際会ってみて案外話しが通じない。だから「日本人は外国語ができない」「日本は特殊な国」という反応に至ってしまう。
シナリオを探しがてら音楽関係のビデオも見ているのですが、状況として次の通りです。
NTSCは皆無。PALならタイトルによってはあり。
タイトルの最初の部分がわからないと、捜索が事実上不可能。
fnacには音楽ビデオが少ないですね。ひょっとするとフランスではそもそも多くは流通していないのかもしれない。別の店を探してみますが。
Synonymes とAnalogues、ほんとどう違うのだか。同意語と類似語ってわけですよね。日本語にしても違いがわからん。(?_?)
シソーラスはギリシャ語の「thesaur」から来ているそうです。プチ・ラルースに出ていました。単語だけ見ると、怪獣か下半身馬のバケ人間を思い浮かべてしまいそう。
フランス語では「テゾリュス」と発音しますが、昔データベースの調査でフランス人と英語で話した特、相手が突然「テゾリュス」を連発するので目が点になったことがあります。その時、シソーラスの「シ」が「th」だとは知らなかったのですね。その「テゾリュス」なるものを紙に書いて貰ったとき、思わず「そうか! シソーラスか!」と日本語で叫んでしまいました。
「Gyros」を「ギュロス」と発音することを知った。いつも「ジロ」と言っていたけど、今度ぎゅろすと言ってみやふ。
以前も話題になりましたが、パリではサン・ミッシェル、それもジベールの裏にこの店が集中しております。皿で頼むとサラダとフリットが付いて30Frs。バゲットは食い放題ゆえ、22Frsのサンドウィッチよりお得。腹の減った午後などは、これを一皿頼んでロハの水をガブ飲みし、バゲットに肉をちびちびはさみながら大量にかっくらう。その後は一日何も食わずに済ませることができるので、実に経済的かつ満足度抜群。
夕方になって痩せ細ったギュロスは翌日シシカバブに化けたりして。
スイス滞在の最終日、ベルン出発が午後5時頃だったので、ローマ時代の遺跡巡りをした。
場所はベルンから車で30分ほどのところ、フランス語圏に属するMortelとかいう所であった。は夏の暑い日差しを浴びながら、まず丘の上に残る円形競技場を訪れた。石の座席は既に4分の1ほどしか残っていなかったが、中央の楕円の競技場は残され、横会いにある競技者入場のアーチも残され、かろうじて古の面影が忍ばれた。残念なことに、競技場内部が夏祭りのビーチバレー・コートと化していたため、かつてキリスト教徒がライオンの餌食となった空間を見いだすことはできなかった。
由利さんがかつて訪れた時は、当然ながらビーチバレーの砂利はなかった。彼女は元役者ゆえ、音響効果に興味があったそうだ。以前訪れた際、ピルミンを観客席の一番上に座らせ、「普通の」声で歌ったところちゃんと通ったという。元役者の普通の声であるから当然ある程度差し引いて考えねばならないが、それでもかなり声が響き渡るのは事実であった。
そんな話をしていたら、突然義兄が歌い始めた。1世紀後半に作られた遺跡の中で、妙に甲高い声の「東京音頭」が響き渡った。
円形競技場の後は、すぐ横に建つ小さな城に向かった。生憎と昼休みの閉館時間だったので、中を眺めるわけにはいかなかった。
丘の上からながめると、遥か彼方に城壁の痕跡と城門の跡が見えた。周囲はいくばくかの民家と畑である。丘の下の畑の中にも小さな競技場と神殿の跡が残っている。畑の中には遺跡の破片が点在している。ピルミンの話だと、1メートルも掘れば石像の首が出てくるそうだ。周囲の環境と言い、私は思わず明日香村を思いだしてしまった。
神殿跡はまさに痕跡といってよい。土台の一部と僅かに主柱が一本と、小さな支柱が一本残っていたにすぎない。しかし、復元図を見ると、かつてここがほぼ40メートル四方に及ぶ、広大な神殿であったことが示されている。遠くから見ると、一本だけ残った主柱はそれほど高いものには見えなかった。しかし、身の丈6尺を越えるピルミンが柱の横に立って、その規模を始めて実感した。高さ凡そ9ピルミン、即ち16メートルはあったものと思われる。
遺跡をさる5分ほど、畑に散っている遺跡の破片を拾った。レンガのかけらのようなものに過ぎないが、1800年経た後の遺物であっても、人工物の面影を留めていた。
やはり「最後は英語」だと私メも思うのです。ですからかえって最後の手段で最初から応対しなければならない英語圏を訪れるのが辛い。
私も去年の今ごろは、少しでもフランス語に早く慣れようと、頭の中の言語的思考もフランス語で行ってみました。でも、数字に弱くなりそうだったので、すぐに日本語に戻しました。
私の同僚の一人に6才までロンドンで育った者がおりました。彼はその間英語しか使っていなかったそうで、日本語を全く知らないまま7才の時に東京のごく普通の小学校に編入したそうです。その結果パニック状態になり、日本語を話せるようになる前に英語を話せなくなり、一時期うーうー唸るしかない動物のような状態だった、本人は今では笑話しのように語っておりました。こりゃ極端な例かもしれん。
しっかし、家族でロンドンに滞在していたのに、日本語を話す機会はなかったのかと尋ねたら、「ウチの家庭は会話がなかったからね」。
ニョクナムの香は強烈といふほどではないでせふ。パリにいるとニョクナムは至極簡単に買えますから、ウチでもよく使っています。カミさんがアリアンスでタイ人やカンボジア人の友人をつくったものですから、コリヤンダーとかナムプラーも常に在庫があります。
パリに来て以来、カミさんが「チーズをたく」と化しつつあります。私はといふと、まあ嫌いではないのですが、料理に膨大な量が使われたりすると、つい二の足を踏んでしまふ。特に山羊のチーズはコーヒーを飲みながらパンにつけて食する分にはよくても、タルトに入ったりすると....。
昨日のクレープがまだ胃にもたれている....。
モツのガレットは胃の調子が良くないと厳しいかもしれないね。
モツはかなり相性があるでしょうから、食べられない人も出てくるでせう。味自体は魚肉のハムに似ており、舌触りをもう少しこってりとさせた感じがしました。旨いとは思ったけど、ガレット一枚全てを食い尽くす自信は、私メにもございません。
ピラタスに行った翌日だけ、姉夫婦は湖畔のホテルに泊った。チェックインのついでに我々も部屋を見せてもらった。場所はベルンから車で30分ほどの所だったが、わずかそれだけの距離にもかかわらずホテルのある場所はフランス圏である。そんなわけで、私がでまかせ手抜き通訳を引き受けた。
部屋はちょっとメルヘン調で、20代前半の新婚カップルにぴったりという雰囲気であった。屋根裏部屋風に天井が傾き、バスが白いタイルで覆われ広々とした空間を占めていた。ベランダからは湖の景色が一望できる。残念なことに、湖の名前は忘れてしまった。
この日、ホテルに付属したレストランで皆一緒に夕食を取った。オードブル、前菜も含めて7品も出る本格的フルコースである。ワインの選択は全て「ワインをたく」のピルミンが引き受けてくれた。グラスに軽く注がれたワインを試飲する姿が決まっており、後日パリに帰った後、皆で折ある毎に真似してみた。
不覚にも、30代中盤に差しかかった私の記憶中枢は、この日のメニューの内容をほぼ忘れてしまった。クラムチャウダー風のスープがうまかったこと、魚料理のソースがとにかくうまかったことだけ覚えている。
支払はピルミンと私がそれぞれカードで行った。こういう気取ったレストランでは、いつもアメックスを利用している。はずかしながら、ちょっとした金持ち気分に浸れるのである。ピルミンの方をちらりと見た。皿の上に置かれたカードを見たら、ダイナースだった。思わず「負けた....」と感じたことを鮮明に記憶している。
アメリカでは案外とダイナース・カードを利用できない店が多い。そのため、私の会社では融通の利かない者、使えない者のことを「ダイナースな奴」と呼んでいた。こんなことを思いだしたのは、無論負け惜しみ以外の何物でもない。
由利さん一家は5月に3週間ほど東京に滞在していたので、姉夫婦とはわずか3ヶ月ぶりの対面であった。その間、由利さん自身はずっと姉夫婦宅と3大阪の実家に滞在し、ピルミンと二人の子供は石垣島を旅行していたそうだ。ピルミンはスイス育ちながらスキューバ・ダイビングが趣味で、これが3度目となった日本旅行では、是が非でも石垣島に行きたかったのだそうだ。
ベルン滞在初日には、突然ジュリアナの話題で盛り上がった。姉夫婦は田町に住んでいるため、ジュリアナはほぼ地元である。ボディコンねえちゃんが終電に乗り込むため、階段を大股で駆け上がること、そしてそれを目当てにするオトコ達が蕎麦屋にたむろすること、さらにそれを客寄せにする蕎麦屋のアンちゃんが、「そろそろ始まるよ」と触れてまわることなどを、いかにも地元の情報という感じで披露してくれた。
ジュリアナという名前だけは、先日取材協力の余録で送ってきたSPA!で知っていたが、細かい話は知る由もない。ほんの3ヶ月前東京に滞在していた由利さんも、ジュリアナのことまでは知らなかった。
姉夫婦から話を聞いた時、由利さんと私は殆ど同時に「女の子達は唯で見せちゃうわけ?!」と叫んでしまった。「恥ずかしくないのかしら?」という反応を示したのは私のカミさんだけで、ピルミンは東京なら何があっても不思議ではないという反応だった。
演劇をやっていた人間は、自分の姿を見せることに対して、非常にプロ意識が強い。由利さん自身が、いざとなったらストリップだってやる、ただしタダではやらないし、やるからには客を納得させる芸を披露する、という持論の持ち主である。たいした芸もないのに集まる客、さらにタダで店の客寄せに利用される女の子たちが情けないのだそうだ。
とにかく、今度日本に行くときは是非ともジュリアナを見てみたいとのことだった。尤も、その時まで続いているかどうかは、はなはだ疑問の残るところではある。
クサヤに限らず、臭いの強烈な食べ物というのは、一度やみつきになるとハマってしまうようですね。私メも初めてクサヤの臭いをかいだ時は、一瞬こえだめに顔を突っ込んだ古の体験を思いだしてしまいました。
フランス国内だとたいていのスーパーにはかなり大きなフロマージュの売り場が置かれています。この存在だけは、遥か遠くからでも臭いでわかってします。なれないと一瞬立ち眩みを起こしそうです。
会社のオフィスが3年ほど晴海にありました。裏が鰹ぶし問屋でございまして、風向きによってはその香が漂ってまいりました。なぜか時折クサヤの臭いも含まれておりました。まあ、仕事中に鰹とクサヤのデュエットが芳しくも漂うオフィスなんて、いかにも晴海ならでわという感じでした。
とある研究によると、完璧に使いこなせる言葉が1000あれば、コミュニケーションに何ら不自由しないそうです。ところが1000の言葉を完璧に使うというのは本当に難しい。例えば、「生じる」という極めて基本的な概念に当て嵌まる言葉が実にケースバイケース。avoir lieu、advenir、se faire等々。
夫々の状況でベストな表現があるはず。仏から和へは辞書で何とかなるけれど、和から仏は体で覚えさせるしかなさそう。最近痛感した例ですと、何か悪いことが「生じる」ときは se produire を用いるようです。
警察で届け出の際、
「それはいつ生じましたか?」
Quand est-ce que ca s'est produit?
クレディ・リヨネで「以前、スリにあった」と言った際、行員曰く、
「もうそのような事が生じないことを願います。」
Je souhaite que ca ne se produise pas.
まったくもって、1,000使いこなすには、10,000は知っていないと基礎にならないような気がしてしまう。
何しろ日本語だけで生活できる国や地域が増えましたからねぇ。これはこれで肯定的に受けとめたいと思うのです。アングロ・サクソンは一民族の言葉を世界語にしてしまったくらいだし。
ベルンに着いたのは金曜である。午後6時頃駅に到着し、駅近辺で両替と帰りの切符を予約しただけで、すぐにバスで由利さん宅に向かった。
この日はピルミンの手料理をふるまってもらった。由利さんの命令でわざわざ会社を半日休み、午後いっぱいかけて用意したそうである。尤も、後で聞いたら仕事が忙しくて半日は休めなかったので、朝5時半に起きて早朝出社したそうである。姉曰く、「おとなしい旦那ね」。どういう意味ぢゃ?
メロンに生ハムを乗せたオードブルの後に、メインディッシュが2種類出た。一つは豚のブロック肉を茸やプラムと一緒にあぶり、パイ包で焼いたものである。ガーリックやクリームソースも混ざって、これは絶品であった。あまり詳しく書くと腹が減ってしまうので、後は内緒。もう一つはジャガイモをスライスにして、クリームソースで煮込んだものである。これも旨かった。
どうやってこの料理を覚えたのかという問に、ピルミンはあっさりと「本に書いてあった通りにやった」と応えた。週に一度は料理をするそうであるが、そこは男の手料理、後片付けは全て由利さんの仕事だそうだ。
ある程度凝った料理はこれ一度だけで、翌日の夕食はハムやソーセージにパンという、ベルンではごく普通の夕食を取った。この日、ピルミンは学校の同窓会でバーベキュをするとかで、車にワインを1ケース乗せて出かけて行った。日頃由利さんから「酔っ払い運転して夜中に帰る位なら、腰をすえて午前さまで帰るように」と指示されているという。翌日聞いたら、帰宅は午前6時だったそうだ。
フランスでも「マクド」ですね。たまにふざけて「ドスド」と言うやつもおりますす。
マクドナルドで思い出すのがエディー・マーフィの映画Coming to America。この中で McDonald にあやかってMcDowel という店を出しておりましたね。文字だけ見るとおかしくないけど、アメリカ人はDoの部分にアクセントを置いて発音し、dやlの音が殆ど消えておりますから、この二つの名前が殆ど同じに聞こえてしまう。
会社にいた帰国子女の話では「マクドナルド」では全然通じないとか。かえって「マ・ダーナル」に近いとのことでした。
どこの店がよいのだろうか?特定の店といふと特定の知識なし。
ただ、寒くなればたいていのレストランは Fruits de Mer を並べますゆえ、メニューの中のデギュスタシオンを見て、値段の手頃なところに入れば良いのではないだらふか?たぶん、200Frs前後でせう。
また聞きですが、メトロ4番 Vavin、モンパルナス通りとラスパイユ通り交差点にある Ronde が結構 Fruit de Merで有名だそうです。ここは結構高いので、私メはいつも素通りですが。 Gare de Lyonの前に「一年中Fruits de Mer」といふ気合い)の入った店もあります。
フランスだと生ガキが中心では?
前に家で牡蛎鍋をふるまったら、これが不思議がっておりましたがうまいと絶賛....。
これこそ場数を踏むしかないやうな気がします。だから、個人的にはいつもいちもラジオを耳にしたり、相手の話のなかでふっと気付くようなことを、極力心に留めておくようにしています。演繹的に分かるものではないので、経験にすがるしかないでしょう。でも、やはり一番重要なのは「指摘してくれる人がいる」ということでしょうか。手痛い失敗も重要でしょうね。
米語でよく言われる例としては、Would your please=お願いだからやめてくれない!ってやつでしょうか。フランス語だと何が例に挙がるだらふ。
先日、姉夫婦とカフェで交わした会話。
愚妻:「めっきり日が落ちるのが早くなったわね」
私メ:「ほんと、もう暗いよ。」
義兄:「(時計を見て)だって夜の9時半だぜ....」
姉 :「....」
それにしても、このところ暑い日が続き、秋と勘違いして紅葉を始めた街路樹の悲鳴が聞こえてきそうです。道の水たまりで鳩が水浴びするという夏の光景もすっかりと復活しています。
ああ、暑い....
カペル橋はほんと間一髪で経験できた。悲しいやら得をしたようやら、何だか複雑な気分です。
橋というよりも、河の上にかかる渡り廊下という感じでした。外側には花が延々と活けてあり、黒ずんだ木とのコントラストが印象的でした。橋を渡った時、昔の小学校の古い校舎を思いだしたものです。
天井の所には、5メートイおきくらいに歴史の絵図が掛かっていました。ルツェルン地方の歴史のようです。かなり長い橋ですから、この絵図で一つの物語を形成していたのでしょう。板の両面に絵がかかれていました。
「こっち方向から見ると過去の歴史を振り返ることになるけど、反対方向から見ると、未来の予言を見るようになっているんだ。」
姉に向かっていけしゃあしゃあと説明すると、何も疑わずに信じてしまったので、あわてて嘘だとバラさなければならなかった。
正直言って、それほど大騒ぎするほど素晴らしいモニュメントだとは思いませんでした。しかし、この橋は紛れもなく歴史の風雪に耐えていたわけです。それが燃えて滅びてしまうというのは、何とも悲しい。古い姿を経験できた幸運には感謝しつつも、焼け落ちた橋に黙祷。
あまりスイス人と接する経験はなかったのですが、ピルミンや由利さんの話を聞いていると、ベルンのスイス人は日本人に似ているみたいですね。やたら真面目にこつこつと働く、由利さんに言わせると、食べ物にも遊びにも執着しないし、一体何を楽しみに生きているの?ということでした。
面白いなと思ったのは、ベルンの人は気取った話をするときに、結構フランス語を使うことがあるそうです。由利さんによれば、特に年配の女性同士で会話をするときに、案外と多いらしい。フランス語で話していた老婦人の所に孫が走り寄ってきて、とたんにスイス・ジャーマン(つまりドイツ語のずーずー弁)に変わってガクっと来たことがあったそうです。
フランス語=気取りというニュアンスがあるのでせう。ピルミンは、ジュネーブ(ここは一番ネイティブ・フランス語に近いフランス語圏)の連中は気取っているから好きじゃないとも言っておりました。
今回訪れた街は、ベルンとルッツェルンの2つだけだった。
ベルンという名はスイス連邦政府の所在地ということで覚えていたため、ワシントンDCやキャンベラのように、比較的新しいこざっぱりした街というイメージを何となく抱いていた。しかし、大袈裟な政庁や巨大ロータリの公園などはなく、ドイツにでもありそうな普通の小都市という感じであった。人口は11万人というから、規模としては富山市くらいである。
ベルンを一行が散策したのは到着3日目であった。この前日、出発直前に依頼された原稿を夜中まで書いていたので、一人由利さんの家に残って昼寝を決め込んだ。買い物の付き合いもまっぴらだったので、別に時間を無駄にしたという気持ちはなかった。前々日にある程度旧市街を歩くことができたので、特にどうしても、という気分には至らなかった。
とは言え、他の3人はヨーロッパの小規模な街を初めて目にするので、見るもの見るもの全てが感動的であったらしい。後でパンフレットを見せて貰ったら、確かに石畳やデコレーション過剰の噴水、紋章の掲げられている古い家々など、タイムスリップを味わうに十分な魅力がありそうだった。しかし、連中が戻ってきた時に持っていた買い物袋を見て、やはり次の機会にゆずったのは正解だと再確認したのである。
ルッツェルンはベルンから電車で1時間ほどのところにある。ピラタスから戻る途中、電車の連絡待ちの間に1時間半ほど歩いてみた。ベルンよりも大きな街で、ここもドイツ的な雰囲気であった。600年も前に作られた木の橋が名物だという。最後、駅に向かう途中にやや遠回りであったが渡ることにした。
ルッツェルンという名は初めて知ったのであるが、東洋人観光客が多いのに驚いた。多分私がスイスに無関心だからで、実は有名な街なのだろう。結局つきあわされたみやげ物やでは、店員がそのまま日本語で応対していたほどである。石畳の道の上には、ヨーロッパ各国の国旗が掲げられていた。その奥には、星条旗を押し退けるようにして、赤い部分のやたら巨大な日ノ丸が掲げられていた。
ベルンで「フランス語が通じて良かった」と心底思いました。よっぽどしっかりと心の準備をしていないと、もう英語が出てこない頭になってしまいますから、結構これは切実な思いであったりしますよね。ベルンからフランスに向かう電車の車内アナウンスも、ドイツ語のみ→ドイツ語+フランス語→フランス語+ドイツ語+英語と変化して、最後はフランス語のみとなりました。これもほっとした瞬間。
一昨日、姉夫婦が免税品店で買い物をしていたら、小柳ルミ子夫妻と遭遇したとか。「ウェストは確かに細かったが、背が低くて足が短かった」とは、やはり*が短い我が姉のコメントである。
マレ地区に住んでいるはずの岸恵子には、一度も遭遇していない。実に21年前、私は横浜市某所で偶然岸恵子に隣あわせたことがある。残念なことに、当時私は「岸恵子」といふ存在を認識していなかった。
最後に芸能人と遭遇したのは3年前の富士山6合目付近。ロケ帰りの宮崎美子とすれ違った。ところが、その時も私は全く気付かず、1ジグザグ登ってから同じグループの者が「あれはやっぱ宮崎美子だったんでは....」。下を見ると、まだそれらしい女性がいたので、私は早速天体観測用の双眼鏡で確認した。手を振ったらちゃんと応えてくれたうえ、「頑張ってね!」と激励してくれたのが嬉しかった。
そふいえば、宮沢*えが貴ノ*と婚約破棄になったとき、パリに住むといふ噂があった。密かに期待していたのだが、その後うやむやになってしまったのだらふか。尤もカルチエラタンに住んでいたのでは、遭遇のチャンスなどまず巡ってこないだらふ。
つい一昨日フォンデュ料理屋にてエスカルゴを食べてきました。義兄がどうしてもフォンデュを食いたいと言っていたのですが、ベルンでは季節外れに地域外れ、その夢をパリに持ち越して一昨日果したのです。そのときのアントレに彼はエスカルゴを注文し、我々もちょいとつまんだわけです。
エスカルゴと言っても、ガーリックバターで強烈な味をつけますから、蝸牛自体の風味はさっぱりわかりません。確か三重で食用蝸牛を不法養殖していた人がいたのでは?JUNKUで立ち読みしたFLASHにそんな記事があったやうな気がする。エスカルゴ用の蝸牛肉(?)は、東京だと明治屋や紀伊国屋で売っていたような。
フォンデュ屋では蛸焼き器のようなうつわに入ってきました。初めて食べた時はカラに入ってきました。
TYMPASフランス国内APは以下の通りです。全て300/1200/2400bpsで、MNP5対応です。
LYON :78.47.84.11
MARSEILLE:91.25.99.33
PARIS :43.34.04.25
TOULOUSE :61.30.02.91
もしコンピュサーブのIDをお持ちでしたら、フランスのCIS ノード経由でアクセスする方がお得です。タイムパスの約半額でアクセスできます。CIS のフランス国内APは以下の通り。1200/2400/9600bpsで、MNP5対応です。
PARIS :47.89.39.40
PAR0IS以外:36.06.24.24
私は現在全てCIS 経由でアクセスしています。
カミさんがすりばちを買って来ました。プランタンで売っていたそうです。ただし、買ってきたものは木をくり抜いて作ったもので、予算の関係でかなりこぶりです。大きいものは200Frsくらいするのだそうです。
陶器のすりばちも京子食品や大丸で売っているらしい。個人輸入するよりは安いかもしれませんね。
パリを離れたフランスの景色は、例によって「富良野・美瑛」であった。スイス国内に入ってからが、遠くに多少険しい山並みが見えたものの、それほど大きな感動はなかった。
ベルン滞在2日目にピラタスに行った。ベルンから電車を乗り継ぎ、麓から最大傾斜角48%という急峻な勾配を登山電車で登った。この日は好天に恵まれたものの、山頂付近はガスに覆われていたため、生憎とパノラマ風景を眺めることは叶わなかった。それでも、造山現象の過程で垂直に走る地層、岩の間に咲き誇る高山植物、標高2000mという高所ですっかり餌づけされたかのような烏に似た鳥どもなど、結構見るべきものは多かった。特に高山植物の種類が豊富なことは、お花畑で有名な八方尾根以上であったと思う。
姉夫婦と愚妻はスイスが初めてだったので、どこにいってもアルプス風景が広がっていると思っていたらしい。ベルン近辺ともなると、どうしても日本のありふれた高原に似た景色が広がっている。それも軽井沢や八ヶ岳のような、なだらかで森の多い雰囲気である。そんなわけで、ちょっとアテのあずれた感じがあったようだ。
往きのTGVはローザンヌ経由であったが、帰りのルートはFrasne乗り換えであった。スイス国内の通過ルートが往きと異なった。ぼんやり外を眺めていたら、崖の上にいくつも城跡が見えた。まるでドイツのライン下りを思わせる。
フランス国内に入ると、またしても「富良野・美瑛」である。寝ようと思ったが、人の往来が激しくて落ち着けたものではなかった。場所がビュッフェの隣というのが敗因であった。
パリまであと30分というところで、ビュッフェに水を買いに行った。売り場を一人できりもりしていた女の子がズバ抜けて可愛かった。こんなことなら、ボケーっと景色なんぞ眺めていずに、ビュッフェに入り浸っておくのだと深く後悔した。
4日間、由利さんのお宅に泊めてもらいました。ベルン中央駅からバスで15分ほどのところです。スイス連邦政府の置かれている政治の中心地だというにもかかわらず、駅からバスで10分もすると、日本のリゾートのような雰囲気になりました。前々から由利さんが「ベルンなんて田舎よ田舎!」と言っていた通りです。
前日までのパリの涼しさとうって変わって、ベルンの暑さは本当の「夏」でした。ベルンでもずっと寒い夏が続いていたそうですが、この日はとにかく公園にトップレスがいても、全然おかしくないような陽気でした。この天気は滞在中ずっと続き、日本で冷夏を悲しんでいた姉夫婦ともども、「スイスで今年初めて夏に出会った!」という奇妙な感激に味わったのです。
3日目は近くの湖畔にピルミン一家と出かけたのですが、夕方は絵にかいたような「夏の宵の俄雨」です。雷が周囲に谺させながら鳴り響くと同時に、かなり大粒の氷が降ってきました。カフェのテラスには、突然の俄雨で引っ込めきれなかったフライドポテトが散乱していました。
通常あれだけ激しい雷雨が去った後は、気温が一気に下がるものです。暑さにひぃひぃ言っていた我々もそれを期待していたのですが、雨上がりも十分に夏の気温を保っておりました。
寝ている時に手も足もはみ出し、そこいらじゅう蚊に刺される....。この典型的夏をも満喫できたのです。
16日夜パリ・リヨン駅に到着しました。寒さに身構えていたのですが、出発の時より気温があがっていたようです。23度と表示されていました。今日、17日も太陽が朝から顔を出し、日本の9月初めくらいの陽気です。多少は夏を感じることができます。
スイスは....暑かった。でも、パリも多少は暑くなっていた....。
今回の旅行はマルチリンガルを全身で味わった4日間でした。登場人物と会話で用いた言語は次の通り。()はカタコトで話せるレベル。
私 :日本語、フランス語、英語
カミさん :日本語、(フランス語)、(ドイツ語)
姉 :日本語、(英語)
姉の夫 :日本語、(英語)
姉の友人 :日本語、英語、ドイツ語、(フランス語)
そのダンナ:スイス・ジャーマン、英語、フランス語
その子供達:スイス・ジャーマン、(日本語)
全員に共通する言語は一つもないのでした。
一番傑作なのは姉の友人一家の交わす会話です。夫婦の会話は英語、子供同士及び父子はスイス・ジャーマン、母子の間は普段日本語で、細かい話しになるとドイツ語とスイス・ジャーマン。姉の友人、由利さんは時折ドイツ語でダンナに話しかけるのですが、ダンナは断固として英語で応対しています。
その理由はというと、ご主人のピルミンは標準ドイツ語を話したくないのだとか。何でもスイス・ジャーマンというのは日本で言えばずーずー弁に当たり、標準ドイツ語はえらくかしこまった言葉と位置づけられているとのこと。だから、スイス・ジャーマンなら「とうちゃん、茶でもどうかね?」という表現も、標準ドイツ語を使うと「旦那さま、お茶などいかがですか?」なんてニュアンスになってしまうらしい。家でそんな片苦しい言葉はいやだというのがピルミンの意向だそうです。書き言葉は標準ドイツ語と同じというから面白い。
その一方で、由利さんはNYで5年間演劇の勉強をしていたほどなので、バリバリのアメリカンをこなします。ピルミンも英語を忘れたくないということで、夫婦間は英語を使うのだそうです。
子供たちはまわりがスイス・ジャーマンですから当然それが一番自然な話し言葉。ところが由利さんとしては、折角日本人の親がいるのに英語とのバイリンガルにするのは変だというので、子供には極力日本語で接するのだそうです。それに、ドイツ語自体は習ったばかりで発音も怪しいので、変な音を子供につけたくないとか。でも、由利さんは関西育ちなので関西風アクセントになることもます。でも子供たち−二人の男の子−にとっては唯一身近な日本語ですから、時折関西弁の女言葉を使う奇妙なバイリンガル少年となるのでした。
この2つのニュアンスの差ですが、私の単刀直入且つ不十分経験準拠一方的独断ですと、
pas encore:経験間近/予定バージン
jamais plus:大分以前経験済み(セカンドバージン)
jamais:永遠の処女と言う感じなのです(しかし、なんちゅう例....)。
つまり、pas encore を使うと、「今までは一度もなかったけど、近々(機会があれば)...したい」というニュアンスに取れてしまう。だから、Depuisの文章で 「ne visite pas encore ...」となると、何となく既に具体的visiterの予定があるといふ感じに聞こえるのです。
そんなわけで、「いやぁ、あの時行ったきりで、その後とんとご無沙汰ですわ(当面予定もないし)」という完結した状況の描写には、jamaisの方がピタリとくるのです。これ、無論私の主観。
では、単に jamais とするとどうか? これだと、非常にネガティブな印象が強い。例えば visiter の場所が禁断の地とかだったら合うのでしょうが。
「麻薬を吸ったことがあるか?」なんて質問に「pas encore」を使いますと、こりゃ「吸う気十分」といふニュアンスですね。「とんでもない!一度も」は「jamais」です。だから、「一度だけあるけど、その後は全くない。今も吸う気は特にない」なら「jamais plus」かな、なんて。
ベルンから4時間かけて、ようやくパリに戻って参りました。今日はとにかく明日締め切りの原稿を書かねば。
今日、姉夫婦が東京より遊びにやって来ました。今、私の横でいびきをこいて寝ているところです。
何しろお盆の高い時期。使った航空会社は一番料金の安いAOMです。ですから、到着はオルリー空港となります。それで、我々もオルリー空港に迎えに行きました。18時30分の到着予定だったので、19時を目標に行ったのです。まあ、RERの駅から新交通システムが出来ていたのに驚きつつも、予定通り19時に到着しました。
ところが、タイムテーブルに到着便が全然出ていないのです。不審に思い、インフォメーションで聞いてみたら、何やら端末を捜査したおじさん曰く、
Oh la la! Il est arrive 2 heure en avance!!
なあんと、16時半に到着してしまったのでした。ターミナルをあちこち探しまわって、30分後にようやく姉夫妻と遭遇。どないしたんや、と聞いたら、本当はモスクワでワンストップするはずだったのが、向かい風が弱かったとかで、そのままパリまで直行してしまったのだとか。乗客も乗務員も、みいーんなパリではなくって、モスクワに到着したのだと思ったのだそうです。モスクワにしては、町並みがパリに似ていると言っていた人もいたとか。
DC10も頑張って飛んだもんだ!
8月12日から15日まで姉夫婦と同伴でスイスのベルンに旅行してきます。この間はアクセス出来なくなると思います。
なんと、渡仏後これが2回目の旅行なんて金も甲斐性もない亭主をさらけ出している。しかも毎回無銭旅行。
ベルンには姉が演劇やっていたころの友人が住んでおりまして、そこに姉、弟しかも夫婦2組でころがり込むのです。でも、ベルンはドイツ語圏だし何もないと言われているので、今から何をしようか考えあぐねています。どうも初めてのスイスで、フォンデュを食って腹を壊して以来、スイスには良いイメージを持っていない。
パソコンを持っていって、一日中テトリスでもしていやうか。
いやー、昨日もなかなかつながらんかった。かといって、TYMPASを使う気にはなれなかったしで、ようやく寝る前につながりました。もすかするとこれは、FENICSからCISにアクセスできるようになったからだらうか? 別にトラブっている感じはないから、日米間の回線がオーバーフローしているとしか考えられない。でも、米−日のアクセスが突然増えるわけないですからね。これは日−米のアクセス増としか考えられない。
ええい、困ったものだ。
前に電子蚊取りマットはありそうでない、と書いてしまいましたが、これは存在しておりました。フランスニュースダイジェストにしっかり載っておりましたゆえ、ここで訂正。
そういえば、パリではほとんど野良犬、野良猫を目撃した記憶がないけれど、これは存在するのだらうか? のうのうとはびこる鳩を見ると、実は存在しないのではないかと言う気もする。そういえばカラスも見かけませんね。
そうなると、未確認ながら、
いそうでいないもの:
野良犬
野良猫
野良カラス
となるのだろうか。
とにかく聴きまくって体に染み込ませるというのが、結局のところ一番効果的だと思いますね。
旅行会話というとこれまた範囲が広くてやや難しい。むしろ、以前話題によく出てきたテキストN.S.F(Nouveau Sans Frontier)の第1、2巻のディアログを暗唱できるくらい聴き、喋る練習を継続する方が効果的であるように思われます。そのためにはまずテキストとテープを求め、テープのディアログに相当する部分を自分で再編集します。
私が一番いいと思う方法は、30分テープの両面に同じ内容を入れることです。これですと、15分のディアログをエンドレスで聴くことになります。ディアログを聴くのと同じスピードでテキストも見ずに話せるようになれば、次の課に進むという風にします。
無論、学校に通った方が、何かときっかけと機会が得られることは間違ないでしょう。まあ結局のところ促成栽培のような便利な方法は存在しませんから、極力フランス行語に接する機会を増やす頭のみでしょうね。
最近はほとんどテレビを見ないようになってしまったんですわ。せいぜいF1の中継くらいです。
フランス人がテレビをあまり見ないという気持ちが最近よくわかる。何しろつまらないです。白すぎる。面白いのはせいぜいニュースと映画と日本で放映しているアニメと映画だけでは?ドキュメンタリ、ドラマ、バラエティ番組のつまらなさは絶望的ですね。無論これは人の好みによるでしょうから、まあまり断定してはいけないのでしょうが。
やはりNHKは偉いと思ったりする。
いまラジオで土井たか子の衆議院議長就任を伝えていました。イギリスのサッチャー女史を引合に出していたのですが、その中で「damme d'affaire」という表現が出てきました。
homme d'affaire はビジネスマンですけれど、damme の場合は政治家でも使うのだらうか?
昨日ニフティにアクセスしたら、共同通信フラッシュニュースが「河野官房長官が従軍慰安婦問題を謝罪」と伝えていた。その十数分後、FMフランス・ア ンテールが東京特派員報告も交えてかなり詳しくこの件を報道していた。
日本のニュースといえば、普段は経済関係ばかり。それがこのかなり大きな扱いである。かの戦争が、日本のかかわった世界史的大事件であったことを、否応なく感じさせられた。
小銭入れですけど、これは確かに存在しております。道端の露天でアポロキャップなどと一緒に売っているのをよく見かけます。ブランド品ではどうだったかな???見たような気もするけど。形は日本で見かけるものと大差なかったと記憶しております。
フランですと5フラン硬貨がバカでかくてやっかいですね。以前は10フラン硬貨が役立たずだったのでいやいや持っていましたが、今では5フランが一番邪魔です。因みに私は小銭入れを使う習慣が身に付かず、結局いつもポケットマネーになってしまいます。
硬貨よりもフランの場合は札のチャチさが情けない。多分、今ヨーロッパで一番みすぼらしいデザイン/材質でしょう。ドイツマルクと比べると、その落差に愕然とします。これでは為替が暴落しても仕方ない?
小切手やCBを持つようになってから、常時持参しているのは100Frs紙幣2〜3枚です。あのバカでかい500Frs紙幣は、入国直後にほんの束の間持っていただけでした。
HDTVでテレビの国際規格統一がなされかけたのですが、トムソンの横槍で潰れてしまいました。当のトムソンが独自方式を量産できず、頼りのフィリッスが大赤字を出して撤退。結局トムソンの野望も泡と消え、そのあとでは相変らず渾沌だけが残りました。
オーディオ・カセットは元々フィリップスが開発しました。フィリップスはこれをラセンス供与しようとして、松下の合意も取ったそうです。それをソニーが捩込んで、大賀現社長が例のバリトンでグルンディッヒの首脳を説き、フィリップスに「脅し」をかけたそうです。その結果、フィリップスもカセットの規格を無料で開放することに同意したとか。
日本では「フィリップスとソニー」がCDを開発したとされていますが、ヨーロッパの報道では極力?ソニーの名称を出さないようにしているみたいです。これも一種の見栄でしょうね。規格は両社の共同提案なのに。
今日は久々に天気が良かったので、シャンゼリゼにある書店まで散歩がてら行ってきました。目的の本はなかったのですが、折角ここまで来たので、在仏日本人会事務所まで足を運びました。カミさんと共に新聞などを読んでいたら、呼びかけたのがなんとM村さんでした。リヨンの方は連日天気が良いそうで、我々とは比較にならない健康的な肌つやでございました。
多分、フランスは建前のやかましい国であるゆえ、酒類及び煙草の自販機は法律で禁止されているのではないだらふか?
そういえば、日本でもビールの自販機が撤去されるっていうのは本当?
ありそでななくって本当に腹が立つのはTeleCarteですねぇ。何しろカードがなければ電話をかけられないくせに自販機がない。ところが販売しているはずのタバコ屋が街によってはどこにもなかったり、あっても土日休みとか、夏のこの時期だとバカンス閉店。どーやって電話せいと言うの?と叫びたくなる時がありません? まったく、システムを作りながら運営がなおざりにされる、どこかスッポリ抜けているというフランス人気質をここに見るような気がしました。まあ、こんな文句言ったって、どうせ「いつも持っていれば問題ないじゃん」と言われそうで、一層腹が立ってしまう。
SNCFのシステムは「ソクラテス」だったのでない? これ、本当ーーに評判悪いですね。
なお、イギリス、ドイツで紙幣利用可能な自販機があるのは、ポンド、マルクの新紙幣のおかげです。新札をお持ちの方は一度とくとご覧あれ。読み取り用の金属ストライプが札に折り込まれておりますから。日本の自販機は札を直接読み取っているのですが、ヨーロッパにはかようなハイテクがないため、札に工夫したのですね。
残念ながら、フランスの放送方式で録画されたビデオは日米方式のデッキでは再生できません。マルチ方式と呼ばれるビデオデッキ及びテレビが必要です。どちらとも簡単に買うことはできますが、通常の方式に比べかなり高価です。
ビデオそのものはfnacで探すくらいは簡単にできますが(ある保証は勿論ありませんけれど)....。
ご参考までに:テレビの国際規格(CCIR規定)
NTSC方式:主として北米、アジア、オセアニア。RCA開発。
PAL方式:主としてフランス以外の西欧。Philippes開発。
SECAM方式:主としてフランス、東欧、旧ソ連。Thomson開発
3方式には互換性がありませんが、PAL/SECAM併用方式はヨーロッパで比較的普及しております。NTSCとの併用は全くなし。
私、料理好きですねぇ。いやいや食べる方だけでなくって、作るほうが。実家が定食屋でありましたゆえ、営業をやっていた頃に調理師の免許を取らなかったことが悔やまれます(メシ屋の倅は簡単に取れるのですね。見習期間をしごく自然にデッチ上げられますから)。
料理を好きになったのは、白馬のペンションでバイトしていた頃です。当時のチーフが酒好きで、「おつまみヲタク」だったものですから、いろいろ変わった技を教えて貰いましたし、見ようみまねで結構楽しめました。
姉夫婦が夏休みを利用して遊びに来た。この夏、日本は異常気象で野菜価格が高騰していたとかで、姉たちは「とにかく野菜を食べたい!」と叫んでいた。到着翌日に近所の常設市場の場所を教えたところ、以降、自分たちで大量の野菜を買い込んでは、サラダにして食べまくっていた。フランスはあちこちから農産物を輸入しているため、多少の気候変動があっても、なにかが突然高騰するということは少ないようだ。それ以前に、多少高騰したところで、元の値段が日本よりも圧倒的に安いので、日本人は高いと実感できないだろう。
姉の友人が結婚してスイスのベルンに住んでいるので、我らともども遊びに行くことになっていた。その友人は、姉が劇団の研究生をしていたころの同期生だ。演劇をやる前は日航でアテンダントをやっていて、姉とおなじ劇団の研究生を辞めたあとは、演劇の勉強をするために単身ニューヨークに行ったという経歴の持ち主である。わたしも何度か面識があった。テンポよくポンポン突っ込んでしゃべるタイプの人だった。
パリからジュネーブまでTGVで移動し、ジュネーブからベルンまでは在来線を利用した。切符は姉夫婦に日本で手配しておいてもらった。航空機こそ使っていないが、我ら夫婦にとってはフランス在住後、一時帰国を除けば初めての「国外」旅行である。
ベルンの駅では姉の友人が出迎えてくれた。家は駅からバスで10分ほどのところにある。ダンナさんはベルン出身のスイス人で、二人のあいだには男の子が二人。我ら一行4人を含めて夕食は8人という大人数だったが、全員が共通してしゃべれる言語が一つもないという状況だった。そんななかでいちばん器用な「使い分け」をしていたのはダンナさんで、わたしとはフランス語、子どもたちとはドイツ語、他のひとたちとは英語である。そもそもこの一家、夫婦の会話は英語、母子の会話は日本語、父子の会話はドイツ語なのだった。
翌日、ルツェルンの街を訪れた。14世紀に造られたカペル橋を渡ることもできた。この橋、我らが訪れた一週間後ぐらいに火事で大被害にあったので、元の姿を見ることができたのはラッキーといえなくもないのだが、素直に喜べないことである。
(2006.3.2記)