21世紀の日記
20世紀の日記

*この日記について

94年6月の日記は、パソコン通信NIFTY-Serveの「外国語フォーラムロマンス語派館」に書き散らしていたものを再編集したものです。ただし、タイトルは若干変更したものがありますし、オリジナルの文面から個人名を削除するなど、webサイトへの収録にあたって最低限の編集を加えてあります。
当時の電子会議室では、備忘録的に書いた事柄もあれば、質問に対する回答もあります。「問いかけ」のような語りになっている部分は、その時点での電子会議室利用者向けの「会話」であるとお考えください。


1994年6月30日 senat

 1993は droite の圧勝でしたね。たしか 400議席を越えたんじゃないかな。社会党は 100議席を切ったはずですから。状況としては、1958の割合に近かったと思います。
 余談だけど、上院って Senatなんですよね。サンマリノGP直後は、Senat よりも Sennaのニュースのほうが多かった……。

1994年6月19日 merde

 "Oui ou merde ?" ほんの数回聞いたことがあるだけだから、男同士で親しい間でした使わないんじゃないかな。
「いいと思う? それともクソくらえか?」ってな感じじゃないでせうか。

1994年6月18日 j'suis la

「je」は限りなく「シュ」に近い、とくにパリでは。
 je suis:シュイ
 je sais pas:シェパ
 je fais:シ(ュ)フェ

1994年6月15日 ミニテル端末

 オンライン・ショッピングで痛感したのですが、ミニテルのようなサービスでも、絶対に電子メール機能が必要だと思います。いまはミニコムというサービスが付加されているのだけど、まだまだそんなメジャーではない。
 結局、カタログ販売でもクレーム処理をカバーしてないと、トラブったときに面倒なんですね。ぼくが「初めての Online Shopping」の連載をストップしたのは、実はがんがんクレームをつけている最中だからなんです。
 ついさっき、3度目のクレーム電話をしました。まったく、これなら直接店に行って買えばよかった、としみじみ思っています。
 その点、パソコン通信はメールがあるので安心できる。
 でも、ミニテルは確かに便利なんですよね。フランス中小企業の会計システムが連動してないからいけないんだけど……。

1994年6月11日 ミニテル

 最近あちこちで、マルチメディアや情報ハイウェイに関する議論を見せてもらったり、参加させてもらうことがあります。その都度痛感するのが、10年前の繰り返しという印象でした。
 10年前――ちょうどニューメディア・ブームが起きたときです。
 あの頃は、キャプテンを利用できればとか、絵が出ればとか、技術的な問題がクリヤーされ、インフラ整備がなされれば、いくらでも需要は出てくるような安易な発想があったように思います。いまのマルチメディアや光ファイバー通信網についても、スケールこそ違え、同じ安易さがあるように思います。
 ミニテルを使っていて、一番じゃまくさいと思うのが実はグラフィックス画面なんですよねえ。
 べつに絵を見たいわけじゃないのに、表示に時間がやたらとかかる。時間課金ですから、結構いらいらします。
 こんなことを考えると、案外とマルチメディアは用途を厳しく絞っておかないと、10年前の二の舞になるんじゃないかなあ、などと思っています。いろいろなメリットがあるのも事実なんですが……。

1994年6月8日 Le Dernier Metro

 あたしゃ、ドヌーブのファンです。
 パリ・メトロの終電は、終着駅に1時到着っていうのが目安ね。だから、始発駅を0時半ごろ出発って感じでしょう。
 RER でも同じぐらいだと思います。始発駅が0時頃かな。

1994年6月8日 銀行口座物語(7)

 駅の出口のところでは、なにやら所在なげな酔っぱらいが4人ほどたむろしていた。階段には、物乞いとおぼしき老人が腰をおろし、顔をうつむけたまま、右手をずっと差し出していた。
 メトロ4番がレ・アールを過ぎ、さらに東駅を越えると、乗客の雰囲気が明らかに変化する。
 4番の停車駅といえば、左岸であれば、サンミッシェル、オデオン、サンジェルマンなどだ。花の5区、6区をつっきる。車内にはお洒落な雰囲気のひとが多い。
 ところが、レ・アールより北になると、浮浪者風の「乗客」が増える。その多くは、駅と車内を寝床にしているひとたちだ。酔っぱらいも多い。
 別に彼らが乗客に危害を加えるわけではないのだが、オデオンあたりから乗ると、雰囲気の変化に正直いって戸惑ってしまう。
 Chateau d'Eau の駅を出る。酔っぱらいたちの「とぐろ」を無視する。
 なんだか街がほこりっぽく感じる。そこかしこに、所在なげなひとたちがたむろする。カフェは場末のような雰囲気で、昼から「できあがっている」ひとたちが多かった。
 待ち合わせの場所は、アパルトマンの入り口だ。建物の位置は詳細な地図で確かめておいた。
 まずは、そこに向かう。
 駅からアパルトマンまで、ほんの2、3分の距離だった。狭い通りを50メートルほど進むと突き当たり。そこを右に曲がってまもなくの場所だ。
 あとでわかったことだが、この突き当たりの通りは、パリでも有名な食材店が密集するところだった。たしかに初めて訪れたこのときも、肉屋、八百屋、魚屋が多いことに気がついた。アパルトマンと反対の方向に向かえば、店の数はもっと多く、そして雑多だった。
 暑い。陽射しがしみる。
 小さなスーパーに入り、よく冷えた7UPをひと缶買った。一気に飲み干す。炭酸は気分がよかったものの、甘みがくちに残った。
 アパルトマンの場所はすぐに確認できた。
「庶民的」ということばを思い出した。
 近くには店がたくさんあり、いかにも庶民的な商店街のまっただなか、という雰囲気だった。それはそれで、生活の便はいいだろう。
 そこかしこにたむろする、所在なげなひとたちが気になる。別に彼らがなにをする、というのではない。が、パリ生活初心者には、正直言って、どことなく不安感を抱かせる光景だ。
 待ち合わせの場所にもどる。ランデブー時間の約2分前。
 ほぼ時間ジャストに、大家さんの日本人女性が到着した。

1994年6月7日 世の中のステレオタイプ

 Mac はハングるもの。
 DOS は使いづらいもの。
 ソフトにはバグがあるもの。
 ディスクはクラッシュするもの。
 フランス人の仕事に完璧はめったにないもの。
 出版物に誤植はつきもの。(^^;ゞ
 試験は落とすもの。(;_;)
 納期は遅れるもの。
 クスクスはアニョーで食べるもの。
 注文したCD-ROMは届かないもの……

1994年6月7日 銀行口座物語(6)

 フランスで銀行口座を開くのは、それなりの社会的信用が必要だ。住所確認がかなりうるさく、きちんと居住事実を証明しないと、口座開設はできない。
 自分宛の EDF/GDF、またはフランス・テレコムの請求書があれば、話しは一番手っ取り早い……どころか、身分証明書を提示しても、これらの書類の提示を求められるのが普通だ。
 さて、この時点でぼくは滞在許可証をまだ申請していなかった。ポンピドーのアパルトマンはバカンス貸し。要するに「もぐり」だ。この住所では、口座開設はおろか滞在許可申請さえできない。
 そんなことは最初からわかっていた。
 じゃあ、なぜそれを承知でそこを借りたのか?
 じつは「女神さま」がいたのだ。
 たまたまパリ市内に知り合いが一人だけいた。知り合いといっても、6年前に仕事でアテンドを頼んだだけだ。面識はあとにもさきにもその一度だけ。日本を発つ直前に、何年かぶりで手紙の往復をしただけだ。
 そのひとは、8年前からパリに住む日本人女性で、ご主人はCNRS付属研究所の理事を務めている。そのご主人にも、6年前の研究で少しお世話になった。
 でも、たったそれだけだった。
 パリに到着した3日後、彼女に電話で連絡をとった。オヴニーなどで見つけた物件をリストアップしたのはいいものの、立地条件がさっぱりわからない。周辺環境でも聞ければいいかな、と思って連絡したのだ。
 受話器を取ったのは彼女だった。名を告げると、手紙の往復もあったので、すぐにぼくだとわかってくれた。住処の相談にも親切に応じてくれた。
 この時点で、ぼくは10区 Chateau d'Eauにあるアパルトマンに、ほぼ決めかけていた。もう一軒、13区の Les Gobelins の物件もいいと思っていたが、電話をした時点で、すでにバカンス貸しが入っていた。9月以降ならば、ということだった。
 契約が9月になってしまうと、滞在許可の申請ができない。見るだけ見てみますかと言われたので、まあ、話しのタネ程度にと思い、とりあえずアポだけはとった。
 とにかく、住所を確定させないことには、滞在許可が申請できない。それどころか、カミさんの家族ビザの申請さえできないのだ。
 ひたすら即決優先だ。
 ほぼ8割がた、Chateau d'Eau に住むつもりでいた。大家さんはご主人がフランス人技師だという日本人女性で、電話で話していて、とてもほがらかな感じのするひとだった。とにかくことばに不安がある以上、ついつい日本人の大家さんをアテにしてしまう。
 件の知り合いに相談したところ、Chateau d'Eau は「庶民的な」カルチエだという。いまひとつニュアンスが分からなかったが、便利なところであることは間違いないそうだ。
 彼女に電話をしたあと、再度その大家さんに連絡した。部屋を見せてもらう約束を取り付ける。
 ほかにどうしても借りたいという日本人留学生がいるそうだ。
 大家さんは「できればご夫婦にお貸ししたい」と言ってはくれるものの、そこはやはり早い者勝ちだろう。見て気に入ったら、即、決める必要があると思った。
 念のため、カミさんに国際電話を入れる。状況を一通り話し、即決の了解をとりつける。カミさんのほうは、ぼく以上に状況がわからない。だから、結局「あなたにお任せ」するしかないのだ。
 部屋を見せてもらう当日、約束の時間より30分早く現地に行った。ホテルのあるオデオンから Chateau d'Eauまではメトロで一本だ。
 この日、やたらと蒸し暑かった。
 パリにしては、異様に湿気が多かった。普段はひんやりとしたメトロの駅も、朝からむんむんする空気だった。スラックスが、汗で足にへばりつく。ベルトでしめているあたりが、すこしかゆくなるような陽気だった。
 メトロ4番に乗って、Chatelet、Les Hallesと過ぎる。パリを何度も訪れたひとならわかると思うが、メトロ4番はレ・アールを境にして、車内の雰囲気が相当変化する。
 さてさて、いったい何が変わるのか?
 そして、街の雰囲気はどうだったのか?
 部屋は借りれたのか?
 あるいはライバルに一歩先行されたのか?
 状況はいよいよ緊迫……でも、話しは銀行口座からどんどん逸れる。
 が、大詰めは近いぞ。待たれる次回!

1994年6月4日 銀行口座物語(5)

 Carte Bleueは……来なかった。二週間どころか、三週間たっても来なかった。
 その間の運転資金は、別に持っていたフランのTCで間にあったが、まとまった現金をいつも持ち歩くのがうっとうしかった。
 一ヶ月待った。
 まだ来ない。
 が、8月にはいってすぐ、7月分の取引明細が届いた。
 ちゃんと入金されている。ひと安心。
 残高、約24,500フラン。
 あれ、3万フラン送金したんじゃなかったの?
 と疑問におもうあなた。あなたの記憶はすばらしい。
 からくりは……というほど大袈裟なものではないけれど、こんなことがあったのだ。
 まず、五千フランだけはキャッシュで持ち帰った。なにも知らない外国の生活、現金は危険物であると同時に、お守りのようなものだ。
 これで残り25,000フラン。
 百フランは定期預金口座にまわした。これもちゃんと記録されている。
 残り24,900フラン。
 で、差し引き四百フランほどは、再送金手数料として天引きされていたのだ。
 シリーズの最初に書いた通り、一度フランスに送金された3万フランは、一度東京に送り返され、再びフランスに呼び戻されたのだ。最初の送金分については日本で手数料を払っているが、この呼び戻しについては、送金のなかから手数料を天引きされたのだ。
 ちょっと待った。勝手に送り返したのはクレディ・リヨネの方だろうが。なのに呼び戻しで手数料を取るのは変だろう?
 と思うあなた。江下もまったく同感であった。
 で、さっそくクレームをつけようと思った。
 しかし、どこにクレームをつけたらいいんだろう?
 心情的に、セルジー支店とやりあうのはいやだった。なにしろことばが出てこない。ことばの続かないクレームほど、さまにならないものはない。
 考えてみると、二度にわたって手数料を取ったのは、東京支店のほうだ。ここなら日本語で文句を言える。よし、攻撃目標設定。
 結論から言うと、クレディ・リヨネ東京支店はこっちの主張を認めてくれた。手数料の一方は、後日、日本の銀行口座に円換算して振り込まれた。
 はなしを戻す。
 とりあえず、一サンチームも欠けることなく、虎の子は口座に残った。
 が、カードなしではまったく使えない。当座預金だから、利息だってぜんぜんつかない。
 さすがにここまで事務が滞るのも変だと思い、セルジー支店の担当者に電話をかけることにした。事前に和仏辞典その他を調べ、想定問答を作成する。
 電話がなかなかつながらない。あとからわかったことだが、フランス人はちいさなことでもすぐに電話で確認をいれる。ひとつひとつの電話がこれまた長い。だから、銀行に電話をしても、すぐにつながるのはマレだ。
 この日も十回ほどトライして、ようやくつながった。
「メレさんをお願いします」
「私がメレです」
「あ、その、わたくし、あなたの日本人顧客、江下と申します」
「はい?」
「それで、クレームがひとつあります」
「それはなんですか?」
「申し込んだところのCBが届きません。ひとは申し込み後、二週間以内に届くと言っていました」
 ……という、まるで清水義範のようなやりとりを経て、なんとか要件は伝えたつもりであった。
 でも、心配だったので、同じ内容をファックスでも送った。
 さてさて、今度こそカードは届いたでしょうか?
 それは次回のお楽しみ。

1994年6月4日 黄金の丘(3)

 電車は Nuit St.George あたりを通過したようだ。
 隣のコンパートメントには、にぎやかなグループがいるらしい。なにかで大騒ぎしている振動が、背中越しに伝わってくる。
 菜の花畑のじゅうたんの間には、まだ伸びはじめたばかりのぶどうを連ねた畑がひろがる。線路の東側は、どこまでも平坦な畑だった。
 おそらくほとんど直線に進んでいるであろう線路にそって、道路が平行してはしっている。コンパートメントの反対側なので、車の流れはほとんど見えない。どうせほとんどまばらだろう。
 ほんの三時間ほどまえ、小杉さんを送るためにディジョンまで行ってきたばかりだった。ロンドンに帰る小杉さんは、ディジョンからパリまで一足先にもどったのだ。
 われわれは小杉さんを送ったあと、車を返すためもあってボーヌに引き返した。乗り捨てで借りておけば、こんな面倒なことはしないですんだ。借りるときは、そこまで頭がまわらなかったのだ。
 もっとも、ボーヌなら引き返すだけの魅力は十分にある。
 でも、いまははやくパリに帰って、ごろりと横になりたい気分だった。胃の方はあいかわらずもたれている。

 * *

 ときおり小雨がふるなか、ディジョンの市街にはほとんど留まらず、ボーヌ方面に向かった。別れた小杉さんにかわって、町田さんが運転する。
 町田さん、左ハンドルはひさしぶりだそうだ。それでも、田舎の幹線道路なので、いちど動いてしまえばあとはスムーズにいったようだ。
 途中、Clo de Vougeotに寄る。
 前日訪れたときは、すでに見学時間が過ぎたあとだった。管理人が門のところにいて、明日の朝にでもいらっしゃいと告げていた。建物や畑の写真は撮らせてもらったが。
 この日は再挑戦というわけだ。
 ディジョンに向かう途中で寄れば、小杉さんもいっしょに見ることができた。
「それは次の楽しみにとっておくよ」
 小杉さんも仕事と遠足の連続で、ちょっと疲れ気味だった。
 畑の間のせまい道を抜け、城の門の前にたどりつく。車がすれ違えるくらいの幅の出入口を、団体客がぞろぞろと通過する。なまりの強いフランス語だったから、南仏あたりのバスツアーだろうか。門の前には観光バスがとまっていた。
 彼らが全員通過したあと、町田さんが車を動かし、われわれは城の前にある駐車場に向かった。
「だめだよ、ついてないな」
 思わずこぼしてしまった。
「え、閉まってるの?」
 町田さんが少しがっかりしたような声でいった。
「いま昼休みですよ」
 入り口の案内をみたら、ちょうど5分前から昼休みにはいったところだった。次の見学時間は2時間後。これではレンタカーを返せない。
「引き返しますか」
 カミさんとふたりでうなずく。
 この Clo de Vougeot のすぐさきには、試飲のできるシャトーがあった。とりえず車でそこに向かう。せっかくブルゴーニュまで来たのだから、試飲ぐらいはしてみようということで意見が一致したのだった。
「ああ、いまちょうど満員なの。入れないわ」
 駐車場に車をとめた直後に、シャトーのなかから女性が告げた。
「待ってても無理?」
「お客さんたち、いま入ったばかりだからね」
 彼女がシュラッグした。
 多分、Clo de Vougeotで入れ違いになった団体客が、ここでワインの試飲をしているのだろう。
「仕方ないか」
 またしても三人でうなずきあう。
 彼女に向かって手をあげ、ひところ礼をいい、すごすごと車に戻った。

1994年6月4日 はじめてのOnline Shopping(2)

 17区にあるORYXというマック屋に向かった。ここは、以前 SyQuestのドライブを買ったところだ。SVM Mac で広告を片っ端からみたところ、この店が一番安かったのである。パリ市内だし、家からもそう遠くはなかったので、手頃であった。
 書留を受け取ってから、ダンフェール・ロシュロまで散歩した。ここからメトロに乗って、店の最寄り駅Conventionまで約十分。
 わりとあたらしい住宅地のなかにこの店はある。あらかじめマック屋と知っていなければ、きっと普通の事務所だと思うだろう。ディスプレイのなんもない店なのだ。
 ドアをあけて、店員のにいちゃんに「CD 300ある?」と尋ねる。
 にいちゃんが在庫を調べに行った。のこのこそれについていく。
 端末をぱこぱこ叩いたあと、首を横にふってひところ。

 ――Nous n'avons plus de stocks...
 しゃあない、いつ補充されるの?
 ――Euh...vendredi.
 3日後かあ……まあいいけど、またここに来るのは面倒だな。
 ――Vous voulez commander?
 考え直させてもらいますぅ。
 ――OK, Ok, tres bien!
 ほな、さいなら。

 ということで、すごすごと店をあとにしたのであった。縁がなかったんだろうなあ。まあ、あれだけの安値じゃあ、しゃあないわなあ。
 と、これがいったいどうオンライン・ショッピングにつながるのであるか?
 待たれる、次回

1994年6月3日 銀行口座物語(4)

 ――疲れた……
 寝たらあかんと思いながら、RER の揺れが睡魔を繰り返し呼び寄せた。シャトレに着いた頃には、ほとんど眠りかけていた。
 レ・アールの地下階から長いエスカレータを乗り継いで、ようやく地上に出た。午後7時を過ぎたというのに、まだ日が高い。夏至を二週間前に過ぎたばかりだ、日没まで、あと二時間はあるだろう。
 出口のかいわいに大道芸が二グループほど。四重の人垣が取り囲む。
 疲れた足どりで、その横を無関心に通り過ぎる。噴水のある広場を正面にすえて左に向かう。マクドナルドには行列ができていた。石畳の歩道の先に、ポンピドーセンターが姿をあらわす。
 バカンス貸しで見つけたアパルトマンが、駅のすぐ近くで助かった。ポンピドーセンターまでは徒歩一分というこの新しい住みかまで、観光客にまじって向かう。バーガーキングのところで、狭い一方通行の路地を左に向かう。
 コード番号を入力して玄関を開け、郵便物をチェックする。それから鍵をつかって内扉をあける。「内側」に入ってからは、階段を五階分登らにゃならん。気が重い。
 ようやく部屋の前にたどりついてから、真ん中の鍵、上の鍵、下の鍵と、みっつのロックを解除する。下の鍵が引っかかるので、それだけではなかなかドアは開いてくれない。
 この日も、ドアはきちんとしまったままだった。
 下の鍵のあたりをけっ飛ばす。ドアが内に開くと、それが空気を吸い込むような勢いを生じさせ、なかの部屋を仕切るドアまで空けてくれる。仕事がひとつ減った。
 カナッペのうえでまずは横になる。そして、書類入れからクレディ・リヨネの口座開設契約書をながめる。
 この書類にサインするまで、およそ一時間はかかっただろうか。おれがこれだけ疲れたのだから、係員はもっと疲れただろうな、と思った。
 多分、同じことを五度は繰り返し説明してもらっただろう。なにせカネがらみなので、あいまいな返事はできない。
 係員は、ぜんぜん嫌そうな顔もみせず、何度も説明してくれた。これでクレディ・リヨネがなんとなく好きになった。
 どうやら、当座預金口座は無事に開けたらしい。おまけに、非居住者では開設できないはずの定期預金口座まで開けたらしい。そして、どうやら Carte Bleueも申し込めたらしい。
 全部「らしい」なのは、契約書にサインしたあとでも、確信が持てなかったからだ。
 日本とシステムが違いすぎる。
 ハンコがないっていうのは当たり前だ。しかし、預金通帳までないっていうのは意外だった。残高は毎月取引明細を郵送してくれるっていうけど、むしろカネの出入りの都度わかった方がありがたいと思うのだ。行員は自動窓口で確認できるとはいうが、これはカードがなければ話しにならない。
 ということで、契約はかわしたけれど、カードを手にするまでは、実感が湧いてこないのだ。
 現金は敵の手中にある。カードはまだない。二週間以内に届くとはいうけれど、なにしろフランス人のやる仕事だ。届いてみなければわかったもんじゃない。
 さてさて、果たしてカードは無事に届いたでしょうか?
 それは次回のお楽しみ。

1994年6月3日 はじめてのOnline Shopping(1)

 唐突なようだが、CD-ROMドライブを買った。
 なんとなくほしいなあ、とは思っていた。でも、とりたてて必要なかったので、これまで買わずにいた。
 が、事情が変わったのである。
 ご都合主義の塊のようだが、まあいい。とにかく、買わにゃならん状況になったのだ。これで納得してほしい。
 2年前なら、どこで買えるんだろうなあ、と純情にも悩んだことだろう。そして、取りあえずジベールかfnacに行ったに違いない……と確信をもって書くのは、実際、2年前がそうだったからなのだ。わはは。
 ここで急に懐かしくなった。
 だってなあ、あの頃はどこになにがあるかなんて、ぜーんぜん知らなかったんだぞ。そりゃ、食い物が epicerie や allimentation generale で買えるっていうのは、ちゃんと Sans Frontierに載っていた。
 が、電話のモジュラー・ジャックのアダプターがどこで売っているかなんて、フランス語テキストでは面倒を見てくれないのだ。「やっとこ」を売っている店だって、「地球の歩き方」には書いていない。
 話しがそれた。長くなると苦情が怖いので、話しを戻す。
 取りあえず、2年もパリ市民をやっていると、CD-ROM屋ぐらいはわかるのである(本当か?)。ちゃんと雑誌でチェックしてあるのだ。
 6月の最初のこの日、突然暑くなった。湿気もひどい。仕事の原稿をうっちゃって、取りあえず郵便局まで書留を取りに行った。
 だいたいフランスの郵便配達は……と書き出すと長くなるので、この愚痴はまたの機会にゆずる。
 もともと出不精のこのわしにとって、外出は一大決心、そして止むに止まれぬ必然性がいるのだ(おおげさ)。書留はちょうどいい口実であった。ついでにCD-ROMを買いに行ってしまう。
 ついで……と言っても、郵便局とショップとはメトロで20分ほど離れている。が、一度外に出ると、多少の移動が苦でなくなってしまう。こういう自分を、取りあえず「静止摩擦係数が突出して大きい」と自己弁護することにしておく。
 はなしは全然オンライン・ショッピングに届かない。
 が、筆者は「銀行口座物語」で読者をじらせる快感を覚えてしまった。だから、第一回はここでストップしてしまうのである。
 さてさて、このストーリーのどこがオンライン・ショッピングに行き着くのでしょうか??


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ミニテル

日本ではインターネットが普及したおかげで、いろいろなモノをネット通販で手軽に買えるようになった。それ以前にもテレビ通販やカタログ通販は存在していたが、インターネット普及後に比べれば、需要は限定的だったといっても間違いではないだろう。その点、フランスには、インターネットの普及以前からミニテルによるネット通販が盛んに利用されていた。
ミニテル(minitel)とは、もともとはテレテル(teletel)と呼ばれる通信システムの簡易端末の名称でだったが、一気に数百万世帯に普及したため、ミニテル自体が通信システムを指すようになった。最も一般的なミニテル端末は8インチのモノクロモニタ一体型で、本体にはCCITT v.23規格のモデムが内蔵されていた。このモデムは通信速度が下り1200bps、上りが75bpsという規格であったが、94年当時、すでに14.4kbpsのモデムが広がり始めていたので、このスピードはきわめて「のろま」であった。
teletelとは一般にビデオテックス(videotex)と呼ばれる通信規格のEC方式である。日本でも80年代後半にNTTがCAPTAINという名称でサービスを実施したが、あまり普及することなく忘れられてしまった。実のところ、フランスのteletelは世界で唯一のビデオテックス成功例だったのである。
通信事業の自由化が世界的に進展した1980年代にあって、どの国も電話に次ぐ個人向け通信サービスの開発にしのぎを削っていた。そのなかでも文字と図形とをあわせて情報提供ができるビデオテックスは、「ニューメディア」の期待の星といって良かった。日本、米国、ECのそれぞれが自国の通信事業者が開発した規格を国際規格にしようとしたが、結局、三方式ともに国際規格として並立することとなった。ところが、この規格にもとづくサービスそのものが期待はずれで終わったのである。フランスの成功は、例外中の例外だったのだ。
なぜフランスだけが成功できたのか。それは、簡易端末のミニテルを無料で貸し出す方針を政府が打ち出したこと、同時に電話帳を廃止したことが大きな要因だったと考えられている。しかし、それ以上に注目すべきことは、フランスでは通信販売が盛んだったため、業者にとっても消費者にとってもミニテルはコスト的に有利な手段だった点だろう。さらに、個人がさまざまな掲示板を利用して不要品の売買を行っていたり、新聞や雑誌広告を利用して恋人募集をおこなうという習慣があったため、ミニテルの使い途がすでに存在していたのだ。そこに政府の端末無料化という方策が重なり、うまいぐあいに需要が循環したのだろう。その点、日本にはCAPTAINを必要とする用途そのものが希薄だったのだ。
もちろんアメリカでも通販が盛んだとか、個人情報を交換する掲示板の習慣があったわけで、その点ではフランスと同様である。しかし、政府が政策的にビデオテックスを普及することがなかった。また、アメリカではすでにパソコンが個人レベルで普及し始めていたし、モデムも世界ではダントツに安かったため、パソコン通信がビデオテックスの代わりに普及した、と考えていいのではないか。
(2006.3.3記)