21世紀の日記
20世紀の日記

*この日記について

94年7月の日記は、パソコン通信NIFTY-Serveの「外国語フォーラムロマンス語派館」に書き散らしていたものを再編集したものです。ただし、タイトルは若干変更したものがありますし、オリジナルの文面から個人名を削除するなど、webサイトへの収録にあたって最低限の編集を加えてあります。
当時の電子会議室では、備忘録的に書いた事柄もあれば、質問に対する回答もあります。「問いかけ」のような語りになっている部分は、その時点での電子会議室利用者向けの「会話」であるとお考えください。


1994年7月31日 便座カバー

 うちの便座カバーは日本から送ってもらったのね。
 タオルケットと便座カバーは必須救援物資でんな。

1994年7月31日 復活である

 DHLの頑張りで、30日にパソコンが届きました。
 いやー、Black Birdは速くて快適だあ。
 メールを使えなかった昨日、一昨日は、電話攻勢をかけまくってしまった。コードレス電話を二度充電させる必要のある時間、かけてしました。

1994年7月28日 不在にします

 いま、フランス時間28日0時20分ですが、あと11時間後にストックホルム経由で日本に向かいます。その間、アクセス不能になります。コメントその他は遅くなりますゆえ、ご了承ください。
 パソコンの調達でちょっとしたトラブルがありました。アメリカに発注したのですが、業者の手違いでパリ宛に送られてしまったのです。再度日本に向けて出荷してもらったのですが、その分、通信のセッティングが遅れることになります。順調にいって、次のアクセスは8月2日になると思います。

1994年7月28日 裸体と羞恥心

 衣服というと、ウェスターマルクの「裸体に対する羞恥心は決して衣服の発生原因ではなく、むしろ衣服の存在によって生み出されたものである」が印象的であります。衣服こそ、機能中心主義では説明しきれないのが面白いですね。むしろメディアに近いんじゃないのかな。
 前に小説工房で面白いエッセイがありました。「似合う(と思う)服」「好きな服」のほかに、「安心できる服」があるんじゃないか、という指摘です。日本のサラリーマンが夏でもスーツにネクタイというのは、たしかに「それを着ていると安心できる」って心理があるのかもしれない。共同幻想としての衣服の役割というのも、考えてみれば面白いかもしれませんね。
 ある在日フランス人のコラムにもこんなエピソードがありました。最初、制服が不気味だったそうです。なにやらナチズムを連想することがあったとか。ところが、長年住んでみると、その効果を評価できるようになった。共同体維持に必要な帰属意識を保つために、制服はおおきな寄与があるんじゃないか。で、日本のような過密社会だと、制服はむしろ不可欠かもしれない、と。
 フランスのファッション観あたりとは、案外とこのあたりに本質的な違いがあるのかもしれませんね。

1994年7月28日 ポンピドーのB.P.I

 B.P.I.はこの巨大なセンターの3階分を占める。2階(日本式に言えば3階)に入り口があり、1〜3階(同2〜4階)がB.P.I.のスペースとして確保されている。パリ市民にはよく知られており、「ポンピドーのメディアテック」と言えばだいたい通じる。
 各フロアーの眺めは壮観である。何しろ面妖な外観と内装のポンピドーセンター。図書館とはいえ、中はまるで巨大な倉庫のようなむき出しの天井。そして閲覧用の著しい数の机がびっしりと並べられている。無論、書架の数も各区に設置されている市立図書館の比ではない。エスカレータから見下ろすと、何やら体育館を開放して行われる古本市のような光景である。
 資料が豊富なため、利用者は引きを切らない。収容人数は相当あるはずなのに、いつも椅子は9割方埋まっている。利用年齢層は中学生くらいから老人まで、ほぼあらゆる範囲に及んでいる。語学学習用教材が完備しているため、外国人の利用も多い。パリ市内の語学学校でも、ここの利用を勧めているところが多い。
 B.P.I.には他の図書館にはない多くの特徴がある。まず、ここでは貸出を行っていない。そのため、利用者カードのようなものも一切発行されない。そのために、観光客でもフラっと気分転換かつ休息所代わりとして気軽に利用できる。ただし、館内で写真撮影は出来ない。
 貸出は行っていなくても、各資料を保管している公共図書館を検索できる。資料の貸出を希望するものは、従ってまず所在図書館を調べ、そこへ赴くことになる。反対に、B.P.I.にない資料についても、その所在を調べる方法が提供されている。従って、ここはあらゆる書籍情報を探すキーステーションとしても機能している。
 書籍類のカタログは全てコンピュータ化されており、館内に設置されている60台の端末を使って検索する。検索方法は前述したメディアテックの例と同じだが、説明内容を英語で表示させる選択オプションがある。
(以下、省略)
(『別冊宝島――図書館をしゃぶりつくせ!』1993.11より)

1994年7月27日 マクルーハン再考

 マクルーハンといえば、「メディアはメッセージ」とか、「クールな(ホットな)メディア」ですね。本質的な視点でありながら、当時はいかにも俗っぽく見られてしまった。この点、奥野卓司『パソコン少年のコスモロジー』では、〈マクルーハン再考〉という項目で次のように解析しています。

 それが画期的なテクノロジーであるなら、新しい情報メディア装置の出現は、つねにその出現前まで通用してきた人びとの常識やコスモロジーを崩壊させる。(同書 P.135)

 ぼくも産業アナリスト時代に覚えがあるのですけど、予測や解析の基本はどうしてもトレンド分析です。流れの中で現象を捉えようとする。完全な機能主義なんですね。ところが、マクルーハンの主張は一種の「逸脱」があった。にもかかわらず、セールス側の気を引くような魅力的な用語が使われていた。だから、用語が勝手に一人歩きしてしまった。 再評価にいたったのは、ようやく周辺の環境が整い、メディアに対する評価を「これまでの延長じゃあかんがな」と、研究者が認識したからでしょう。
 あと、日本ではマクルーハンをやたら取り上げたのがT村K一だったのが、胡散臭さの元だったんじゃないかという説もあります。

1994年7月27日 仏でのモデム設置/Internetの利用は?

 まず第一に、フランス・テレコムはモジュラー・ジャックを使用していません。よって、まずはアダプタを買う必要があります。これは電話機を扱っている店ならどこでも売っています。20Fくらいだったかな。
 第二に、フランスの電話交換機は日本やアメリカに比べ、性能的に一世代前のものが多いそうです。よって、パルス発信するときは、遅いほう(20bbp?)にしておかないと、つながらない場合が多いですね。ぼくの場合、前のステュディオに住んでいた頃は早いパルスでもつながりましたが、いまのところは遅い方でないと駄目です。
 Internetは、大学スタッフならたいていアドレスを持っているれど、アメリカと違って、学生は持っていないのが普通みたいです。個人間で電子メールを使うことも少ないようですね。CalvaComに加入すれば、Internet経由のメール交換も行えるし、Usenetも利用できます。
 Top Domainは INRIAですから、個人で加入するためには、INRIA に申請する必要があるようです。詳しくはしらんけど。
 ちなみに、フランスでもモデムはかなり安くなりました。パソコンでミニテルを利用しようと思うなら、フランスで V.23 対応を買うのがいいでしょう。

1994年7月27日 カイヨワ

 じ、じつは、昨日、『遊びと人間』を買いに行ったのでした。ところが、どこを探しても、店員に尋ねても、カイヨワは一冊すら置いていなかった。パリのジベール2店に行ってこの状況だから、ひょっとしてもう人気がないのかなあ、などと心配しています。fnacでも探してくるつもりですが。探したフロアがまずかったのかも。位置づけについてはまだいろいろ悩むところですが、「遊び」に興味を持ったきっかけは、サルの塩味イモの話しです。京大霊長類研の研究ですね。
 メディアの発達は、いやでも情報の過剰流入を促すはずです。そこにイリンクスの発生する余地があるように思います。特にネットワーク上のバトル、いわゆるフレーミングは、このイリンクスで説明できる部分も多いのではないか、と考えています。「ネットワーク文化はバトルの中に発生し、発達する」という可能性すらあるという気もする。ルーデンスじゃないけど。
 メディアの利用は必ず手段から遊び、機能から環境に向かうパターンがある。電話が典型ですね。そんなわけで、「遊び」「めまい」をキーワードとして考えています。
 皮膚というか、皮膚感覚についても、まさに自己と他者、あるいは外界との境界として捉えています。この領域について今回の一時帰国では、村上春樹の小説を買いあさろうと思っています。

1994年7月27日 テクニカルライティング

 ぼくもコミュニケーション研究で最初に接したのは、「論文の書き方」でした。テクニカル・ライティングですね。まあ、もともとのぼくの仕事が、調査研究の報告書書きでしたから。
 これに関連した話題として、「図形とキャラクターについて」というような議論をやったことがあります。そのときに、ひょっとすると、「読んで理解する」文化と、「見て理解する」文化の相違があるんじゃないか、日本だと「見て」直感的に理解することが重視され、それがひいては Communication ecrite ないしレトリックの未成熟に至ったのではないか、などと思ったのです。実際、フランス人は図表よりも論述をやたら好む傾向があるように思う。
 マニュアルについて印象的なのは、清水義範『秘湯中の秘湯』に出ていたエピソードです。蝶々結びをどやって説明するか、という部分ですね。

1994年7月27日 不確実性の原理

 マス・コミュニケーションの理論を眺めると、《不確実性の原理》は絶対に社会学でも成立するという気がしてきます。自然科学畑出身で社会科学に接すると、たいてい現代物理になぞらえたがるみたいですね。ぼくもミード理論を読んだとき、惑星系の重力場に例えて独り合点していました。

1994年7月26日 報道

 マス・メディアの発達した社会――アメリカと日本がダントツ――では、マス・メディアの伝える「世界」がすなわち「わたしにとっての世界」となってしまいます。
「アジェンダ・セッティング」という効果があるのだけど、メディアの強調する問題が、公衆の側でも重要な争点となりがち。この意味で、メディアは決して第三者的でもなければ、単なる「情報の管」でもないことがわかります。
 ぼくはフランスに住み始めた当初、別な意味でこの点を痛感しました。フランスでは、東欧、アラブ・アフリカに関する報道が、日本よりもけた違いに多い。まあ、それだけの利害関係もあるわけですが。旧ユーゴにしても、今のルワンダ(これがどうしても「ホンダ」に聞こえてしまう)にしても、連日トップニュースです。
 こういうのに接すると、「もう一つ別の世界があったんだなあ」と実感します。これはとりもなおさず、ぼくにとっての「世界」は、日本のマス・メディア経由でつくられていたことを意味すると思う。世界イコールG7+中国&朝鮮半島ですね、極端なはなし。
 80年代のアメリカでは、意図してかどうかは知りませんが、マス・メディア依存に対抗する市民運動が盛んになりました。それがいわゆる「ネットワーキング」ですね。「情報民主主義」という人もいます。

1994年7月25日 銀行口座物語(11)

「ここに決めちゃったらどうですか?」
 Salem の煙をふっとゆらめかせながら、Mさんが言った。
 ぼくもそうしたいと思う。見せてもらった部屋は、広さも充分だし、中も綺麗だった。家賃も手頃で、しかも Gobelins あたりの環境は抜群によかった。ムフタール市場も近く、買い物の便も文句なしだ。
「でも――」
 ぼくはコーラの残りをひといきに飲み干した。ポール・ロワイヤル大通り交差点のカフェは、午後の太陽に熱をまともに浴びていた。パラソルは気休めにもならない。
「――九月からじゃないとだめだ、というのがね……」
 これだけが唯一の問題なのだ。これさえなんとかクリアできれば、いますぐにでも契約したいくらいだ。
「それなんですけど……」
 Mさんが煙草を灰皿にこすりつける。
「主人とも話したんですが、とりあえずウチに滞在しているという証明書をおつくりすれば、滞在許可申請はできるんじゃないですか?」
 え?
 そんな……。
 初対面と大差ないというのに、そこまで……と思った。
「せっかくフランスに住むんですから、こういういいところに住んだようがいいですよ」
 ぼくにはもちろん異存はなかった。
「七、八月なら短期のアパートやウィークリー・マンションで過ごせますでしょう?」
 そうすれば、九月から晴れてこの快適な地区にすめるのだ。
「うーん、でも、ご迷惑をおかけすることは……」
「書類を作るだけなら、明日にでもできるでしょう」
 願ったりかなったりだった。夏の間だけなら、住む場所はいくらでもある。滞在許可申請さえなんとかなれば、問題はなにもないといってもよかった。
「では……恐縮ですけど、そうして頂ければ本当に助かります」
「お互いさまですよ」
 Mさんが女神さまに見えた。
 こうして、ぼくは書類上、定住先を見つけることができた。
 夏の間に住むところは、JUNKU でアノンスをいくつかチェックした。そのひとつ、一番便利そうで、しかも家賃の安かったステュディオに電話をしてみる。
 明日にでも部屋をご覧になりますか、という返事だった。
 場所はポンピドー・センターのすぐ近くだ。なんだか話しがトントン拍子に決まっていくような気がしてきた。

1994年7月25日 はじめてのぬーどしょう(5)

 ヌード・ショーの合間に、幕間芸は三つあった。瓶のほかには、体操選手のようないでたちの男五人組によるバランス芸、そして、最後にはLIDO専属芸人による帽子芸だった。
 きらびやかなショーの合間にみせるこれらの芸が、ほんとうにプロのカネを取る芸だなあ、という感動を招いた。もちろん、ショーの洗練された踊り、鍛えぬかれた肢体は、それだけでも堪能できるすばらしさだ。ストーリー性のある演出のおかげで、踊りや展開を物語としても楽しめる。
 そして、幕間でも緊張と弛緩をたくみに織りまぜた芸だ。
 ぼくはLIDOに限らず、いわゆる「夜の観光コース」はそれほど興味を抱いていなかった。それどころか、「カネと時間の無駄」というステレオタイプを抱いていたのも確かだ。
 決して安くはない。
 最低でも数百フランはする。安いホテルの3、4泊分のコストだ。
 でも、と思う。
 ここで演じられているプロの芸は、それだけの出費にあたいするものだ。決して損をしたという気分にはならないだろう。
 今回は接待に便乗したかたちだったので、ふところはまったく痛まなかった。そのせいもあるかもしれないが、東京のディナー・ショーとかの費用を考えれば、十分に許容範囲だと思う。
 そう年中行ってみたいとは思わないけれど、たまにはこういう大人の世界もいいな、と思うのであった。
 でも、やっぱりオジサンだけの大集団だけはちょっとカンベン。
(おわり)

1994年7月25日 同性間のつきあい

 ものの本によりますと、ひところ騒がれた男女のユニセックス化よりも、男の無性化という現象が顕著のようです。で、実のところこの現象がもっとも進んでいるのは日本ではないか、という指摘がかなりあったりします。
 コミュニケーション論的に考えますと、色恋沙汰は一種の「対決」なんですね。異性というまったく異なる宇宙が接触するわけですから、空間に例えると重力場が乱れまくる。SL9どこじゃない。
 それに対する逃避として、性差をはじめとするもろもろの差異を避けて自閉化するか、かえって先鋭的な差別化をはかり、周辺からの遊離をくわだてようとする――なんて解釈ができるそうです。
 中島梓のことばを借りれば、創造性のあるものはそこで分裂症に陥るか逸脱を試み、そうでないものは、オタクと化して、同類たちでぬくめあうということになります。
 グラン・ブルー世代とは、フランス版オタクなのだろうか??

1994年7月24日 禁煙法

 フランスではいわゆるエビアン法(俗に言うところの「禁煙法」)によって、飲食店では禁煙席を確保しなければならなくなりました。駅構内はすべて禁煙です。ただ、ぼくが見た限りでは、カフェ、レストランでの運用は、ほとんどなきに等しい状態みたいです。なにしろ禁煙席に座っていても、ギャルソンに頼めば灰皿を持ってきてくれますから。もちろん、ほかの客がクレームをつければ、灰皿は却下されるようです。とはいえ、もともと喫煙人口の高いフランスですから、そういうケースは少ないみたいですね。
 日本料理店はオペラ座界隈に集中していますが、案外とモンパルナス地区にもあるんですよ。値段はモンパルナスの方が安めです。パリだったら、やっぱり焼き鳥がうまいですね。

1994年7月23日 文化政策

 フランスの文化政策ですが、ぼくは経済政策というか、経済経営の根底にある思想と一体不可分だと思っています。アングロ・サクソン流の自由主義「神の見えざる手」とは明確な一線を画していますね。
 要するに、劣勢のものは保護しなければ滅びてしまう、そして、生存に関わるものに、滅ぼしてはならないものがある――という発想ですね。アングロ・サクソン流だと、どんどん滅ぼすことによって、最後に最善のものが残るということになる。
 これは又聞きなんだけど、フランス人のマイノリティ文化保護には一つのパターンがあるそうです。これは、言語において顕著にみられたらしい。
 つまり、マジョリティが優先されるのは事実で、まだライバルと見なされるうちは迫害される。ところが、もはやライバルとはなり得ないと判断されると、一転して手厚く保護されるらしい。
 ブルトン語やバスク語といった独自の言語を、ある意味で迫害しておきながら、それがもはや「方言」にすぎないほどのマイノリティになったとたんに、学校教育で手厚い保護を始めた――これが一つの型だとか。
 本質的には、「アイデンティティ」の保護意識が強烈に作用しているんでしょうね。ただ、ミッテラン政権の文化政策は、多分にミッテラン本人の個人的趣味という見方が強いようですが……。クフ王がピラミッドを後生にの残すようなものでしょうか。

1994年7月20日 おたく

 F2の「Qu'est-ce que c'est "OTAKU"?」はぼくも見ました。いきなり「Tokyo,GaGaGa」の街頭デモから始まるんで、こりゃ、えれえ騒々しい番組だなと思ってしまった。オタクの命名者、中森昭夫が全体の統括コメンテータとして登場します。いつか話題になった人形のオタク、アニメ・オタクなどのインタビューがあって、ときおり日本の社会心理学者がコメントを加えるという構成ですね。最後は晴海のコミケの場面が紹介されます。
 センセーショナルに扱っていないことは、とても好感のもてるルポですね。ただ、そのために「面白味」は若干欠けるかもしれない。個人的には中島梓にインタビューすればよかったのになあ、と思いました。オタク研究で一番踏み込んでいるのは彼女でしょう。

1994年7月15日 はじめてのぬーどしょう(4)

 ショーの合間にある「大道芸」の方が、後から考えると印象的だった。LIDOまで行って、芸に夢中になるというのも色気のない話しだが。
 案内してくれた外交官氏の話しだと、レギュラーでやっている芸人がひとり、あとはその都度代わっているそうだ。あまり客受けしない芸人は、すぐに打ち切られてしまうらしい。
 この日、最初の幕間に出てきたのは、壷振り(?)芸を見せる小柄な東洋人だった。
 最初は陶器の花瓶を高々と放りあげ、それを頭上や眉間の上で受け止めた。さっと投じられた陶器が、ぴたっと受け止められる。芸人は足を肩幅ほどに広げ、両手の拳を軽くにぎり、拳法の受けの形のようにして、左右に腕を突き出していた。
 上目遣いにして、陶器の動きを見据えている。単純な芸だが、動きが一瞬にして静止する緊張感はなかなかのものだ。
 徐々に大きな壷に取り替え、最後は火鉢ほどの大きさの陶器を出してきた。
「プラスチック製じゃないの?」
 元同僚がつぶやいた。
 彼だけでなく、見物人の多くが同じことを思っただろう。それほど大きく、肉厚のある器だった。小柄な東洋人が持つと、ひょっとしたら次の芸は、その瓶の中にもぐりこんで終わりじゃないか、とさえ思ってしまう。
 芸人の方も、こうした疑惑は承知なのだろう。まず最初に彼がしたことは、いかにも重そうにそれを振り上げ、インド人のようにそれを頭上に乗せ、左手でそれを支えつつ、右手で景気よく器を叩くことだった。陶器の乾いた音が何度か響く。本物だと納得しておこう。
 本当に重いのだろう、それまでのように、頭上高々と放りあげるわけにはいかなかったようだ。反動を付けて振り上げた瓶を、そのままピタっと眉間の上に乗せる。
 足は肩幅よりも遥かに広く構え、手は水平近くにまで広げられていた。首の筋肉に緊張が走っているようだった。
 重い瓶を乗せるのは、それはそれで大変なことなのだろう。が、それだけではいかにも芸がない。
 それはプロたる彼も先刻ご承知。
 瓶の安定を確認したあと、かれは首をすばやく左にひねり、一瞬にしてストップさせた。
 物理学の法則の復習ではないが、摩擦によって回転運動を始めた瓶は、一瞬のストップによって慣性運動に入る。彼のすばやい動きは、瓶と眉間の静止摩擦係数を上回ったのだろう。瓶が彼の眉間上で、そのままゆっくりと回転し始めた。
 客席から歓声が出始める。彼はそのまま、小刻みにきゅっきゅっと首をひねる。その都度、瓶は回転速度を上げ、最後にはぐるぐる回っているといっていいほどのスピードになった。
 彼のひたいはすりむけないのだろうか?
 場内からやんやの歓声と拍手がわき上がる。そのタイミングを見計らって、彼は重そうな瓶をおろした。ひたいには、別に血は滲んでいなかった。
 再び瓶を眉間上に乗せる。まさか同じことを繰り返しはしないだろう。心持ち、さっきの時よりも緊張しているような風もあった。
 大股の足構えを徐々にすぼめる。その都度、首の筋肉に緊張が走る。小刻みに振るえているようにも見える。
 そして、肩幅より少し広いくらいの位置になったとき、彼はそれこそ忍者のような身のこなしで、体を90度ひねらせた。
 それは、本当にあっというまのの身のこなしだった。運動の開始と終了があまりに突然のことなので、一瞬、それが何の芸なのかがわからなかったほどだ。
 が、彼が何をやったかは明らかだった。瓶の位置はもとのままで、それをささえる人の位置が90度入れ替わったのだ。同じ動作を、彼はされに二度繰り返した。
 瓶は微動だにしない。さっという動作で、彼だけが体を入れ替えている。動きには緊張感が満ちていた。客席は、歓声よりもどよめきが起きていた。

1994年7月15日 電子メール

 8年前、仕事でアメリカに行ったときのこと。
 某日系商社でモデム内蔵のパソコンを当たり前に使って、CompuServeの電子メールのデモを見せてもらったことがあるんですね。当時、ぼくは会社でデータベースを使うときも音響カプラだったので、彼我の差に歴然とした記憶があります。パソコンの中から電話の発信音が聞こえてくる!って、たまげた、たまげた。
 その時に感じたのだけど、欧米のオフィスは個室中心だから、電子メールの便利さが倍になるんじゃないかな。まあ、大部屋でももちろん便利なんだけど。
 6年前にフランスの某ビジネス・スクールの教授と話しをしていたとき、彼が「ヨーロッパでは電子メールが普及するので、ファックスは必要ない」ときっぱり言いきっていたのが印象的だった。でも、そんなことを言っているうちに、びしばし普及しているんだから、やっぱりファックスも偉大だと思った。
 そういえば、ファックスもX社の発明じゃなかったかな。

1994年7月15日 銀行口座物語(10)

 反射率の高いガラスの照り返しが厳しかった。
 夏至からまだ一週間しかたっていない太陽は、午後の三時近くになっても全然落ちる気配がなかった。気流がメキシコ湾流の湿気を運んできたのだろう。パリにしては蒸し暑い日が続く。
 イタリー広場の大きなロータリーを半周する。ちょうど周回を始めるあたりに、まるで青山の草月会館を思わせるような建物があった。天気がいい日にその反射率の高いガラスを見ると、まるで鏡を貼っているようにも見える。屋上部分には、何か変わったオブジェがあるようだ。
 正面を眺めてみる。
「パリで一番大きなスクリーン」
 ここには大きな映画館がいくつか入っている。そして、後からわかったことだが、建物は丹下健三の設計なのだそうだ。
 もちろん、このときはそんなことはつゆも知らず、石畳の巨大なロータリーを、汗をかきかき歩いただけだった。
 この日、部屋を見せてもらい約束のはしごをした。
 場所が Tolbiac と Gobelins――メトロの同じ線で、しかも二駅しか違わない。さすがに五日もあれこれ歩き回っていると、ただでさえ仕事の疲れが残っている体調にこたえる。まだ観光なら楽しむゆとりもあるのだろうが……。
 イタリー広場から Gobelins 通りはゆるい下り坂になっていた。ずっと先の方には、とんがったドームの建物が見える。多分、パンテオンだろう。
 広場から Gobelins まではメトロひと駅分あるのだが、街の雰囲気を知りたかったので、歩いてみることにした。
 ここのアパルトマンはどうせ九月からでないと入れないので、ほとんど参考程度に見るつもりだった。だから、街の雰囲気の良し悪しは特に問題ではないのだけど。それに、場所が13区だということなら、それほど大きな期待はなかった。
 変形五差路へ斜めにささる通りが、目指すポール・ロワイヤル通りだった。建物の番地表示を見ながら、待ち合わせの場所に向かった。三時にアパルトマンの前。
 一番地のところには、レストラン兼用のカフェがあった。
 その雰囲気は、シャンゼリゼやサン・ジェルマンのカフェと、何ら変わりがなかった。変な言い方だが、印象にあるパリのカフェそのものだった。
 テラスの白いテーブル、きゃしゃな椅子、黒いユニフォームのギャルソン――雰囲気のいいカフェのある街は、それだけでしゃれた感じがするものだ。大通りの街路樹もまぶしかった。
 あまり期待がなかっただけに、街の雰囲気がいっそう心地よく感じた。それを差し引いても、こんなところに住めればいいな、と思った。
(つづく)

1994年7月13日 TGV

 TGV のターミナルは、リヨン、オステルリッツ、モンパルナスの3つに、おととしの秋から北駅が加わりましたね。方角によってターミナルが違う。リヨン方面だとリヨン駅です。東京の感覚だと、東海道線、東北線、中央本線などのターミナルってとこじゃないでせうか。要するに山手線や中央線がないってことですね。
 TGV の食堂車は、ある便もあれば、ない便もあったんじゃなかったかな。
 N.S.F.3 には、TGV は TMVだなんて皮肉が載っていたんじゃないかな。

1994年7月12日 おセンチ

 ぼくは個人的に、「ロマンチストはまず第一にレアリストである」と勝手に思っているんです。なんちゅうか、ロマンってのを、厳しい現実を透徹した視点で観察したうえで、もののあわれやはかなさを感じること、というように思っています。あ、ぼくの勝手な解釈ですけど。
 で、ぼくが一方的に代表的ロマンチストだと思っているのが、コンラート・ローレンツなんですね。彼はこんなことを書いています。

 自然の美しさを一度でもみつめたことのあるものは、もはやこの自然から逃れることはできないのである。そのような人間は、詩人か自然科学者のいずれかになるほかはない。もし彼が本当に眼を持っていたならば、彼は当然自然科学者になるだろう。(「ソロモンの指環」より)

 たぶん、ここでいっている自然科学者っていうのは、すごく広い意味だと思います。かならずしも一般的な科学者をよいしょしているのではないと思う。ヘッセなんかも、人間の懊悩にまで徹底的に踏み込んだひとですよね。目をそむけるかどうかに、センチとロマンの違いがあるように思います。

1994年7月12日 欧日航空運賃

 きょう、日本に一時帰国する航空便の予約に行ってきました。1年オープンの帰りの便が残っているのだけど、この円高だと、それをうっちゃって別途欧日便を予約したほうが経済的なんですよね。
 安いチケットといえば、まずは大韓航空かAOMが浮かぶんじゃないだろうか? が、フランス発券だと、いま一番安いのはサベナ・ベルギーなんですよね(ダントツに安いアエロフロートを除く)。夏のピーク料金でもパリ東京往復(プリュッセル経由)は6200フランです。いまの為替だと11万5千円ぐらいですね。安いシーズンはもう千フランくらい安くなったんじゃないかな。
 当然ながらサベナ・ベルギーで予約しようと思ったのだけど、生憎と帰りの便が取れない。で、二番目に安いスカンジナビアを頼みました。これはコペン経由だけど、一番安いクラスで往復6300フランです。この日はHISで予約を頼んだのだけど、そのクラスの予約を確定できるのが、出発の10日前からなんだそうです。それで、とりあえずリクエストだけ入れてもらいました。
 ただ、万一予約が埋まってしまったときのために、押さえで予約したのがAOM便です。これが6700フランですから、SNより500フラン、一万円近くも高いことになる。この期間の大韓航空便は6995フラン、日航、全日空、エアフラはいずれも8000フラン超です。まあ、8000フラン超といっても、お盆のピーク時で往復十六万以下です。
 日本発料金で考えると8000フランてのは安く感じるけど、ヨーロッパ発で考えると、日本行きはダントツで高いですね。なにしろアメリカ西海岸往復が、エアフラ便で4000フランですから。

1994年7月12日 SNCFの切符自動販機

 あの機械は Bilingue なんですよね。ユニオン・ジャックを選ぶと英語画面になるんです。で、およっと思ったのが、英語画面にすると、入力用のキーボードもちゃんと QWERTYになる。芸が細かいなあと思いました。
 SNCFのシステムについては、前にポリテクニシャンの特集番組でもエリート支配の「悪い例」の一つとして出てきました。
 えげれすとドイツの自販機は、新札移行とともにお札を使えるものが増えているんです。偽札防止用に織り込まれている金属ストライプに、札の額面が記録されているんですね。札の画像認識は日本でしかできなかったのだけど、ストライプのおかげで、ポンドやマルクでも、読み込みができるようになったわけです。星の王子さまの新札が登場したとき、ひそかにこれを期待してたんですね。札に金属ストライプが織り込まれるというので。
 でも、フランは額面が刻印されていない。だから、自販機はあいかわらずコイン・オンリーでござる。
 まあ、治安とかを考えたら札は使えなくて当たり前なんだろうけど、自販機慣れした日本人には、やっぱり不便を感じるんじゃないかと思いました。

1994年7月11日 はじめてのぬーどしょう(3)

 おっぱいの形は、神秘的なまでに多様であった。
 ゆるやかなスロープを描くもの、つんと尖った頂を、ほこらしげにゆするもの、おおぶりなお椀のような半球型のもの、ひらたく拡散したもの……それぞれに個性があり、表情があるという感じだった。
 パリでは毎年大晦日になると、クレイジー・ホースのショーを生中継している。それならすでに二度観ているので、ショーのあらましはわかっているつもりだった。
 むろん、テレビ映像と生とでは、色彩の鮮鋭度が違う。実際、それは違いすぎるくらいだ。
 裸をみるというのは、本当なら、どこか淫靡な雰囲気がなければならないはずだ。その定義からすれば、このときは裸を観ているという気持ちではなかった。
 踊りが切れている。
 身のこなしがなめらかだ。
 からだのひねり、足をはこぶスピード、リズムに乗ったステップ。表情は、しなやかな動きを誇示するようでもあった。
 いやらしさは、どこかけだるくなければならない。だとすれば、こういうショーは、もっともいやらしさからかけ離れた存在だ。健康的すぎるその身のこなしは、むしろ外面の躍動美で迫ってくる。蠢くものとは別物の世界なのだ。
 ひょっとすると、踊りというのは、裸でするのが自然なのかもしれない。しなやかななかに、激しい動きがまざる。
 シャープだ。
 それを見せつけるのに、無駄な衣裳はいらないのかもしれない。裸になることによって、動きを見せつけられた思いだ。
 首が疲れたので、反対側を眺めてみた。
 そっちを向けば、そこには惚けたような観客の姿があるに決まっている。何百組みの視線が、舞台にそそがれているのがわかった。
 その間には、ギャルソンがやれやれといった表情でたむろしている。ショータイムが始まるまでは、とにかく給仕でてんてこまいだった。ショータイムは、彼らにとっては休憩時間のようなものだ。
 首の位置をもどす。振り向いていたのは、どうやらぼくだけだったようだ。みんな、相変わらず舞台を眺めている。

1994年7月11日 銀行口座物語(9)

「Allo?」
「あ、あの、先日お手紙を書きました江下ですが……」
「あら、江下さん?」
「ども、お久しぶりです」
「4年前だったかしら」
「そうですねえ。今回はまた突然お手紙なんか出してしまって」
「ご遠慮なく。外国の生活はたいへんですから」
「それで、きょう、物件をひとつ見てきたんです」
「アノンスか何かに出ていたんですか?」
「OVNIに出てました。場所が Chateau d'Eauなんです」
「ええっと、10区だったかしら」
「そう、メトロ4番ですね。で、このあたりの環境なんですが……」
「ちょっと待ってくださいね。マーク!……」《なんだい!》《ムッシュ江下から電話で、Chateau d'Eau あたりの環境はどうかって》《Chateau d'Eau?
 庶民的なところだね、パリのなかでは》《治安とかはどうなの?》《ちょっと先にセックス・ショップがあるから、夜はどうかな……》《危険という意味?》《犯罪頻発という意味ではないけど、雰囲気は怖いと思うかもね》《初めて住むところとしてはどうかしら?》《フランス人にはわりと人気のあるところだけどね。買い物が便利だから。でも、日本人で初めて住むには、かなり慣れが必要だろうなあ……》
「聞こえました?」
「はあ、なんとか。まだちょっとディクテは怪しいですけど」
「彼が言うには、フランスに住み慣れてれば便利でいいところだけど、初めて住むにはどうかなってことなんですよ」
「実はきょう行ってみて、なんとなく街の雰囲気が重かったんですね」
「奥様もご一緒に住むのでしょう?
 だったら、どうかしらね……」
「ただ、滞在許可申請と家族VISA申請の問題があるんで、早めに決めないとまずいんです」
「あ、それはそうね。他に候補はあるんですか?」
「学校のある Cergyに一件。あとは9月以降なら Gobelins にも一件あるんです。でも、9月以降ってのだと、書類申請に使えません」
「Gobelinsならいいところよ」
「一応、見に行くだけはしようと思っているんですけどね」
「それ、いつですの?」
「あさっての午後です」
「あさっての午後……。わたしも同行しましょうか?
 お手紙を頂いたあと、いくつか調べてみた物件もお知らせしたいし」
「ええ、でもご迷惑じゃないですか??」
「あさっては時間がありますから。ご遠慮なく」
「うーん、じゃあ、申し訳ないですが、お言葉に甘えさせていただきます。なにしろツテがなくて困ってたんですよ」
「そうでしょうね。外国人でお一人じゃ……」
「では、申し訳ないですけど、あさって、お願いします」
「住所と待ち合わせ場所はどうします?」
「先方とは家の前で待ち合わせてますので、そこでいかがでしょう?」
「では、そこに……」
「午後の三時です」
「十五時ね……はい、わかりました」
「それでは、どうも夜分失礼致しました」
 電話の相手は、その4年前に一度、仕事で三日ほどアテンドをしてくれたひとだった。が、その後、二度ほどクリスマス・カードを送っただけで、特に親しく連絡をとっていた、というわけではなかったのだった。

1994年7月8日 はじめてのぬーどしょう(2)

 同僚とその先輩ってのは、山岳部出身である。それも学術登山なので、ヒマラヤ遠征などをおこなうときもある。現にこの同僚は、イン・パ国境の未踏峰七千メートル級に初登頂したことがある。が、精悍な山男のおもかげははなく、四歳になる娘にビール腹をつかまれる体型と化してしまった。
 先輩のほうは40歳という実年齢よりもだいぶ若くみえる。山岳部時代は途中から幽霊部員と化したそうだが、むしろ同僚よりも山男の雰囲気が残っている。この差はビールの消費量の差だろう。
 雑談の合間にも、客が次々と案内されてくる。
 ほとんどが日本人の団体や小グループだった。われわれが入場したころは、日本人の客が「多いな」ぐらいだった。もはや「ほとんど」になりそうな勢いだ。
 それにしても、20人以上のおじさん集団というのは、それはそれで迫力があるものだ。
 生バンドが幕にかくれ、半透明のカーテンがさっとかかる。ドラムがなり、カーテンに「LIDO」のロゴがレーザー光線で照射された。フランス語、そして英語でショータイムが告げられる。
 テーブルのわきは、下段との仕切となるように、ほぼ肩の高さの「長城」がめぐらされていた。そして各テーブルの位置には、茎のながい花のかたちをデザインした照明が置かれている。
 ショータイムのアナウンスが入ると、その照明が自動的に降りていった。したに吸い込まれるにつれて、花の茎のかたちがすぼんでいく。ついついそっちを見ている間、舞台には踊り子さんたちが登場していた。

1994年7月8日 銀行口座物語(8)

「あらぁ〜、お待たせしちゃったかしらぁ?」
 頭の上から聞こえるような声……ではあったが、間違いなく目の前の女性から発せられたフォネティックであった。
 白黒の横ストライプのTシャツ、ミニのキュロットという姿。えらくほがらなか感じは、電話の声そのものだった。
「ええっと、早めにきてこのあたりをブラブラみていたんで」
 とかなんとか話しをしながら、われわれはアパルトマンの2階に向かった。
「部屋がね、とってもちらかっているみたいなの。でも、ちゃんと引っ越しのときは片づけてもらうから」
 本当に遠慮容赦なくちらかっていた。足の踏み場がなかった。正確にいえば、洗濯物や雑誌の間に、けもの道のような隙間があるだけだった。
 ドアからはいってすぐ左が台所だった。
 ここでも皿がアルプス状態だった。なにやら赤い残存物がこびりついている。南米の住民だそうだから、チリソースかなにかだろう。
 横幅はせまく、奥行きがそれにくらべてかなりあるという、フランスでは普通の台所だった。流しは掃除すればなんとかきれいになるだろう。
 ガス台はなく、調理器具はすべて電気だった。腰の高さまでの冷蔵庫、そしてコインランドリーにあるような洗濯機が置いてあった。
 右側にドッグレッグの形で部屋がつながる。われわれはけもの道を進んだ。
 居間にあたるスペースがほぼ六畳といったところだろう。突き当たりには窓、その左側に、寝室へとつながる入り口がある。
 寝室は五畳ほどの広さだった。ただ、小さな窓しかないのでえらく暑い。これじゃ、夏はたまらんだろう。
 寝室の隣の位置に、それよりもやは広い部屋がひとつ仕切られている。ただし、居間とその部屋は大きな木組の仕切があるだけで、ほぼシースルーの状態だった。
 部屋は片づければ、かなりゆったりとしていそうな雰囲気だった。家具付きで借りれるので、すぐにでも生活を始められる。ちゃんとして賃貸契約書を交わすことも確認してあるので、滞在許可申請でも問題はなかった。
 ただ、街の雰囲気がいまひとつひっかかったのだ。
 なんだかけだるい雰囲気がある。物騒というのではないのだが、どこか活気がない。いかにも場末というおもむきなのだ。
 あちこちに所在なげなひとの小グループがある。カフェの椅子がぼろい。
 街の雰囲気を知るにはカフェを見るのが一番なのだが、何軒かあるカフェは、どこも「ここの常連になろう」という気がおこらなかった。
 いろいろな店がおおいのは、確かに便利だと思った。パリでは珍しいという魚屋までが、アパルトマンの近くだけで三軒もあった。
 それにしても……なのだ。夏の日照時間の長いうちならともかく、冬になったら結構神経をつかう街なんじゃないか、という気がしてきた。
 でも、この街がどういう感じのところなのか、結局は自分の感覚でしか判断できない。誰か、パリ滞在の長いひとの意見を聞いてみたい。
 ……というところで、次回に続いてしまうのであった。

1994年7月6日 はじめてのぬーどしょう

 シャンゼリゼの LIDO で、生まれてはじめて「ぬーどしょう」を観た。
 パリに住んで2年、旅行も含めれば十回以上の滞在経験があるというのに、ちゃばれーとは縁がなかったのである。
 なぜか?
 社費で接待する機会や、招待してくれるひとがいなかったからだ。残念ながら我が家の家計では、自費で夜の華やかな世界に接するだけの余裕がない……って、自慢してどうする。
 先週の木曜日、会社の同僚が遊びにきた。出張の帰りによってくれたのだ。
 たまたま彼の大学時代の先輩がひとり、OECDの日本政府代表で赴任中だという。先輩に電話すると、さっそく「じゃあ、夜のパリでも」ということになった。わはは、それに便乗したのである。
 日本大使館の隣にあるOECD日本政府代表の事務所で待ち合わせ。LIDOの予約時間より早めに行き、まずは新聞を読みだめした。ちょうど新内閣の発足直後だったので、政変のニュースを追っかける。
 八時頃、件の先輩は仕事が一段落したようだ。
 この日は最高気温も30度を越し、パリにしては湿度も高めだった。夜の八時といっても、まだまだ日は高いといってもいい。シャンゼリゼは観光客でごった返していた。
 当然ながら、通行人の肌の露出度も大きいのだ。おっさんは厚着でもよろしい。肌が見えてもうれしくないのでな。
 レセプションで先輩が予約を告げる。蝶ネクタイ姿のマネージャーが、ギャルソンの一人に案内を促した。ちなみにこのときのスタイルはというと、先輩は当然ビジネス・スーツだったが、我が同僚はTシャツによれよれのスラックス、スニーカーであった。あたしゃヌードショウを鑑賞する心構えとして、一応、Yシャツに上着を着ていった。まあ、ネクタイは締めていかなかったが。
 ものの本によると、LIDOはちゃんとした格好でないと入れないそうだ。
 が、我が同僚はそこらのカフェに入るような格好で、特別クレームを付けられることもなかった。もっとも、外務省の一等書記官の連れという特殊事情はあるが。
 でもでも、中をざっとみまわすと、案外と裸婦な、もとい、ラフな格好の客も多かった。
 ギャルソンはほぼ中央の席に案内してくれた。ステージの奥には生バンドが入っていて、演奏にあわせて客が何組かダンスを踊っていた。まだディナー・タイムだったのだ。
 テーブルの上に、席料が表示されていた。
 ひとり460フラン也である。
 学食でならほぼ40食分……という換算は、しても意味がないのでやめる。
 ディナー・タイムなので、これに加えて食事の注文もせにゃならん。一番安いツーリスト・メニューを頼む。コンソメ・スープ、チキン、デザート一品。まるで学食だな、こりゃ。

1994年7月4日 情報ハイウエー

 この種の話題はほぼ10年ごとに繰り返されている、という印象が強いのですね。60年代の RJE、70年代の TSSベースのオンライン・システム、80年代のニューメディア、そして今度の情報ハイウェイ……。
 で、日本だと必ずインフラ整備、規制の話題が先行する。逆に言えば、インフラができて規制緩和がされれば、まあ、市場はあとからついてくるよ、みたいな楽観主義がいつもあるように思う。80年代がそうでしたね。CATVがあれば、キャプテンがあれば、それこをバラ色の社会ができるような議論があった。
 情報ハイウェイも「ニューメディア・ブーム」の繰り返しという印象が強い。
 結局、誰でも手持ちの状況でできることしかできない。だから、取りあえずできることをやってみるという姿勢が本当は重要だと思うんですよ。アメリカだと、いい意味での「踊るアホウ」が引っ張っているという感じがします。こういう「アホウ」がいないと、ビジョンだってなかなか作れないと思うんですよねえ。


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LIDOのショー

会社の同期のなかでも仲が良かった者が出張でパリに立ち寄った。彼の大学時代の先輩がOECD日本政府代表部の一員としてパリに駐在しているというので、いちど、一緒に晩飯でも、ということになった。その場所がシャンゼリゼの有名なキャバレー、LIDOだったのである。
LIDOといえばヌード・ショーが「名物」である。もちろん、シャンゼリゼ通りの、それも凱旋門からそれほど離れていない一等地でのショーだから、スケベオヤジのエロツアー会場なんかではなく、中年・壮年のカップルがお洒落をして遊びにくる社交場のようなところだ。ただ、そこには我々を含めて多くの日本人オヤジたちがいたのも事実だが。
そのころすでに30台の我々は、もちろんまだスケベっ気は十分になったものの、べつにオッパイを見物したくて行ったわけではない。興味がないことはなかったが、あいにくと(?)こういう店でのショーとなると、淫靡な雰囲気などみじんもない。なので、最初のうちは大きさ・形状さまざまなオッパイの数々に圧倒されたものの、すぐに見飽きてしまった。印象に残ったのは、ヌード・ショーのあいまにおこなわれた幕間の芸である。これは本当に感動の連続であった。いまだにLIDOの印象というと、巨大な壷を頭に乗せて回転させていた芸人である。
なお、このとき遊びに来た同期の友人は、2005年9月、帰らぬ人となってしまった。出張先の北京での急病だったという。彼はうちに二泊していったと記憶しているが、そのころわたしがハマりかけていたMYSTというゲームに彼も夢中になってしまった。二日目の晩など、徹夜でMYSTの謎に取り組み、翌朝、ほとんど一睡もせぬまま帰国の途についていた。
(2006.3.3記)