21世紀の日記
20世紀の日記

*この日記について

94年11月の日記は、パソコン通信NIFTY-Serveの「外国語フォーラムロマンス語派館」に書き散らしていたものを再編集したものです。ただし、タイトルは若干変更したものがありますし、オリジナルの文面から個人名を削除するなど、webサイトへの収録にあたって最低限の編集を加えてあります。
当時の電子会議室では、備忘録的に書いた事柄もあれば、質問に対する回答もあります。「問いかけ」のような語りになっている部分は、その時点での電子会議室利用者向けの「会話」であるとお考えください。


1994年11月21日 スウェーデンの英雄

 テニスの試合のなかでは、マッケンロー対ボルグが一番鮮烈なイメージが残っています。これこそ超対照的という感じがしました。ウィンブルドンの死闘は大学の学生会館で放送を見てました。
 当時のプロ・スポーツには、スウェーデン人の「帝王」が二人いました。テニスのボルグ、そしてスキーのステンマルクです。20代のひとだと、ステンマルクはほとんどご存じないかもしれない。アルベールビル五輪のスラロームで、二本目のラップタイムを取った老雄ぐらいの記憶かも。
 彼は 78〜79 年ワールド・カップで、大回転十五連勝というとんでもない記録を作っています。百分の一秒を競うスキーレースで、二位との差が一秒開くこともあったり、尻餅をつきながら優勝しちゃったりとかで、その速さは群を抜いていました。「ステンマルクの出るレースで、二位は優勝と同じ」とまでいわれたものです。
 彼は回転・大回転のスペシャリストで、滑降には出場しませんでした。でも、この二競技で勝ちまくっていたので、楽々総合優勝できたのですね。当時アルペン界のコミッションを支配していたフランスやイタリアは、これがえらく不満だったらしい。結局、強引にルールを変更し、滑降に出場しなければ極端に不利となるよう、ポイントの計算方式を変えてしまった。で、その翌シーズンはわずか一勝しかしなかったアンドレア・ウェンツェルンが総合優勝しました。
 誰かがダントツになるとルールを変えて優勝できなくさせる――これはF1にも見られた現象で、極めてヨーロッパ的なのかもしれません。で、ステンマルクも80年シーズンには、総合優勝を奪還するため、たった一レースだけ滑降に出場します。ところが、このシーズンではアメリカ人のフィル・メイヤーが強かった。彼が三部門でコンスタントに勝利を重ね、ステンマルクを破ったのですね。
 この年、テニスのウィンブルドンではボルグがマッケンローに破れた。「スウェーデンの英雄ふたりが、アメリカ人に引導を渡された」などと、ちょっと話題になったものであります。

1994年11月21日 BEAUJOLAIS NOUVEAU 94

 きのうは我が家でも、落合さんご夫妻を招いて Beaujolais Nouveau をあけました。水曜のニュースFMでも「ニッポンの成田には何万本が輸出され……」などと報道され、ブームが去ってもまだ入荷されているとわかり、ほっとした気分になったりして。
 うちの近辺ですと、渋目のワイン・カーブでは扱っておりません。こういうワインは、スーパーみたいなところで買うものなのかもしれませんね。ぼくは金曜の授業の帰りに、いつのスーパーで買ってきました。値段の方はピンキリありますが、スーパーで売っているのは 10Frs前後です。一番数を置いてあったものは、12.5Frs でした。どの銘柄がいいのかなんてわからない。それで、ラベルのいちばん綺麗なのを選びました。結果的にいちばん高いのだったようです。それでも 18.5Frsですが。
 ワインときたらチーズってんで、きのうは夕方にムフタールのクリーム屋さんで Brie と Poivre をひとかけらずつ調達しました。この時期になると、チーズもそろそろしょっぱさが抜けて、口あたりがよくなります。B.N みたいな若いワインのつまみにはちょうど手頃です。
 寒くなると、ムフタール市場の肉屋がなかなか壮観です。きのうも各肉屋の軒には、絞めたばかりの七面鳥やらうさぎを吊るしていました。一軒、猪の毛皮半身を出していたところもあったな。

1994年11月17日 冠詞

 定冠詞・不定冠詞の発想は、論理の全称命題・選言命題と密接な関連がありますんです。数学用語を持ち出すと「う〜みゅ」となるかもしれませんが、ぼくはこれに気がついてから、冠詞の考えが一歩前進したような気がします。
 数学の本でも、「任意の x」をきっちり「quelque soit x」と書く場合もあれば、単に「le x」と書く場合もある。「ある x」を「certain x 」とも書けば、「un x」と書いたりもする。要するに、不定冠詞だと量の概念がはいり、対象にある種の輪郭がともなうようになるんですよ。

 J'aime la femme.

 これは二通りのニュアンスが可能で、「女なら誰でも(任意の女を)愛するのぢゃ」あるいは「わしが愛するのは女である(男ぢゃないよん)」ですね。どっちになるかは文脈次第。後者は抽象概念化ってやつです。

 J'aime les femmes.

 これは全称命題といっても、「任意の」よりも「全ての」のニュアンスになるでせう。「女すべてぢゃ」ですね。

 J'aime une femme/des femmes.

 これですと、「好きな女がおるねんな」ですね。この文だけなら、存在を示すことが本質的な意味になります。une と desの違いは、単に一度に引き受ける数が単数か複数かの違いでせう。
 よって、

 cherche une jeune femme・・・「ひとりでもおればええわぁ」 (切実)
 cherche des jeune femme・・・「何人か探してます」(欲張り)
 cherche la jeune femme・・・「若い子がええ」(わがまま)  cherche les jeune femme・・・「あらゆる若い子」(誇大妄想的)

 というところでありましょう。もちろん文脈によってニュアンスは多少変わるはずだけど。
 不定冠詞で示された対象が、それ以降は定冠詞で参照されるとか、関係代名詞で限定された名詞は定冠詞になる、という原理も、論理的に考えるときちんと出てきますね。

 J'aimais des femmes. ... Les femmes sont capricieuse.

 何人かの女を愛した。そいつらの気まぐれなことったら。
(本来なら elles ですが)

 最初の「des femmes」によって、読者の脳裏には「ワタシがかつて愛した」という、限定された集合がイメージされるんですね。よって、それ以降、女といえばその限定された集合が想起されます。あとの文脈でその集合を参照するのであれば、数学的にも「かつて愛した女すべて」=「女すべて」となる。だから定冠詞を使う。

 les femmes qui se croient jeunes
 des femmes qui se croient jeunes

 これはどっちも可能ですね。

 J'aimais des femmes. ...
 Des femmes qui se croyaient jeunes etaient capricieuses.

 女なら何人か愛したて。……。自分を若いと信じてたおなごの中には、きまぐれなのもおってのぉ。(存在の指摘)

 J'aimais des femmes. ...
 Les femmes qui se croyaient jeunes etaient capricieuses.

 女なら何人か愛したて。……。連中、自分は若いと信じておったが、それはそれは気まぐれでのぉ。

 ってな違いになるかな。ニュアンスの違いを冠詞だけで表現できるってのは、ほんと便利ですよねえ。

1994年11月17日 NAP

 NAPという言い方はあったと思います。アテネ時代、ペレ師に習ったような気がする。もっとも、ペレ師によれば、これは同時に「Non Academique Peuple.」なんだそうです。

1994年11月16日 タイガース

 ワタシは生粋ジャイアンツ・ファンでありますが、タイガースも気に入っております。タイガース時代の江夏が好きやったあ。ほんまに敵ながらあっぱれなやつであった。全盛時代のONを向こうにして、対巨人戦 31イニング1/3自責点なしという大記録を立てたのも江夏であります。
 わたしメが初めて生で見たプロ野球も、巨人・阪神戦でありました。あれはいまから28年前になるのだな。後楽園がまだ電光掲示板になる前であった。セカンドが須藤、ライトが国松だったはず。
 フランスではサッカー世界選手権用のスタジアムができたようだけど、なんとなく東京ドームみたいな感じもしたなー。

1994年11月15日 class

 作者は忘れてしまいましたが、アメリカで「Class」という本が話題になりましたね。六年前だったと思います。
 これなんて、まさにアメリカ版のBCBGを分析したもので、たとえば東部エスタブリッシュメントの服装とか食事、ネクタイの柄なんかが紹介されていたと思いました。

1994年11月13日 恋人募集

 フランスでミニテルが成功した一因は、個人広告を簡単に検索できるようになったから、というのがありますね。逆にいえば、新聞広告なんかでこのような「恋人・愛人募集」をする習慣があったから、ともいえますが。
 旧 Sans Frontiere のディアログに、新聞広告で再婚相手を見つけたというストーリーがありました。はじめてみたとき、なにやら不思議であった。

1994年11月13日 マッチョ求む

 七年前、はじめて CompuServe を使ったときのこと。
 National Bulletin Board にアクセスしました。
 まっさきに出てきたメッセージが、「おれ、ゲイ。美男子またはマッチョ求む」っちゅうアノンスでありました。いやー、アメリカは進んでると思ったものである。

1994年11月12日 centre d'etudiant

 ユネスコ本部は、メトロ6番 Cambronneから歩いて5分ほどのところにあります。パリ在住の学生は、みんな最低二度はこのユネスコ本部の前を通っていることでありましょう。滞在許可申請の窓口 Centre d'Etudiantが、このユネスコ本部の隣りにありますから。ぼくはこの2年半で合計8回は行ってます。今月もまた行かないと(;_;)。

1994年11月11日 ストラスブール・オフ

 じつはこの秋から、ぼくはストラスブールに住む可能性が高かったんですよ。一時はほとんど決めかけていました。というのは、ストラスブール第二大学にコミュニケーション研究で有名な先生がいたんですね。まあ、この分野ですと、パリ第三、レンヌ第二、ストラスブール第二あたりが有名どころなのですけれど。で、まっさきにその先生に相談したんです。
 まあ、結果的にそのひとが教授ではなくCNRS研究員であるために、学生の指導資格がないということで頓挫したのですが。いまでも未練たらたらだったりします。フィリップ・ブルトンというひとで、いまの授業でもそのひとの本が参考文献になっています。
 ストラスブール・オフっていうのもいいなあ。前にもはなしたと思うけど、かつてのフランス語会議室常連のいとう・あきらさんの奥さんが住んでらっしゃるんですよね。パリでお目にかかったとき、秋頃ストラスブールで会いましょうと約束もしてたし。

1994年11月11日 翻訳上の問題

 日本の漫画を英語やフランス語に翻訳するときの問題って、なんだと思います? 実はですね、絵を左右反対、つまり裏刷りするのが最大のネックなんですって。これは前にすがやさんから伺いました。日本の漫画は右から左、英語圏・フランス語圏だと左から右に進みます。吹き出しの位置もそれにあわせている。――となると、日本製のマンガを翻訳するとき、左右をひっくり返さないといけないんですね。
 で、裏にして印刷すればいいじゃん、と考えがちなのですが、すがやさんの話しだと、左右逆にするだけで、絵のニュアンスが完全に変わってしまうそうです。しかも、デッサン力の有無がもろに出るため、裏刷りに耐えるマンガは極端に少ないそうです。
 ぼくが住み始めたころは、まだ「めぞん一刻」と「C翼」をやってました。「らんま」は「めぞん」の後番組です。高橋留美子は人気あるみたいだなー。Francenet という BBSには、日本アニメ専用の会議室があるみたいです。

1994年11月8日 農業

 フランスって、いろいろな経済指標で世界4位とか5位が多いんですね。ただ、トップとの差があまりにも開いているため、「周回遅れのトップランナー」と言われたりします。
 ただ、エネルギーと農業の自給にかける執念はすごいと思う。農業を空洞化させてないいわゆる先進国は、アメリカとフランスだけじゃなかったかな。日本なんて工業の空洞化は大騒ぎするのに、農業についてはなーんもでしたから。

1994年11月7日 MITTERAND の隠し子

 ハート上院議員が愛人問題で大統領選立候補を断念したとき、フランスでは「もしフランスでそんなことが常識になったら、誰も立候補できなくなる」とささやかれたそうです。セクハラが話題になったとき、ル・モンドは「フランスなら管理職は全員クビになってしまおう」という揶揄をしたそうです(注:その後セクハラについては論調が変わりつつあるらしい)。
 ミッテランの隠し子はニュース専用FMでも話題に出てたのかな……って感じですねー。私生活は私生活……って割り切りが強いのでありましょう。かつて宇野元首相があの事件で辞職に追い込まれたとき、フランスの反応は「なんで?」ってな好奇心に満ちていたそうであります。
 まあ、アイジンがいよーが、隠し子がいよーが、SM愛好者だろーが、政治家としての資質は別問題だからいいじゃん、と思う。日本だと三木武吉の武勇伝が有名ですね。

1994年11月6日 一気書き

 語学力を評価するにはいろいろな指標があるけど、どれだけの量を一気に書けるかってのは案外忘れがちのような気がする。たとえばなんの準備もなしにフリーテーマで何頁かけるか? これはコミュニケーション力といっていいかもしれない。
 なんでもいい。とにかく書いてしまう。表現してしまう。でないと何も始まらない。永久に始まらない。正確さや適切さだって、表現しないことにはチェックしようがないんだから。
 アリアンスやソルボンヌの教師も、「完璧に表現できるようになってからなんて思っていたら、永久に上達できない」と断言してた。ぼくもそう思う。で、日本人、韓国人にこの傾向が顕著なんだそうです。
「世間は思いのほか自分には注目してない」という事実に気づくと、案外と恥も気にならないものです。

1994年11月6日 Soleil-Levant近況

 きょうも MRSで日本GP予選結果を見たついでに、ミニテル経由で Calvaにつないでみました。いやー、espace "X"なんてのがあって、リニューアルと同時にえっち系サービスが充実したようです。以前は Mac/PC の各フォーラムDLに "X"コーナーが分散していたのですが。
 ……というはなしはさておきまして、先方の Soleil Levantからは、日本からの転送が中断していたにもかかわらず、何人かの常連が FLRからのメッセージを熱望している様子もうかがえました。
 ここ2、3ヶ月で、フランス語Gにも新人さんも増えてまいりました。まだSLをご存じないかたが多いかもしれません。
 Soleil Levant とは、フランス CalvaCom の Soleil Levant Forumとのあいだで行っているメッセージ交換です。FLR MES(7)にアップされたメッセージはフランスに転送され(手作業です)、フランス側からのメッセージも同じように転送されます。最近ではフランスの CalvaCom メンバーをオフをしたり、フランスからの新婚さんを歓迎するプロジェクトなどが行われました。
 現在では、日本在住のフランス人メンバーに参加してもらうべく、いろいろな方法を考えているところです。

1994年11月3日 文字の解読

 ぼくもアリアンス時代に筆記体を直されましたです。フランス語の小文字では 「q」が特徴的ですね。あと、M、t、r なんてのも、日本で習う筆記体とはだいぶ違うように思います。
 たぶん、ぼくの筆記体は、すでに標準的ローマ字教育を受けた日本人には判読不能だと思う。実際に郵便物を送ったら、「返事を書きたいけど住所が読めません」というメールを貰ったことがあります。別に地元民を気取っているわけでもないんだけど、筆記体には言語によって必然的な崩し方があるように思います。英語とフランス語とでは綴りのパターンが違うわけですから、実際にフランス人が崩すスタイルは、やっぱりフランス語の速記には適していると思います。
 ちなみに「q」は日本人の数字の「9」とほとんど同じです。英語式にきちっと書くと、「それは g だ!」と言われます。

1994年11月2日 日本SF大賞

 大原まり子さんがSF大賞を受賞されましたねー。対象作品は「戦争を演じた神々たち」です。
 同時受賞したのが小谷真理さんの評論「女性状無意識」です。この作品、某所で大原まり子さんが激賛してたんですよねー。
 あ、きょうこそ「20世紀のパリ」を買ってこないと。

1994年11月2日 pas mal

 bienとか beacoupって形容詞をつけると、その対立として malや peuを意識するわけでしょう? とゆーことは、Je t'aime bien. は「ふつーよりちょっと」くらいのニュアンスになるんじゃないのかな。よりえげつなく表現するときは、はっきりと比較級にするわけですよね。
 口語では「pas mal 」もよく使いますよ。これは対象がひとでなくてもよく使いますね。
 J'aime pas mal la musique.で、「まあ、音楽は嫌いじゃないね」みたいな意味ね。

1994年11月2日 ネクタイのプレゼント

 記憶によりますと、オンナからオトコにネクタイを贈るのは、「あなたにくびったけ〜〜〜」という合図だったやうに思います。で、お返しはペンダントだったんでは。ブレスレットでも可。「はなさんもんね〜〜〜」ってか。
 ハンカチは「サヨナラ」でんな、とくに白いの。
 むかーし、つきあっていた子からハンカチを突然もらい、けっこう落ち込んだりしました。なのにその日の夜、当の本人から週末のデートの誘い電話がかかってきて、わけわかめ状態になったことがあります。十年後のある日、むかしばなしでそのココロを尋ねると、「え、そういう意味があるの?」と驚かれてしまいました。彼女は単に、ぼくが手を洗ったあと自然乾燥させているのを見かねて、ハンカチをくれたんだそうです。

1994年11月2日 7対3

 第7大学は人文学部、文学部、保健学部ですね。わりとごっちゃになっています。同じ文学系でも、第3大学と第7大学は犬猿の仲といわれています。パリ大学分割の際に、学問上で対立するグループがそれぞれに別れたそうです。第7志望者は決して第3を併願しているとはいわないこと、だそうであります。第3もまたしかりでござるさふです。

1994年11月1日 フェルマーの定理

 むかしむかし、はじめて数学史に興味をもったころ、まさか自分が生きているあいだにフェルマーの最終定理が証明されるなんて思いもしませんでした。ハレー彗星は見れるわ、この歴史的瞬間に立ち会えそうだってんで、まあ、もと科学少年としてはけっこう興奮いたしましたです。


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フェルマーの最終定理

たしか94年11月だったと思うが、「フェルマーの最終定理が証明された」というニュースを耳にした。過去にも何度か「証明されたらしい」という類のニュースは流れていたのだが、今回ばかりは主要メディアがこぞって伝えていたこともあって、ああ、本当なのだと思った。
正直、自分が生きているあいだにこの定理が証明されるとは思っていなかった。なにしろ300年近くも未解決だったのである大数学者ガウスは「解けない」と断言していたし、それに、現代数学的な意味からいえば、この定理自体を証明することは、それほど重要ではなかったのだ。その証明のためにどういう理論展開が果たせるのか、どういう地平が開けるのかが重要なのであり、その意味ではフェルマーの最終定理はすでに多くの貢献を果たしていたのである。
ワイルズという数学者が証明を果たしたわけだが、日本のマスコミ報道では、数学者の加藤和也先生が随所でコメントを述べられていた。この加藤先生、わたしが学部3年のときに留学先から戻ってこられた。その翌年には講師に昇格し、ゼミ生を受け持つようになった。わたしの期が加藤ゼミの第一期生ということで、実際、兵頭(故人)という教養時代の同級生が加藤ゼミに入っていた。わたしも加藤先生にはあこがれを抱いていたのでゼミには興味はあったのだが、残念ながらわたしのレベルではついていけそうにないと断念したのである。
「あこがれを抱いていた」とはいっても、加藤先生の授業を我らの期は受けたことがない。ただ、当時の数学教室の重鎮、岩堀長慶先生をして「谷山豊以来の天才」といわしめたことで、多くの学生は「加藤」という名を記憶したと思う。谷山豊とはもちろん、フェルマーの最終定理を解くための鍵であった「谷山・志村・ヴェイユ予想」の谷山である。さらに、我らの期の大天才、古田幹雄を岩堀先生が評した言葉が、「加藤和也以来の天才」であった。また、整数論を教えていた伊原康隆先生もまた、「加藤くんの研究がうまく展開すれば、フェルマーの最終定理が証明されるかもしれない」といった話をされたことがあった。そんなことがあったので、授業は受けていなくても多くの学生が「加藤和也」という名前を覚えたわけだ。
じつはわたしは加藤先生の「講義」を二度ほど聴いたことがある。恥ずかしながら、わたしは二年後期の数学科必修科目をすべて落としてしまい、三年後期のときに再履修した。そのとき代数系の科目の助手として演習を担当していたのが助手時代の加藤先生だったのである。ときおり演習問題の解説をしてくれたのだが、加藤先生の語りは名調子といってよかった。いちばん驚いたのは、しゃべる速さと黒板に書く速さとがほとんどおなじこと、つまり、それだけ書くのが速かったということだ。だけど、字はいたって綺麗だったのである。後に兵頭が加藤先生の印象を「あの先生は頭から数学が湧いてくる」と語っていたものである。
なお、94年時点のワイルズの証明には不備が発見され、最終的に定理が証明されたのは95年のことだったと記憶している。
(2006.3.4記)