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20世紀の日記

*この日記について

94年10月の日記は、パソコン通信NIFTY-Serveの「外国語フォーラムロマンス語派館」に書き散らしていたものを再編集したものです。ただし、タイトルは若干変更したものがありますし、オリジナルの文面から個人名を削除するなど、webサイトへの収録にあたって最低限の編集を加えてあります。
当時の電子会議室では、備忘録的に書いた事柄もあれば、質問に対する回答もあります。「問いかけ」のような語りになっている部分は、その時点での電子会議室利用者向けの「会話」であるとお考えください。


1994年10月31日 オフから帰還

 Bourgogne オフから帰ってきました。総勢11人という規模であります。二年前は二人だけだったのにねー、とT岡のにいちゃんとしみぢみ視線を交わしてしまったのでした。
 黄金の丘はややピークをすぎたとはいえ、紅葉がとりまいていました。こういう光景を見ると、温帯にあるんやなーと実感します。
 でもほんと、フランスの田舎でやるオフもええわあ。

1994年10月29日 Bourgogne オフ

に行ってきます。在パリ3名、O合さんご夫妻、リヨンのM村さん、それとえげれすからN野さんともう一家族参加であります。総勢十人以上だっけかな。残念ながら Hotel des Rempartは予約でけまへんでした。フランスは月曜が旗日で三連休なんで、きっといっぱいだったんでせう。

1994年10月28日 RE:パリのタイユバンのワインカーブ

 じつはおとといよーやく大学の登録が終わった。語学試験の結果が歴史的メロメロボロボロぐぢゃぐぢゃだったんで、今度こそいよいよ帰国かなと観念していたのであった。でも、試験結果が発表になる前に、登録手続きが終わっちゃったのね。あの6時間にも及ぶ試験はいったいなんだったの?(;_;)
 こんど登録したのは、
 Universite de Sorbonne Nouvelle (Paris 3)
 Departement de Science et Technique de la Communication (DESTEC)
 というところです。プログラムは D.E.A des Sciences de l'information et de la communication ってやつです。この Paris 3はうちから徒歩6分なんですね。前の Pantheon Sorbonneはムフタールを突っ切って徒歩20分で、これも楽だったけど、こんどは本当に大楽勝なのであった。去年は Orsayでやる授業もあったんだけど、今回は外部教授が Pantheon なんで、どっちにしても歩いて通えますねん。

1994年10月25日 RE^2:えびすのタイユバンとChateau Margaux

 在欧のおっさんたちのあいだ(一部だけど)では、
  Chatelet = 大手町
  Montparnasse = 赤坂見附
  メトロ1番  = 銀座線
 と呼んでいます。
 メトロ1番は午後6時前後、めっちゃ混むんですよね。ヘタすると5本ぐらいは見送らにゃなりまへん。ルーズベルトでどかっと人が乗ってくるのね。地方またはイギリスからパリにくることは「上京」といいます。

1994年10月25日 道

 東京の道は、あれはあれでコツをつかむと運転しやすいですよ。交差点に名前がついているし、行く先表示がわりと充実しているでしょう? 横浜や川崎なんて、その点、ほんとにヒサンなもんです。まあ、京都の驚異的な運転しやすさに比べれば、東京は迷路ですよね。ぼくは京都市内を走るときは、頭の中で「丸竹夷……」を暗唱したりします。だから、南から北に向かうときはけっこうたいへんなんだわ、これが。
 道はあれこれ考えるより、方角に従った方がマクロ的に正しい、と常に割り切ることにしています。まるでハトでんな。ただし、南半球で夜にこれをやると、カンペキに方向が狂います。フィリップ島からメルボルンに戻るとき、ぼくは迷わず50キロほど反対に向かってしまいました。オリオン座が逆立ちしてんだもんなあ。

1994年10月23日 タイユバンのワインカーブ

 パリのタイユバン・ワインカーブは、フランスの日本大使館からメトロ1番 George V にショートカットする途中にあるんですね。3度ほど横を通ったことがあるんだけど、風格があって、一生おれには関係ないな〜と感じさせてくれました。

1994年10月18日 Carte Orange

 正確にいうと、Carte Orangeは身分証明書です。日本のガイドブックもほとんどすべて不正確にしか書いてないみたい(最近のは違うんかなー)。定期として使うのは、Coupon Orange (月)、Coupon Jaune(週)です。ブツは切符と同じ。最近は自動発行機から出てくるので、色は水色(回数券と同じ)であります。2年前はたしかにオレンジ、黄色だった。
 改札口で「かると・おらんじゅ下せいまし〜」とゆーても、身分証明用のぽんとくれるだけ。これはロハなんで、「ええ、お金はらわないでいいのぉ?」と戸惑うかもしれまへんね。Carte Orangeには写真を貼り、裏にサインをしときます。んでもって、各カルトに記載されている番号を、必ず Coupon に記入せにゃなりません。これをしとかんと、検察のとき無賃乗車扱いとなります。
 RATPの検察はきわめて機械的で、たとえ写真入りカルトを持っていて、買ったばかりだから番号を記入していない、いまここで記入するからええやろ、と抗弁しても却下されることがあるそーです。

1994年10月16日 RE^3:データベース観が変わる?

 むかーし、ニューメディア(ふ、ふるい)関係の資料を検索したとき、タモリやビートたけしの本がぞろぞろ出てきたのであった。おそらく、「放送」とかってキーワードにヒットしたのであるな。
 ECの ESPRIT 計画を検索したときは、カーグラをはじめ車の雑誌がじゃんじゃん出てきたのであった。まあ、たしかに Lotus esprit って車はあるけどねえ。
 まあ、緩いキーワードで検索すると、こーゆー楽しみっちゅうか、ぶっとびがあるのがおかしいですけど。

1994年10月15日 イヌの……

 ニースで車に乗る直前、犬のう○ちをふんずけたのは、M田さんであります。そのあと、しばらくの間、車のには芳香が漂ったのでした。ニースのあと、グラースで臭い消しをしてくればよかったかも。
 グラースといえば、香水の販売コーナーで、とあるマダムがとれてきた犬が異常に興奮していました。まあ、犬にあの香水の集積は相当応えたのでせうね。

1994年10月13日 デジタル・テキスト

 デジタル・テキストは Internet のグーテンベルグ計画で行われているところですね。でも、世の中、案外とないんだよねー。ニフティでは FSHTEXT とか、FBOOKC の電脳草子でデジタル・テキスト化が始められたばっかでんな。
 このテーマは、6年くらい前に通産の大プロで取り上げられましたね。インターオペラブル・データベース計画ってやつだけど、いまはどうなったのだろうか。あの当時、印刷業界は積極的だったけど、出版サイドがえらく渋っていたような気がした。まあ、著作権問題が複雑なので、無理はないんですけどね。
 一般に著作権の切れた文献なら簡単じゃないか、と思われがちだけど、古い文献でも注釈とかがあると、ことは簡単じゃないのね。いやー、世の中ほんと、複雑だ。

1994年10月12日 EasyNet

 EasyNet はたしかに使いやすいけど、サーチャーには簡単すぎるっていうか、逆に融通がきかないと感じるんじゃないか、という気がします。基本的にすべてフリーワード検索ですから。でも、ネットワークの方で適当なデータベースまで検索してくれるっていうのは、ちょっと不思議な感じですね。
 ぼくはけっこう JOIS は愛用してました。予算的に検索費は融通しやすいので、フリーワードで10件ほど一次検索する。それからキーワードを設定しました。シソーラスはほとんど使わない、手抜きの江下なのであった。言語指定を忘れて、ロシア語の資料が大量に送られたこともあったりします。イタリア語やポルトガル語はなんとか想像できたのですが。
 フランスのデータ・サービスだと、アクサン文字はけっこうまちまちですよ。たとえば FMOTOR4でおなじみの MRSも、文字によってアクサンをつけたり付けなかったり。付いていない場合の方が多いんじゃないかな。

1994年10月7日 キス

 経験的にいうと、挨拶の embrasserはほとんど抱擁に近い意味でしょう。キスと翻訳しても間違いじゃないだろうけど。
 まず、embrasser のやり方……ちゅうのも変ぢゃが。だいたいお互いの腕を軽く包むようにします。ぎゅっとは抱きしめない。あくまで包むようにね。ご用心。で、キスするってよりも、頬を寄せあうようにします。ここで面白いのが、ひとによって利き頬みたいのがあることね。ぼくは右頬だけど、エジプト人の友人は左頬からが多いと言ってました。右頬からってひとが多い気がするけど。
 挨拶の embrasserでは唇を頬にふれたりしません。別にいけなくはないんだろうけど、たいていは頬を接し、「ちゅっ」と音を立てるだけです。回数は、フランスだと四回が基本です。ただし、パリだと二回という簡略型も多い。スペイン人やイタリア人も4回っていうのが多いみたい。一説によると、ポーランドとかチェコは三回か五回だそうです。
 フランスだとまあたいていは男女か女同士の挨拶です。が、アラブ人は男同士でもときどきしてますし、フランス人でも、誕生日とかお祝いのときなどは、男同士でも embrasserをすることがあります。あとはおじいちゃんと孫とかね。
 唇が触れるというニュアンスは、baiserの方がかなり強いでしょうね。こっちのほうは、ほんとに「ぶちゅっ」という雰囲気があるし。ディープ・キスはなんて表現するのだろーか?

1994年10月5日 PB500シリーズ

 アメリカでもいまは在庫がタイトなようです。夏にぼくが注文したとき、540 以外は即納状態でしたが……。どうやら日本で在庫がそろうのは、早くて年末みたいですね。ちなみに 500シリーズは個人輸入しても価格的メリットはありません。日本で買うよりも早く入手できるというだけですね。キーボード交換代をいれてトントンくらいかな。英語版 System 7.1.1 は KT7.1があれば簡単に日本語化できます。
 たしかに 540c は高い。ぼくが最初ほしかったの、モノクロ版の 540でした。これ、欧米市場オンリーなのですが、いまはもう製造していないそうです。
 さいしょ 500シリーズに PowerPCを使っていないのが不満だったけど、よくよく考えたら大正解だと思った。MacWorldのベンチマークによると、Power Mac のパフォーマンスは IIfx レベルなんですね、エミュレーション・モードだと。ネイティブ対応のソフトはすごく少ないし。

1994年10月4日 ラテン・タイム

 夏時間からの切り替えは、しらないうちに終わっていました。
 切り替えの当日、友人に招かれていたんです。約束の時間は6時でしたが、われらは例のごとく(笑)、6時半を目標に行きました。ラテン・タイムってやつです。
 で、友人宅につくと、彼の奥さんが「おや? 随分早いわね。たしか6時だったわよね」なんて言うんですよ。まあ、わしら、いつも一時間遅れというアラブ・タイムだったんで、一時間遅れ=7時よりも三十分早かったという意味だと思ったんです。彼も買い物に出かけていたけど、別に不思議だとは思わなかった。
 すでにおわかりだと思うけど、時計を一時間遅らせるのを、ころっと忘れていたのでした。だから、実際には5時半に着いたんですね。こりゃ、たしかに早い到着であった。それに気づいたのは、家に帰って、テレビをつけたときでした。

1994年10月4日 ミルグラムの法則

 世間の狭さを計量するための有名な実験が、かつてアメリカで行われたことがあります(ミルグラム:1967)。まず、被験者に資料を渡し、目標人物に関する情報を知らせておく。被験者が目標人物を知らないときは、その人を知っていそうな知人に郵送する。で、最終的に目標人物まで実験が繰り返されます。160 人から発信されたうち、42通が目標人物に到達したそうです。その結果では、発信人から目標人物まで、平均で 5.5人の仲介者がいたそうですよ。
 日本でも類似の実験が1992年に行われました(三隅&木下)。平均仲介者は 6.2人だったそうです。


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ブルゴーニュ・オフ

92年にパリから定期的にNIFTY-Serveを使っていた当時、パリでオフをする機会は日本から誰かがやってくるときだけだった。それでもずいぶんと来客はあったと思うが、それからたった二年後には、在欧メンバーだけで10人以上のオフができるようになったのだ。もともとヨーロッパに住む人の数は大して増加していないわけだから、日本国外で日本のパソコン通信を利用する人が一気に増えたということだ。
記念すべきオフは、せっかくだからパリではなく田舎でやろうということになり、外国語フォーラム常連お気に入りのBeauneという街でおこなうことになった。Beauneとは、ブルゴーニュ地方の小さな街だが、ワイン畑が集まる通称「黄金の丘」の中核である。非常に豊かな街なので、住民たちはいたって温厚、旅行者には優しい街だ。
オフの開催は10月30日、紅葉のピークは過ぎてしまったが、まだ十分に鑑賞に耐える美しさは残っていた。わたしは在パリのT岡さん運転の車に便乗させてもらったので、パリからブルゴーニュにかけての高速道路沿いの紅葉を楽しむことができた。
参加者は総勢11人。そのうちわたしを含む3人がパリ在住、1人がリヨン在住、2人が長期研修でパリに滞在中のご夫婦、残る5人はイギリス在住の方がフランスのブルゴーニュにまで遠征してきたのだった。このオフの幹事役を仕切ってくれたのは、イギリス在住のN野さんだった。じつはこの人、1989年の時点でジュネーブからNIFTY-Serveへのアクセスを行ったことがあるという、パソコン通信の世界では先駆者の一人である。ジュネーブでの駐在を終えてから日本に戻り、そしてこの年にこんどはロンドンの研究所に赴任することになったのである。しかし、もともとはフランスに留学経験のある人で、根っからのフランスびいき。在欧メンバー大集合の計画が出たときには、率先してフランスでの開催をリードしてくれたのだ。
(2006.3.4記)