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96年2月の日記は、パソコン通信NIFTY-Serveの「外国語フォーラムロマンス語派館」に書き散らしていたものを再編集したものです。ただし、タイトルは若干変更したものがありますし、オリジナルの文面から個人名を削除するなど、webサイトへの収録にあたって最低限の編集を加えてあります。
当時の電子会議室では、備忘録的に書いた事柄もあれば、質問に対する回答もあります。「問いかけ」のような語りになっている部分は、その時点での電子会議室利用者向けの「会話」であるとお考えください。
フランスのSSはかなり手厚いようでも、実際には渋いようですね。フランス政府のSSが義務づけられていない学生などは、海外旅行保険のほうがはるかにオトクですね。政府の学生向け保険などは給付額が低いので、保険の保険があるくらいです。
日仏の医療水準は全体としてどっこいどっこいといわれていますが、歯科医療については日本のほうがかなり進んでいるそうです。最近の歯科はほとんど設備投資で治療の水準が決まりますので、ハイテク好きな日本は有利なようですね。ぼくもカミさんも歯の治療だけはすべて日本ですませてます。
フランスの企業会計は ESSEC で習ったのだけど、講師はアーサー・アンダーセンの公認会計士で、授業はとにかく実習ばっか。請求書とか納品書のサンプルのコピーをでんとわたされ、ひたすら貸借表や財務表を作る日々でした。
ニッポンとのいちばんの違いは、減価償却 amortissement の方法でしょう。ニッポンだと資産額の一割を残存簿価として残し、残り9割を定額または低率で償却する。で、低率償却をするときの償却率は、1 - 0.1^(1/n) です。6年償却の場合で 0.319 だっけかな。
ところがフランスだと残存簿価を残さない。ぜんぶ償却しきっちゃうのが原則なんですよね。償却率も 0.2 とかキリのいい数字を、資産額にどんどん掛けていっちゃう。で、定額償却とした場合の償却額を下回ってしまう年度以降は、均等に配分してしまいます。
あれは昨年の10月、Luxembourg 公園まで子連れで散歩をした帰り、Raspail 通りを Montparnass通りに向かって下っていたのであった。道の反対側に Alliance Francaise が見えるあたりに Larousse の Agence が一軒あるのだけど、店頭に CD-ROM が置いてあったのでした。店のなかには年輩のおぢさんがひとり。電話で応対中でした。パンフレットぐらいもうらおうかな、と思ってなかにはいったら、おぢさんがけげんそうな顔つきでこっちをにらみおった。
でまあ、百科事典の CD-ROM版があればほしいといったら、あれは百科全集を買った人におまけで付けているだけだ。CD-ROMの単品販売はやっていない、とのこと。この百科全集が 8.600 FTTC もするのである(といっても、ラルースの百科全集がこの価格ならぜったいに安い)。
結果的に買ってしまったのだけど、CD-ROM はいまにいたるまで受け取っていないのであった。リリース予定は10月21日だったんだけどね(笑)。
以前とある長期滞在者に聞いたはなしなんだけど、フランス人は基本的に「話好き」なので、素直な同意よりも、刺激的な挑発のほうが好まれるんだと(笑)。これには深く納得してしまった。
彼がよく話してくれた例は、こういうのね。
まず白い紙を出したとする。「これは白い紙ですね?」「はいそうですね」
これじゃあかんのだと。「これは白い紙ですね?」「そう? ぼくは黒だと思うけど。Parce que....」
ってのがいいんだと。
彼らにとっては「人間みな違う」がデフォルトなので、あっさり同意されると話がふくらまなくてつならないんだって。だから「ためにする反論」をときには出して、展開を楽しむという行動を取ることがあるんだそうだ。
注意せんとあかんのは、こういう会話では視点のふくらみや発散を楽しむのが基本で、けっして黒を白と言い負かす方便がもてはやされるってわけじゃない。まあ、そのあたりの約束事(笑)も、debat とかで場数踏むと体感できるような気がする。
でも「T'es con!」を連発する場面もおおいのだが。
50フランのワインだとどよめきがわき上がり、60フランになると大歓声がおこります。100フランを越したワインはホストがキープして飲ませてくれません……なんちゃって。パーティの手みやげに持っていったワインは、たいてい50フランぐらい。Avenue Des Gobelins の坂をのぼって Place d'Italie 駅を目指すと、途中に Cave des Gobelins って店がある。そこで「50フランで○○に合うワインください」といって選んでもらうわけです。
コスト要因以外に、決定的な違いが巴里と東京とにあると思うんですよ。巴里は職重混在環境です。これだと、カフェやレストランの経営環境も利用条件もまったく異なると思うんです。
日本でも住宅地のなかに喫茶店がないわけじゃないけど、やっぱ基本的に商業地の中です。だけど巴里だと街中のあちこちにごく普通にある。だから散歩のおりにコーヒー一杯って気になるんですね。あるいは家で仕事してて、その気分転換にカフェでもちょいと、とかね。おまけに職場が家から近い。だから家に帰ってからレストランに行くのがぜんぜん苦じゃないです。帰宅時間が早い上に、家の近くにレストランがあるんですから。平日でもちょいとそこまで、なんて気になるんですよ。
東京だと、おとーさんは7時ぐらいまで仕事して、帰宅するのはまっすぐかえっても8時すぎでしょ? おまけに満員電車で体力も消耗しきってる。で、家からレストランに行くとなると、また30分とか一時間かけないといかん。まあ、どっかの駅で合流すりゃいいんだけど。巴里なら自宅近くのレストランに入り浸れるから、すぐに馴染みの店の一軒や二軒はできちゃう。
こんな状況を考えると、ニッポンの外食はあくまで「給餌」業であり、巴里だとそれが生活舞台のひとつである、なんて違いが生じると思うんですよ。ぼくは商業地の雑踏育ちなんで、巴里の渾然一体とした雰囲気がたまらなく好きです。
東京で働いて郊外に住むというのは、なんかすごく空しい感じがしてしまう。丸の内沿線に住んで丸の内沿線の会社に通えば、とてもとても魅力的な街なんですけどね。住むならやっぱ東高円寺か巴里だな。
店員のサービス・レベルを比較するのに、ニッポンの普通のレストランや喫茶店を引き合いに出すの無理だ。ウェイターもウェイトレスも、かなりの数がバイトさんですから。フランスのギャルソンみたいなプロ(といっても、最近はこっちもバイトが増えているけど)とは土台違うでしょ。
ニッポンの大都市で飲食店を経営するとなると、固定費がものすごくかかります。プロの店員を養成したり雇用するとなると、人件費もすさまじい。たぶん、都心でそういう経営をやったら、コーヒー一杯で千五百円ぐらいになるんじゃないかな。
バイト店員は安い時給にもかかわらず、足はむくむは、ガキはコップをひっくり返すわ、煙草の煙で空気は悪いわで、ほんと、劣悪な条件で頑張ってるほうだと思います。逆に新宿の滝沢なんかに行くと、ウェイトレスさんのおじぎ一回につき百円也、なんて計算をしてしまう。
ニッポンの接客サービス業の代表は料亭、旅館、クラブの芸者さん、仲居さん、ホステスさん、といったあたりでしょう。ただ、このあたりは不況と官官接待自粛のせいで、のきなみ崩壊しているようですけどね。
風俗業界のサービス・レベルは世界に冠たるものなんですって。近年の冬期オリンピックでは札幌の評判がやたらいいんだけど、すすき野が少なからず寄与したというのは、けっこう有名な話です。滑降王カール・シュランツなんかは入り浸っていたそうだから。
京都のちょっとしゃれた小料理屋だと、昼の小懐石とか弁当でさえも五千〜一万円が相場ですよね。だけど高いとは思わない。反対に、サービスや味を要求するなら、このくらいの出費は当然なんじゃないか、なんて思います。安いのがよければ王将に行けばいいわけだ。
95年の夏頃からデジカメを使うようになった。機種はAppleのQuickTake 100というもの。価格は数万円ぐらいはしたと記憶している。解像度は320×240、記録方式は内蔵メモリだけ。CCDは30万画素程度であった。画像をパソコンに転送するときは、RS422ケーブルでデジカメ本体とMacとをつないで専用ソフトで呼び出す。本体は小さな双眼鏡ぐらいの大きさであった。その後のデジカメに比べれば、お話にならないぐらいチャチで扱いにくいものだったが、それでもわたしには画期的に思えたのである。
写真を電子的に撮影して記録する仕組みは、80年代終わりにもすでに商品化されていた。電子スチールカメラと呼ばれたもので、2.5インチのビデオフロッピーに記録する方式である。画像はアナログ記録であったため、パソコンではなく一般のテレビに映し出すことを前提にしていた。カメラが再生機を兼ねていた。ほとんど普及することはなかったが、学会関係者の一部には好評だったようである。
時代は移り、1995年にWindows 95ブームが起きると、どの家庭にもパソコンが普及しつつあった。となると、パソコンで写真画像を見る仕組みが浸透する余地が生じてきたのである。デジカメとは、そういうタイミングに登場した商品なのだ。
95年の夏、わたしはKodakのDC40という機種を購入した。このカメラの画質が想像以上に良く、パソコンの画面上で眺める分には十分に使えると確信した。ノートブックがあれば、その場で写した写真を見せることもできるわけだ。撮った写真をレタッチソフトで「修正」すれば、いろいろと遊べる。さっそくデジカメの遊び方をひとつの出版企画にまとめ、メディア・テック出版に持ち込んだのである。
この企画は社長も編集部長も気に入ってくれて、すぐに採用となった。そして96年2月に刊行されたのである。おそらくはこれが日本で最初のデジカメ本だったと思うが、その後すぐに他社からも刊行された。
(2006.3.12記)