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96年7月の日記は、パソコン通信NIFTY-Serveの「外国語フォーラムロマンス語派館」に書き散らしていたものを再編集したものです。ただし、タイトルは若干変更したものがありますし、オリジナルの文面から個人名を削除するなど、webサイトへの収録にあたって最低限の編集を加えてあります。
当時の電子会議室では、備忘録的に書いた事柄もあれば、質問に対する回答もあります。「問いかけ」のような語りになっている部分は、その時点での電子会議室利用者向けの「会話」であるとお考えください。
税務署に行くのだから、所得を証明する書類が必要だろうなあ……なんてことを思いつく。日本時間の31日(水)のオフィス・アワーが始まるのをみはからって、94年、95年に仕事をした出版社にかたっぱしから電話をかける。
いつも国際電話はコールバックを使っていたのだが、アメリカ・センターの番号やら暗証番号の載ったドキュメントがなくなってしまった。昨秋の引っ越し時に cave のかなたにほかしたか、ニッポンにおきざりにしたらしい。仕方なく通常の国際通話を利用する。
どの出版社も支払い調書(サラリーマンでいえば源泉徴収表)の再発行にはすんなり応じてくれた。とりあえず横浜宛に送ってもらう。そこからファックスで転送してもらって、と。
それだけでは申告ができるとは思わないが、4年間に得た「どうせ最初の一回ですんなりいくわけがない」「うまくいくときはいいかげんな書類でも問題ない」という表裏一体経験から、法定翻訳を要求されるか、コピーで十分かのどちらかである、と決め打ったのである。支払い調書を翻訳にかける時間はすでにない。ならばコピーで様子見(?)だ。
一眠りしてから、AGESSAの申請必要書類を読み返す。
過去の成果を立証せよ。
とりあえず大使館に提出した C.Vをもとに、著作やら連載経験のリストをつくる。そういえば本の表紙のコピーも、なんて言っておった。まわりをさがすと、自著は8月に出る本の見本刷りしかない。
近所の友人に電話する。
「オレの本、なんかもっとらんか?」
「ないわい」
表紙のコピーもニッポンからファックスで送ってもらうしかなさそうだ。
横浜に電話をする。が、本はすでに誰かにあげたりして、3タイトル分あるだけだと。とりあえずそれだけファックスで送ってもらい、残りは留守宅に後日取りに行ってもらう。ついでに郵送も。
次いで共著で出した本の相棒に電話する。カバーをファックスで送ってくれないか。ほいきたよっしゃ、と話は簡単に進むが、回線の調子が悪いのか、どうもうまく受信できない。
再度電話をし、翌日、あらためてカバーをスキャナで読み取り、データをバイナリ・メールで送ってもらうことにする。(続く)
所得申告をするには、まずは直接税の台帳登録 declaration d'inscription des impots sur la revenue が必要。だけど登録事務はたしか金曜の午前中しかやっていないはず。滞在許可申請のアポが月曜だから、金曜中にできることは一気にせんとあかんようになった。
etat civil も準備しないといけないのだが、日本人会の法定翻訳はたしか火曜午前中〆の金曜あがりたったと思う。やばい……と思って、日本人会に確認の電話を入れる。
「戸籍抄本の法定翻訳をお願いしたいんですが」
「いま翻訳官がバカンス中なので、来週の仕上がりになってしまいますが」(げげ)
「今日の午前中に持ってきていただいたものが、来週の火曜の午後に出来上がります」
「金曜にはどうしても無理ですか?」
「そうですね……特急料金が加算されますけど……」
「ちなみにいくらぐらい?」
「150フランです。合計で 200フランになりますね」
戸籍抄本の法定翻訳は以前依頼したことはあるんだが、あれは翻訳なんてものじゃない。申込用紙に記入した項目をただタイプアップして、法定翻訳官のスタンプを押すだけである。入力手数料と考えれば会員料金50フランぐらいは許せるのだけど、火曜上がりが金曜になるだけで 200フラン! タイプするだけなんだぜー。たったそれだけで夕食フルコース分、Rest-U なら12食分である。
念のために大使館の領事部に聞いてみる。
「戸籍抄本の法定翻訳は、どのぐらいで出来ますか」
「すべて三日間です。今日中に出していただければ、金曜に仕上がります」
だからいうわけではないが、日本大使館の電話の応答は、むかしからなかなか丁寧でよろしい。これが在日フランス大使館東京領事部の日本人職員ときたら。胃によくないのでこれ以上は書かないでおく。
しかし法定翻訳ってなんであんなに高いんだろうか? 翻訳技術が駆使されたものなら納得もいくのだが。ありゃどう見たって「法定仏文タイプ」としか考えられんがな。(続く)
ダメもとで AGESSA に行く。「Attestation を書けない Attestation」を書いてもらえればいいわけだから。場所は11区、21bis, rue de Bruxelle、St.Lazard のちょっと先。ふと気づいたのだけど、St.Lazard の近くには、どうして都市を名につけた通りが多いんだろう?
Les Gobelins からメトロ7番でまずは Opera へ。Opera でメトロ11番に乗り換えるのだが、じつは RER Auber 駅を突っ切っていけば、隣の駅までそのまま駅構内を通って行ける……のだけれども、わざわざ歩いても仕方ないので、素直に Opera で乗り換える。
ここでアナウンスが聞こえる。メトロ3番はオペラからモンパルナスまで現在不通……。ま、逆方向だからいいか。が、逆方向だからよくなかった。モンパルナス方面行きはとりあえずサン・ラザールまではやってくる。だけどモンパルナス方面からはぜんぜん来ない。
15分経過。2駅先なだけだから外に出よう……と思ったら、ようやく地下鉄が来る。さい先が悪い。なんかうまくいかなそうな予感。
Place de Clichy で下車。目的地は地図によればここから数分のところ。駅はロータリーの下なので出口が複雑だった。地図で最寄りの階段を見つけるも、どの階段がそれなのかがわからん。営団地下鉄みたいに、出口に記号を付けておかんかい>RATP。
AGESSA のある建物はすぐに見つかった。開いた門をくぐる。すぐ左手にガラス張りの入り口が。受付が見える。ドアを開けて用件を告げる。
「Securite Sociale について話しを伺いたし」
応対はとても柔らかだった。じつはここにくるまで、たぶん神経性のものだと思うのだが、ちょっと下痢気味な気分であった。すぐに取り次いでくれるや、便意もすーっとうせた。
10分ほど待つ。上階からおにーちゃんが一人降りてくる。受付正面にある応接室に行くよう促される。着席。用件を告げる。
「ちょっと複雑な話しなんだけど……」
過去の経験から、最初から複雑に決まっている。滞在許可申請の書類は、じつにじつに paradoxalな環になっていることが多い。警察はあれこれを用意せよ、という。それを用意しに行くと、滞在許可がないとあかんといわれる……といのは日常茶飯事である。今回の AGESSA も、案の定、そのパターンに陥りそうである。
ところが意外なことに、「加盟登録はできる」といわれた。日本人会報では「P.L.での滞在が三年必要」とあったのだが、過去4年間すでに滞在していたこと、その期間中、出版による収入があったことを説明すると、あっさりと「pas probleme」であるとか。問題は、「ただし、adresse fiscale を持てれば」ということ。要するに、税務署に開業届けさえできれば、登録はできる。申請書類をさらさらと説明書に書き込んでくれ、滞在許可証という項目もあったのだが、なければないで構わない、だと。開業届に必要な書類もくれた。
ここで「やったー!」と喜んだら、おれもフランス在住初心者といわれるであろう。だいたい口頭で「できる」といわれても、それは「その時点でその担当者がたまたま『できるんじゃないの?』と思いついただけにすぎない」という意味であることは、過去4年間の滞在で身にしみているのだ。書類を揃えて次にやってきても、「だめ」といわれる可能性は十分にある。そもそも税務署が開業届けを受理してくれる保証もない。
闘いは始まったばかりである。(続く)
前日、日本人会で買った「滞在研究 自由職業者」を熟読する。中身は日本人会報の抜き刷り。Q&A形式なので読みづらい。製本するなら項目ごとに整理してくれ……といいたいところだが、読みづらいからこそ、わしが本にして売るチャンスがあるのだ、と思い直す。
滞在許可申請の要点は簡単で、要は収入、住居、保険の三点を立証すればいい。今回ちょっとやっかいなのが保険である。学生や同伴家族なら海外旅行保険ですませられるのだが、労働がからんでくると、国の社会保障に加入せにゃならなくなる。
パンフレットによれば、URSSAFに入るのが出発点、とある。
Union pour le Recouverement des Cotisation de Securite Sociale et l'Allocation Familiales
要するに、国民年金と国民健保の胴元、ってわけだ。この機関の存在は前々から知っていた。最低支払金がけっこう高いことも。2年前の段階でたしか年金が年額 8.600Frs、健保がおなじぐらいの額だったと思う。旅行保険の方が安くていいんだよなあ。これは加入するしかないので、先を読む。
URSAFFに加入するには、Maison des Artistes および AGESSAに加入できないことをまず立証せにゃならん、と。フランス名物「Attestation を発行できない Attestation」をまずはこさえてもらえ、というわけだ。Maison des Artistes は写真家とか画家、歌手、役者の所轄組合なので、わしには関係ない。で、AGESSAの項目を見る。対象が「出版物を発行したことのある者」とある。
Association de la Gestion de Securite Sociale pour Auteurs
要するに、日本でいえば文芸家協会といったところ。ニッポンでもこの協会は健保事業をやっている。
書いている内容を読むと、AGESSAに登録できればかなりオイシイことがわかった。cotisationが URSSAF よりもかなり安い。おまけにここに登録すれば職業の立証にもなるので、滞在許可申請は相当楽になるはずだ。ただし、日本人会のパンフレットによれば、過去3年、P.L.として稼いだ実績がないとだめ、とのこと。まずは URSSAF に登録し、作家やライターとしての実績を積んでから AGESSA に足抜けせよ、と。
でもここは Tout est possible. なフランスである。とりあえずここに登録の相談をしてみることにした。ダメならダメでどのみち「登録できない証明書」が必要になるわけだから。(続く)
巴里の夏はアイスティです……といっても、カフェで飲むんじゃなくて、近くのスーパーで Liptonic を買い込んで、毎日飲みまくっているだけなんですが。ニッポン滞在中はうちの近くに Liptonic を置いている店がなくて、9ヶ月間、禁断症状に耐えねばならんかった。
Liptonicとは、そうです、缶入りのレモンティー・ソーダです。最初は紅茶に炭酸?という違和感があったんですが、飲み出すとこれが病みつきです。Liptonic 以前は中毒気味だったペリエ・オレンジ風味からあっさりと転向しました。ニッポンでも売っているという話しを昨夏聞いてよろこんでいたんだけど、うちの近くにはどこにもなくて、結局ずーっとコーラ漬けの日々を送っておりました。
昨日は滞在許可申請のアポ取りのために11区の警察に行ったのだけど、帰り、メトロの駅でネクタリン・ジュースの新製品のアンケートを受けました。なんかパッケージに関する調査だったみたい。「どちらを買いたくなりますか?」なんてね。12303/12304
到着から8日間経過、ようやっと時差ボケが抜けたので、滞在許可申請の手続きを始める。これまでさんざん etudiant や visiteur familialの手続きはやったが、今回はどういう身分になるのかすらわからん。領事館には journaliste independantでビザを申請したのだが、先方からは chercheur independantということで許可が降り(てしまっ)た。でもこれは領事館が思いついた statut なので、categorie は visiteurである。滞在許可でどう扱われるかは出たとこ勝負になる。
涼しいうちに家を出る。まだ9時には目が醒めてしまうのだから、時差ボケがほんとは少し残っていたのかもしれない。目的地は11区の警察署。13区の外国人はここで受付手続きをし、指定された日にシテ島で本手続きを行う――多分これは変化ないと思ったので、決め打ちでここに赴いた。パスポート以外は不要なはずだが、tout est possible な国にいるので、一応、必要そうな書類を一通り用意する。
窓口はタッチ・アンド・ゴー状態で、待つ間もなく呼び出しがかかる。担当官にビザを見せ、ついでに古い滞在許可証を提示する。「学生なの?」「いや、ビザを変更しました」
学生の所轄はユネスコの隣りにある Centre d'etudiants である。出版活動でメシを食っていることを告げると、担当官応えて曰く、「ならば profession liberaleですね」だと。
実のところ、profession liberale になればラッキーだなあ、と思っていたので、まさか向こうからそう言われるとは思ってもおらんかった。P.L.とは文字どおり自由業としての滞在身分で、salaire を伴う就労活動はできないが、honoraire を稼ぐのは自由というもの。フランスで長期滞在できるかどうかの鍵は、etudiantから P.Lに切り替えられるかどうかにかかっている、といわれている(らしい)。
担当官が convocationの必要書類欄にマークを入れる。シテ島へのアポは約二週間後、8月5日となった。書類が揃うかどうか、微妙なタイミングである。
最寄り駅がメトロ1番 Ruilly-Diderot なので、ついでに日本人会まで行くことにする。相変わらず1番線は暑っくるしい。George Vに着くまでに汗が吹き出る。でも地上に出ればけっこう涼しい。ついつい凱旋門を眺める。9ヶ月ぶりである。振り返れば風月堂。このあたりはまったく変化なしだが、シャンゼリゼの歩道だけは改修工事が終わり、やたら綺麗になっていた。
風月堂の隣のアパートの5Fが在仏日本人会である。狭いエレベータは電気が切れていた。事務所内はバカンス期間中というか、まだ留学生ラッシュ前なので、いたって静かだった。受付で会費を払い込む。ついでに「滞在研究 自由職業者」というパンフレットを購入する。さらについでにアノンスをいくつか眺める。思えば4年前のいまごろ、いまのヤサはここで見つけたのだなあ、と遠い目をしながら思い返すのであった。(以下次号)12310/12310
モンサンミッシェルにはどう行くかで見所は若干違うんだけど、もしレンタカーかなにかで行くのなら、手前にあるディナン(Dinan)って街はおすすめ。深い谷の上にある街で、川面から50メートルぐらい上に橋がかかってます。
街は12〜14世紀の建物が中心で、ほとんどすべてが現役ですね。坂を下っていくと、いつのまにか橋から見おろしていた川に出ます。この街はニッポンのガイドブックにはあまり紹介されていないらしいけど、フランスでは結構有名な見所になっているようです。
ツアーで行くのなら、「江ノ島」見物をするぐらいの時間しかないでしょう。島の教会は外見こそそれほどたいしたことないんだけど、上部にある回廊と中庭はなかなかステキです。光線の具合をえらびながら写真を撮りたくなるような場所ですね。
時間があればサン・マロまで足を伸ばしたい。やっぱり港町は最高です。
うー、気持ちわりー。年々時差ボケが辛くなっている。西への移動だったからまだマシだけど、回復にはきっと3日ぐらいかかるでしょう。そのあとは天然ボケが待っていそうだけど(笑)。
92年 6月以来、成田かパリのどちらかで雨に遭遇している状態が11回続いておりました。14日朝の成田は曇ってはいたけど雨は降りそうになかったので、こりゃきっと巴里は雨だろうなあ、と思ったものです。でも晴れてたし、空港はいつになく野兎が多かった。なんとか連敗は11でストップしたけど、乗り継ぎ地のヘルシンキは雨でした。
Bal は陸軍病院近くの消防署でも毎年やっていて、昨日はうちの近くでもかなりにぎやかどした。こちらは出発直前のドタバタによる疲労(前々日までオフがあったり)、子どもの風邪なんかが重なり、騒音が脳にこたえました。
デスクトップ環境、しかもキーボードの初期モデルに馴れてしまうと、さしもの PowerBook が使いづらくてたまりません。去年まではこればかり使っていたんですけどね。休日とは知りながらも、さっきは早々に MacWAREHOUSE に PowerMac 7200/90 を注文しちゃいました。まだ在庫は残っているかな。9.032 FTTC なら日本と比べてそう無茶苦茶高いってわけでもありませんね。もちろんメモリは 8MBしか実装されていないけど。
輸送手段をいろいろ考えたのですが、結局、いま使っているのは日本で売り払い、フランスであらためて購入することにしました。
4年前にフランスに上陸したときは、航空便のアナカン扱いで本体、モニタを輸送しました。業者はヤマト運輸で、国際配送はUPUです。たしか10万以上かかったと思います。同様のサービスは日通、JTBトラベル、西濃運輸などもおこなっておりますが、航空便なのでかなり高いです。先日電話で見積もりを聞いたら、重量が8キロで6万円とのこと。これは梱包を自分でする場合です。FEDEX や DHL などの国際宅配便を利用すれば、3割ほど安くなります。ただし、これらはビジネス・ドキュメントや商品の輸送が前提なので、身の回り品のサービスはやってません。利用できないことはないけど、免税のための書類作成や交渉はすべて個人でおこなう必要がある、ということです。
いずれにせよ、自分で機内に持ち込むのでないかぎり、最低でも数万円は追加でかかってしまう。いくらフランス市場はパソコンが高いといっても、ミッドクラスのマシンならチャラになってしまいます。もちろんノートブックなら日本から持参する方がいいでしょう。
で、結論。メモリは日本から買って持参し、デスクトップ本体はフランスで買う。そしてフランスを発つときに帰国売りする――これがいちばん経済的なようです。メモリは秋葉原価格で 32MB SIMM が 24,000円、32MB DIMM が 27,000円になりましたが、フランスはこの2〜3倍近くするようです。
Evry(エブリー)は、たしか途中までは Fontainebleau とおなじだったような記憶があります。Zone 6 の中で、巴里から行くなら Gare de Lyon から SNCF だったと思うんだけど、10年前の記憶なのでアテになりません。
なぜ Evry に行ったかというと、当時通っていたアテネ・フランセで使っていたテキスト Sans Frontiere 1 の Unite 2 だか 3 の舞台が Evry だった、というだけのこと。現代建築をふんだんに使った集合住宅地群、整然と区画された街並み、バス専用路線や自転車専用路線まで整備された道路等々。いかにもよさげなんだけど、ぜんぜんおもしろくない。臭いのない街はつまらんという定理は、ブラジリアやキャンベラで証明された、なんて意見もあるけど、Evry もそんな感じだった。
中華街はヨコハマがベストで、次いで桑港、NY、巴里の順でいいと思います。巴里13区の中華街は、純粋な中華メシは少ない。ほとんどがベトナムとかタイとのハイブリッドです。でも、あのあたりの市場は白菜や大根が安いんで助かりますけどね。タクアンも売ってるけど、ちょっと甘すぎる。
巴里と横浜はけっこう似ている点が多いことに気づいた。この場合の横浜って、根岸線の横浜から磯子までだけど。
街娼が多い、怪しげなジャズ・クラブが多い、外国人が多い、御廚さとみのマンガが似合う(巴里が『裂けた旅券』なら、横浜は『ケンタウロスの伝説』)、街の伝説があちこちにありそう等々。でも最近はヨコハマもすっかり健全な住宅地が増えたので、ちょっと軌道修正が必要かも。
どこかうさん臭い街は、やっぱり魅力があるもんです。巴里近郊でもエブリーとかセルジーは整然とした区画の街なんだけど、ぜんぜん匂いも香りもなくておもしろくない。近郊ならサンジェルマン・アンレーなんかはすごくいいですけどね。
学生として滞在していた3年間の第1ラウンドから8ヶ月半後、こんどは自由職業者として滞在する第2ラウンドが始まる。滞在許可を取るまでの手続きは前回よりもかなり面倒だが、今回の滞在の方が気分的には比較にならないぐらい楽だ。フランスに到着したその日から、すぐに生活を開始できるだけの基盤ばある。前回は一週間のホテル住まいの間に住むところを決めねばならなかったのだ。そして3年間の滞在でフランスに友人・知人が増えた。話し相手すらいなかった前回とは大違いである。なによりの違いは、フランス語での交渉力がついたことだろう。語学レベルは8ヶ月半のブランクでむしろ落ちたくらいだと思うが、ずうずうしく交渉を続ける粘りは92年当時とは比較にならない。なんにせよ、どれほど面倒な手続きが待っていようと、大きな不安はなかった。
しかし、その手続きの煩雑さは、正直なところ、想像を絶していた。おまけに役所の対応もあやふやで(あまりないケースだったので仕方ないと思うが)、書類ひとつ入手するのに何度も交渉を重ねることがめずらしくなかった。過去数年で鍛えた交渉力がなかったら、途中で挫折していたかもしれない。
(2006.3.12記)