21世紀の日記
20世紀の日記

*この日記について

96年3月の日記は、パソコン通信NIFTY-Serveの「外国語フォーラムロマンス語派館」に書き散らしていたものを再編集したものです。ただし、タイトルは若干変更したものがありますし、オリジナルの文面から個人名を削除するなど、webサイトへの収録にあたって最低限の編集を加えてあります。
当時の電子会議室では、備忘録的に書いた事柄もあれば、質問に対する回答もあります。「問いかけ」のような語りになっている部分は、その時点での電子会議室利用者向けの「会話」であるとお考えください。


1996年3月27日 百武第二彗星

 さっき見てきました。場所は圏央道の入間インター付近です。高速道路走行中、ウィンド越しにわかりましたから、かなり明るいですね。位置は北極星からだいたい15度ぐらい離れたあたりですから、日本はもちろんのこと、フランスでも一晩中見ることができます。高緯度地方である巴里などは、日本よりも観測条件はいいですね。
 大彗星はだいたい 5年に 1回の割合で見えるものなのですが、ここ20年は不作続きでした(ハレー彗星は観測条件が悪すぎた)。今回の百武彗星はひさびさの天文ショーです。実際、双眼鏡で眺めてみて、近日点通過前なのに頭部が明るく尾がしっかり伸びているのにはびっくりした。
 過去30年の主な大彗星は、61年の関・ラインズ彗星、64年の池谷・関彗星、70年のベネット彗星、76年のウェスト彗星といったあたり。これに今回百武彗星が加わるわけで、日本人のアマチュア観測家(一般に「コメット・ハンター」という)の活躍ぶりがわかりますね。
 余談ながら、星雲・星団で「M47」とか「M78」とかいう「M」は、フランス人のコメット・ハンター、メシエの頭文字です。彗星観測では星雲・星団がまぎらわしいので、メシエは約110の天体のカタログを作りました。その通し番号が「M1」……とかです。
 M1(メシエ1)は「かに星雲」と呼ばれるものですが、これは超新星爆発の名残といわれてます。で、超新星爆発があったという記録が、藤原定家の日記に残されていた、なーんて事実があるんですよね。
 百武彗星の位置や光度の予報は、海上保安庁のホームページに掲載されております(http://www.jhd.go.jp)。

1996年3月24日 アリアンスフ・フランセーズ

 4年前にアリアンスの intensif を受講しました。朝8時半からの授業は、宵っ張りのワタシには過酷でした。
 そのときは fete de la musique 直後の 6/25 にフランス入りし、集中講座を7月分だけ日本から申し込んでおきました。代理業者に頼まなくても、個人でファックスのやりとりをすれば、簡単に登録はできるんです。
 コースは1日から始まるのですが、クラス決めのためにあらかじめテストを受けないといけない。内容は筆記なので、日本人は概して実力よりも上のクラスに割り振られることが多いみたいです。反対にスペイン系やイタリア系の生徒は、よくしゃべれる割に筆記試験には弱いから、中級からスタートするというパターンが多いみたい。ぼくの場合も niveau superieur にハマってしまい、その後会話ではどえらく苦労したものです。テキストは Espace 3 でした。
 クラスは20人ちょいだったと思いますが、ボリビアからやってきた高校生がどえらく騒々しかった。三日もするとだいたい席の「定位置」も決まってくるのですが、ぼくは Maria というドミニカ人美少女と、Tina というドイツ美人の間を死守した(笑)。イタリアに留学していたブラジル人留学生の Paulo が Maria を盛んにナンパしようとしてましたね。ブラジルの英雄Sennaのファンだったワタシは彼とも仲良くなりました。
 8時半から授業があるため、毎日8時ちょっと前にはポンピドー・センター近くのステュディオを出て、朝の冷たい空気を吸いながら Metro 4 : Chatelet まで行くのですが、途中にストリップ劇場があって、日によっては「街角の女」が煙草を一服していたものでした
 授業が終わってまっすぐ帰るとだいたい1時頃に帰宅、それからメシの準備だのうたた寝だのをしていると、あっというまに夜8時ごろ。でも夏至直後ですから、8時でもまだ日は高い。10時ごろになると強烈な西日が差し込んできたし。その当時の情景は、以前、EQマガジンに書いたとおり。
 しかし話はぜんぜん違うけど、chercheur independant なんて statut がほんとに認められるんだろうか。VISA却下なんてことになるんじゃないかなあ。そうなったら巴里で残念会をせねば(笑)。

1996年3月23日 初夏のパリ

 遠く離れてはいても、4月、5月の巴里を思い浮かべると、ほんとうにときめきますね。ニッポンの四季も美しいけれど、春分から夏至にかけてのまさしく劇的な巴里の変化は、何度経験しても飽きることはないと思う。当初「I shall return」を3月にしようとしたのも、ひとえにこの季節を味わいたかったからです。
 そういえば、もうすぐサマータイムではないか。

1996年3月23日 初めてのヨーロッパ

 ワタシのヨーロッパ初体験は仕事上の出張で、しかも予算が潤沢な時期でしたので、正規運賃でした。当時はまだ運賃格差がでかかったので、ヨーロッパとアメリカを束ねたいわゆる「世界一周チケット」は98万円もしたんですよね。でもまあ会社のカネだから(笑)。
 成田からアンカレ経由のルフトハンザ便でまずはフランクフルトに入り、フランクフルト〜デュッセルドルフ間をルフト専用電車で移動し(これも「フライト」なので、乗車には航空券が必要)、デュッセルからロンドンがルフト、ロンドンから巴里がBA、巴里から紐育がエアフラ、紐育・DC間がイースタン、DC・デンバーがコンチネンタル、デンバー・桑港間がユナイテッド、そして桑港・成田が日航……というわけで、別にねらったわけではないけど、よりどりみどりの組合せでした。
 こういう場合、発券そのものはルフトがおこなって、あとはルフトがエンドースメントするという形式になるんですね。デンバーの次は当初ロスに出てそこからSQ便で帰国する予定だったんですが、同行した上司の「桑港で骨休めするか」との方針転換により土壇場の変更となりました。
 でも各ラインの雰囲気の違いがかなりあって、おもしろかったですよ。ルフトはクルーの立ち居振る舞いがけっこう乱暴でした。BAは比較的ベテランのアテンダントが多かった。サービスはまあまあ。エアフラはパイロットも含めてドライでせっかちな感じ。コンチは忘れた。ユナイテッドはすげー美人クルーの記憶のみが鮮烈です(笑)。
 ルフトは後の出張でも粗雑な立ち居振る舞いが目立ち、以来、あまりいい印象を持っていません。エアフラはドライさに馴れるとけっこう気軽でいいかなあ、なんて思っています。

1996年3月22日 リヨン行きパリ着

「これがパリの灯だ、と思いきや、ここはリヨンだよ!」の逆パターンは、2年前にブリテン島からやってきた「K杉のおいちゃん」なる人物がやった。
 K杉さんはディジョンで TGV に乗ってリヨンに出て、そこから飛行機でロンドンに帰る予定でした。で、「リヨン行き」の電車に乗って着いたのが、Paris Gare de Lyon だったというわけです。車内で寝ているあいだに検札がなぜか終わってしまったため、最後まで巴里に着いたことには気づかなかったとのことでした。
 そのときのリヨン行では、リヨンの中央駅で友人と待ち合わせたのですが、じつはリヨンの駅もふたつある。で、行き際にメモを忘れてきたので、正確な駅名がわからん。Pで始まるという記憶があったのですが、二つともじつはPで始まるんですよね。見事に間違えてしまいましたです。

1996年3月20日 PLビザ

 日本滞在中の最大の用件である VISA申請が、よーやっと先週の金曜にできました。でも本当は木曜にすませるつもりだったのだけど、道が大渋滞で領事部に着いたのが12時5分前、記入すべき書類がぜんぶで18通、出直しを命ぜられたのであった。
 去年は 3月11日に春が始まったから、今年も巴里はすでに芽ぶいているころでしょう。うちの近辺では Arago通りが真っ先に緑色になり、St.Marcel が次、最後が Port Royal という順番でした。これから6月にかけてが、巴里のベスト・シーズンです。わくわくしちゃうけど、再上陸は fete de la musique 前後になりそうだ。
 その後領事館から一度電話があって、「申請書類を読んでみたが、記載されている活動内容は journaliste independant ではなく、chercheur independant ではないか」とのことでした。journaliste indep. という statut は昨秋の帰国直前に知ったのだけど、chercheur にもそんなのがあるというのは初めて知った。まるで「流しの研究員」ですね(笑)。たぶん日本でいう科学ジャーナリストやサイエンス系評論家に近い立場なんだと思うのだけど。
 揃えた申請書類は、滞在理由書(膨大な annex 付き C.V.も添えた)、派遣証明書、銀行残高証明、戸籍抄本、パスポート・コピーでした。派遣証明書は取引のある出版社に依頼したのですが、文面はこちらで作成し、サインだけもらう形にしました。領事部は英文または仏文といってたけど、どうせ滞在許可申請で仏文が必要になるに決まっている。
 この派遣証明書の用意に時間がかかって、文面の作成は通訳をやっている知人に全面協力してもらい、のべ一週間ぐらいかけて仕上げました。それをレター・ヘッド付き用紙にプリントしないといけないので、まずはお願いがてら用紙をもらったり、その場でコピーさせてもらったり。一番タイトな日で、5社ぐらいハシゴしたことがある。
 ただまあ、フランスの場合だと書類は多ければ多いほどいいので、こういう部分はあまりはしょらないほうがいいんですよね。あー、でもこれだけ申請に苦労して却下とかなったらかなり悲しい。


Copyright(C) Masayuki ESHITA

初めての大彗星

なぜか神奈川県以南が雲に覆われ続けたため、なかなか百武彗星を見に行くことができなかった。最後は我慢ができず、双眼鏡を車に積み、見えるところまで北上することに決めて家を出たのだが、国道16号線の八王子の手前あたりで雲が切れ始め、圏央道に乗った直後ぐらいに彗星の姿を確認することができた。自動車の窓越しに視認できたのだから、本当に明るい彗星だ。すぐに高速の非常駐車帯に車を停め、双眼鏡で彗星を確認したのである。
ここまで「必死」になったというのも、じつは大彗星を見たことが一度もなかったから、なのだ。中学1年生のときから星空を眺めるのが好きで、夜中まで天体望遠鏡で星雲や星団を観望していたというのに、彗星とはなかなか縁がなかった。1970年のベネット彗星は、まだ星に興味がなかったのでパス。1973年のコホーテク彗星は空振りに終わった。1974年のウェスト彗星は休みが折り合わすに行けず。1986年のハレー彗星は地球との位置関係が悪くてイマイチ……という展開だったのである。今回の百武彗星は、観測条件といいこちらの時間的余裕といい、待ちに待ったチャンスだったのだ。これを逃したら、雄大な尾をひく彗星など二度とお目にかかれないのでは、とさえ思ったくらいである。
入間の空き地で眺めた百武彗星はしっかりと記憶に刻まれた。双眼鏡で見た頭部は、しっかりとしたコアと、それをぼんやりとおおうコマとの対比が印象的だった。しかし、もっと暗い空では、天の東から西にまで達する雄大な尾が視認できたと後から聞き、入間ではなく八ヶ岳まで行けば良かった、と少し後悔している。
(2006.3.12記)