21世紀の日記
20世紀の日記

*この日記について

96年10月の日記の一部は、パソコン通信NIFTY-Serveの「外国語フォーラムロマンス語派館」に書き散らしていたものを再編集したものです。ただし、タイトルは若干変更したものがありますし、オリジナルの文面から個人名を削除するなど、webサイトへの収録にあたって最低限の編集を加えてあります。
当時の電子会議室では、備忘録的に書いた事柄もあれば、質問に対する回答もあります。「問いかけ」のような語りになっている部分は、その時点での電子会議室利用者向けの「会話」であるとお考えください。


1996年10月29日 Brasserie Port Royal の前より

 街路樹がだんだんとすかすかになったおかげで、通りの彼方にふたたびモンパルナスタワーが見えるようになった……けど、ちとデジタル写真ではわからんかもしれん。夕暮れ時はなかなかのながめである。去年、ひょっとしたらもう最後の巴里になるかもしれなかった。そのときの心残りのひとつが、Brasserie Port Royal 前からながめるモンパルナスタワーであった。

1996年10月29日 アダルトWWW

 フランスだとやっぱ Minitel Rose じゃないでしょうか。3年前だったか、フランスのアダルト系BBS の調査を頼まれたことがあったんですが、けっこう数はありましたね。ほとんどがミニテルのサーバーでしたが。だけど1ファイルがだいたい 200〜300KB もある画像を、1200bps のミニテルでダウンロードする人が、はたしてどれだけいるのでしょう。
 アダルト系ならやっぱりアメリカ、スウェーデン、フィンランドあたりが充実しております。友人のホームページにはそのことごとくにリンクが張ってあるし。

1996年10月27日 グーテンベルク計画

 これはかなり古いプロジェクトで、発端までさかのぼると、インターネットの前身である ARPANET までいっちゃいます。1971年ですからね。イリノイ大学のマイケル・ハートって学者が、あるときヒマにまかせて「アメリカ独立宣言」を入力し、友人たちに送りつけました。70年代前半ったら、TSS(IBM用語なら TSO)がぼちぼち普及を始めたころだけど、コンピュータ=計算機じゃないですか。だけどたまたまハートは「計算だけじゃつまんねー」と思い、ちょっとした遊びっ気でこんなことをやったわけです。
 これがきっかけで、英文テキストの電子化という計画が自主的に始まりました。最初に立てられた計画は、もっとも利用頻度の高い1万タイトルの書物を順次デジタル・テキスト化していこう、というものです。で、2001年には「グーテンベルグ電子公共図書館」をつくっちゃおうと。でもその後はグループが分裂したりして、電子化達成タイトル数は予定よりもおおはばに下回っているみたいです。
 デジタル・テキストによる電子図書館計画は、けっこう昔からあります。10年前は CD-ROM がいまのインターネットのような地位にありました。そのころ「CD-ROMのシリコンバレー」といわれたアメリカ・コロラド州の Boulderって街に取材に行ったことがあるんだけど、Alexandra というベンチャーがやっぱりおなじような計画を進めてましたね。
 ニッポンでは通産省が大プロのひとつとして「インターオペラブル・データベース計画」というのを進めてました。これは印刷工程の CTS化に便乗し、フルテキストのデータベースを実時間で築き上げよう、というような主旨です。ただ、この種の計画はかならずといっていいほど、著作権の壁にぶちあたります。グーテンベルグ計画でも対象になっているのは著作権切れのテキストが中心ですね。まあ、インターネットのリソース自体に、当初はパブリック・ドメインの思想が濃厚でしたから。

1996年10月27日 プレスカード申請

 内務省にはやっぱけっこうビビった。なにしろあのパスクワんの根城だったとこだもんね。
 外務省に申請書類をすべて提出したのが 9月14日のこと。「約一ヶ月後に、内務省から電話で連絡が入ります」と言われて待つこと一ヶ月、連絡はこなかった。「連絡がないんですけど」というクレームを外務省につけたのが先週の木曜。「たぶん来週あたりでしょう。C'est normal, hein?」というおきまりフレーズでやり取りは終わり。
 しかしフランス外務省の読みはなかなか鋭い。ほんとに「来週」に電話がきた。月曜の午後3時ごろだったと思うけど、やけに明るい女性が電話をかけてきた。内務省からの電話だから、きっといかめしいあんちゃんだと想像してたんですけどね。
 さっそく「尋問」の rendez-vous となったんだけど、こっちは早ければ早いほどいい。で、翌日の11時に会いましょう、ということになりました。彼女曰く、「直通電話番号を受付で告げないと入館できない」とのこと。もちろん番号を教えてくれました。
 次の日、83番のバスで……といいたいところだけど、ちょっと出遅れてしまったため、面倒だからタクシーで行っちゃいました。でも運転手は内務省の場所を知らなかった。しょーがねーやつ。手帳を出して住所を調べにゃならんかった。ルートは簡単で、Port Royalからそのまま Montparnasse 通りを突っ切る。これで一気に Invalide まで行けちゃいます。Alexandre III橋のひとつ下流の橋を渡って Chemps-Elysees Clemanceau を抜け、あとはまっすぐ行くだけ。
 内務省の入り口はかなり狭い。入ってすぐ左に受付があるので、そこで要件を告げると、面談相手の電話番号の下五桁を言えという。それが内線番号になっているみたいでした。すぐに先方に連絡をつけ、アポの確認ができると、身分証明書と引き替えに入館証をくれます。これ、磁気カードになっているのだけど、ストライプの部分をバリケードのリーダーにかざすと、なかに入れるようになる。
 10分ほどで相手が来たのだけど、事務所まではえらく複雑だった。内務省のあるあたりは道が入り組んでいるので、建物も完全なタコ足状態なんですね。あれに匹敵するのは講談社の本社ぐらいでしょう(笑)。

1996年10月26日 プレスカード

 やっとプレスカードが取れた。まあ、申請は簡単だったのだけど、身分照会に時間がかかるんですよね。今週の火曜には内務省への出頭依頼があったので、びくびくしながら行ってきました。場所はエリゼー宮のすぐ北側、警察の総本山だけあって、入館はえらく厳しかった。外務省の警備員なんていつもヒマそうなのに。
 いやしかし、83番のバスがあんな便利だとはおもわなんだ。終点の Hausseman まで行けば日本大使館まですぐ近くですがな。ありゃ地下鉄使うよりも楽だな。

1996年10月26日 翻訳ソフトの実力

 ワタシはソフトのレビューを書いていて悟りました。翻訳ソフトってーのは、翻訳をするもんじゃない。あれは単語を日本語に置換する「世話好き」なユーティリティである、と。だから誤訳なんかを笑ってはいけない。ゼロから訳文を入力せにゃならんところを、ソフトが何割か代行してくれるものである。こう考えると、けっこう使い道はあります。
 ただし最大の問題は、翻訳実務で使おうとすると、元のデジタル・テキストの作成に時間がかかることですね。

1996年10月17日 ストライキ

 フランスでは全線ストップさせるのは違法なので、スト期間中でも「どこかしら動いてる」のが一般的です。昨年は全線止まったのかな、たしか。これは例外中の例外ですね。
 こういう状態でいちばん複雑なのが RER で、SNCF がストをやるときと、RATP がストをやるときとで、動いてる路線がぜんぜん違う。4年前は RER A線で Cergy まで通っていたので、ストシーズンはえらく苦労しました。St.Lazard にいかなきゃあかんときもあったし、Nanterre Prefecture までいかにゃならんときもあった。最悪のときは Cergy のひと駅先までしか運行してなくて、そのときはピストン輸送バスが出ました。でも駅ではそんなこと教えてくれよらん。友人があちこちききまくって、ようやくその存在が判明した次第で。それでも St.Germain en Laye 行きしかなかったので、帰るのにけっこう苦労しましたよ。

1996年10月14日 フランス人との共同作業

 なにか「合目的」にことを進めたいのなら、自分でリードしなきゃだめですね。ぼくもフランス人とはいやってほど共同作業をしたけど、「やりたいことは自分でやれ」っていうのが基本です。
 で、そうやって打ち合わせているときはぜんぜん進まないように思えても、いざレジュメを作る段になると、じつはあっという間に連中はやってしまうから油断がならん。社会学の DEAに登録しているような連中なら、かならず何人かは、15分程度の発表はアドリブでもできるはず。「なにも進んでいなーい」と思っていると、けっこう痛い目にあいす。
 社会学といえば、Strasbourg II で講師をやっている Phillipe BRETON氏に師事しようと思ったことがあって、Pantheon-Sorbonne の Alain GRAS教授の DEA Sociologie を登録しようかとも思ったのですが(氏はここで講師もしてた)、結局 Sorbonne Nouvelle の DESTEC にしたのが2年前のことです。

1996年10月14日 所得税

 impots sur la revenue の「督促」は、税務署によっては滞在身分に関係なく無差別に送ってきます。たいていは「学生です」といえば事足りるけど、それでも繰り返し「督促」がくるから油断がならんのです。万が一もめても、税務署に行って滞在許可証を見せれば問題はありません。そこに労働をしたらダメと明示されているし、論理的にはそれがゆえに adresse fiscale を申告できないってことになるからね。

1996年10月1日 dissertation

 Sorbonne Nouvelle はきわめて試験が好きな大学で、cours magistraux はすべて期末に筆記試験があります。で、たいていが1テーマか2テーマがぽつんと与えられ、dissertation をひたすら書く、という内容です。分量は「最低でも50〜70行」(だいたいA4の表裏)と指示されますが、みんなだいたい2ページはびっしり書いています。時間は2時間っていう場合がおおいので、こうなるとずーっと書き続けていないといけない。
 大学によっては、dissertation の書き方を指導してくれるところもあります。そこで言われるのは、「かならず4つのパートで構成せよ」ということでした。つまり、analyse、critique、problematique、conclusion です。
 最初の analyse は、要するにテーマについてどれだけ知っているかが問われるわけですね。第二の critique はテーマを含む領域全般の知識が問われます。いちばん重要なのは三番目の problematique で、そのテーマあるいは分野について、「あなた」がどれだけ問題意識を持っているかが試されます。ここさえきっちり書くことができれば、conclusion はオマケみたいなものです。DEA の段階では、問題提起が事実上の結論と見なされるのが普通です。
 doctrat になると、problematique の次に methode、solution が加わりますね。そして analyse や critique は introduction としてくくられることもあります。出発点が problematique って位置づけです。
 定期試験問題だと、「Analysez et commentez」とか「Critiquez」っていうひとことがポツリと出てますね。これが理系 UFR だと「demontrez」です。


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独自ドメイン取得

96年10月、アメリカのホスティング業者と契約して独自ドメインを取得するとともに、レンタルサーバーを借りた。このとき取得したドメインが「fbook.com」である。
このころ、インターネットを利用するというのは、日本でもフランスでも、プロバイダと契約してPPPで一時的にアクセスするというのが一般的であった。自分のwebページを開設するのでも、プロバイダのドメイン内に自分用のディレクトリを持つのが普通だった。その一方、アメリカでは一般個人が独自のドメインを取得し、業者からサーバーを借りて自分のドメインを管理する方法が広がり始めていた。こちらのメリットは、自分の好きなドメイン名を使用できることや、自分でメールアドレスをいくつも設定できることである。
日本でも個人がドメインを取得することは不可能ではなかった。しかし、アメリカに比べてドメインの管理料が高く、さらに、会社オーナーでないかぎり、手続きが非常に面倒だったのである。
わたしも当初は自分のドメインを持とうと思ったことはなかったが、師匠の武井さんがアメリカのホスティング業者を利用して自分のドメインを取得したのを見て、おなじ業者にさっそく申し込んでみた次第である。Digiwebという業者で、武井さんによれば、その時点で最もコストパフォーマンスがよいとされるところだった。
webを制作するために、最初はAdobeのPageMillというソフトを使った。しかし、html文法自体がそれほど複雑なものではなかったので、すぐにタグを直接埋め込む方法に転換した。あちこちのwebを眺め、気に入ったレイアウトに出会ったとき、そのページのリソースをダウンロードして使用しているタグを解析したのである。お手本になることが多かったのは、やはり武井さんのwebページだった。
(2006.3.12記)