21世紀の日記
20世紀の日記

*この日記について

97年10月の日記は、パソコン通信NIFTY-Serveの「外国語フォーラムロマンス語派館」に書き散らしていたものを再編集したものです。ただし、タイトルは若干変更したものがありますし、オリジナルの文面から個人名を削除するなど、webサイトへの収録にあたって最低限の編集を加えてあります。
当時の電子会議室では、備忘録的に書いた事柄もあれば、質問に対する回答もあります。「問いかけ」のような語りになっている部分は、その時点での電子会議室利用者向けの「会話」であるとお考えください。


1997年10月28日 群論

 そういや一時期、高校の数学過程で群がありましたね。あれはほんまに群の定義を教えるだけで、「だからなんなの?」で終わるえらく中途半端なものでした。
 群の定義自体はガロアではなくコーシーがおこなったものです。今日、置換群と呼ばれるものをいわば気分転換のパズルのようにこしらえたようです。これ、日本風にいえばアミダくじです。
 フェルマーの定理は結果的に谷山・ヴェイユ予想の証明に帰着しましたが、ここに登場するヴェイユはフランスの高名な女性政治家シモーヌ・ヴェイユの兄で、レヴィ・ストロースの構造主義人類学に啓示を与えたことでも知られております。
 日本やヨーロッパでは整数論というと代数学の一ジャンルと見なされる傾向が強いのですが、これは高木貞治とかアルティンという大数学者が開拓した代数的整数論という下地があったからです。その一方、アメリカではむしろ解析的整数論が整数論の中心で、その流れをリードしていたのがプリンストン大学の岩澤謙吉教授です。故・谷山もフェルマーの定理を証明したワイルスも岩澤先生の弟子にあたりますね、たしか。

1997年10月24日 ガロア理論

 ガロアとアーベルとの研究はじつはかなり違うんです。アーベルが証明したのは「五次方程式が代数的には解けない」ことであり、ガロアの研究は代数方程式が代数的に解ける一般的な条件でした(今日のいわゆるガロア理論)。実際に代数学におけるアーベルの業績はこれだけで、彼はむしろ楕円関数論で有名ですね。
 アーベルの天才はノルウェーでも認められていたのですが、当時のノルウェーはえらく貧しく、アーベルをドイツやフランスに留学させられるだけの資金がありませんでした。で、せめてもということで旅費だけは支給します。これでアーベルは当時のフランスの看板数学者コーシーとルジャンドルのもとを訪れます(コーシーは Ecole Polytechnique の初代数学教授)。ドイツに行かなかったのは、アーベルが送った五次方程式論の論文をガウスが一顧だにせずに捨ててしまったのに腹を立てたから、という話があります。もっとも、後にガウスはアーベルの業績を知り、邪見に扱ったことをえらく後悔したそうです。
 ところが二人の数学者はエスプリたっぷりの会話でアーベルに接し、数学の話題はおくびにも出さず、アーベルをすっかり失望させてしまったそうです。このころコーシーはガロアの論文を紛失してしまってます(これがガロアの挫折につながる)。実にコーシーは二人の天才の挫折に関与したわけです。
 もう一人ルジャンドルは楕円積分の研究に没頭していたのですが、じつはこの分野を飛躍的に発展させたのがアーベルでした。まあ、ルジャンドルは後にアーベルの業績を知って、えらく悔やんだそうです。
 失意のどん底にあえいだアーベルでしたが、それでも地道に活動を続け、フランスで誕生した世界初の数学論文誌クレーレの創始者に見出されたりもします。で、いよいよベルリン大学教授の職に就ける、というときに、長年の無理がたたって夭逝してしまいました。
 ガロアの方はというと、その挫折を悔やんだ Louis Le Grand の恩師リシャールは、数年後にもう一人の天才少年を見出します。そして彼は少年をなんとしても Ecolo Polytechniqueに入学させるべく、一年間、受験勉強に専念させます。で、無事に入学を果たして数学者としての才能を開花させたのがエルミートという人で、彼が残した業績は「エルミートのおかげで後世の数学者は50年は多忙でいられる」といわれたくらいですね。
 そのエルミートがある時「五次方程式の解法について」という論文を発表しました。そのなかで彼は一般五次方程式が楕円関数によって解けることを示します。アーベルの研究がこれで一応閉じた形になったわけですね。
 エルミート以降にはポアンカレが登場してくるのですが、ガロア前後の時代がフランスの数学史ではいちばんトキメク時期であります。

1997年10月22日 天才と狂気

 ガロアは失意のさなかに娼婦に岡惚れしてしまい、そのヒモとピストルで決闘し、そのとき受けた傷で死んだということになってます(E.T.ベル『数学をつくった人々』の「天才と狂気」で紹介されている説)。
 ガロアの出身高校 Louis Le Grand はパンテオンとソルボンヌの間ぐらいにあります(パリ第一大学のパンテオン校舎の向かい)。

1997年10月15日 税金

 96年の年収を対象にした直接税は申告が 2月だったのに対して Avis d'imposition が届いたのは 8月でしたがな。税金に関する処理は、ただひたすらトロいっすね。いちばん笑ったのは、4年前に納税台帳登録をしに地区の税務署に出頭したら、おまえは就労ビザを持っていないといって登録を拒否したにもかかわらず、数日後、納税台帳登録がまだされていないって電話がかかってきたことです。このときは「あんたの同僚から『台帳登録できない証明書』を書いてもらったぜ」と対応しました。やっぱ書類は必須です。

1997年10月3日 Quincy

 Quincy はどこなんでしょうねえ。ずっとボルドータイプのボトルだったのに、今年買ったのはブルゴーニュタイプの瓶になってました。
 店のオヤジの話では、高級ワインではないけれども売っている店は案外と少ないとのこと。もしすぐに購入を希望なさるのであれば、rue Pascal にあるその店で買ってみては?
 27番のバスに乗って Gobelins-Bert???? ってバス停で降り(ムフタールのすぐ近くです)、そこから Boulevard de Port Royal に向かって rue Pascal を30メートルほど進んだところ(向かって右側)にあります。

1997年10月2日 納豆

 納豆は京子食品で手に入りますよ。もちろんそれなりに高いですが。うちでは月に一回のおごっそうが納豆ごはんです。
 醤油はキッコーマンのオランダ工場製のものが中華街や一部スーパーで販売されていますので、とくに入手に困ることはありませんです。
 右岸とか左岸とかは、パリ市内に適用されるもんだと思うのだが。

1997年10月1日 お土産

 今回みやげに買って帰ったモノは、Quincy を 2ボトル(計 80 Frs)、各種オイルサーディンを 8巻(計 50 Frs弱)、Foie のパテ 1瓶(18 Frs)、そしてサラミ一本ってな具合です。いずれも最寄りの Champion にて。
 荷物が少なくて小スーツケースがスカスカだったので、もう着なくなった冬着を詰め込んできましたがな。合計15.5キロしかなかった。
 日本に着いて三日、これまでに買ったモノは、64MB DIMMを 1枚、中古キーボード 1台、ジャンクの Mac IIマザーボード 1枚、それにマンガを80冊ほど(笑)。今日はまんだらけ渋谷店に行ったのだけど、フランス人(とおぼしき少年たち)が4人来ておりました。


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やっぱり気楽

以前なら、10月はあたらしい学校の授業が始まる月だった。やはり中年になってからの学生生活というのは、それなりにプレッシャーがあるもので、自由職業者のほうが気楽といえば気楽である。