21世紀の日記
20世紀の日記

*この日記について

95年2月の日記は、パソコン通信NIFTY-Serveの「外国語フォーラムロマンス語派館」に書き散らしていたものを再編集したものです。ただし、タイトルは若干変更したものがありますし、オリジナルの文面から個人名を削除するなど、webサイトへの収録にあたって最低限の編集を加えてあります。
当時の電子会議室では、備忘録的に書いた事柄もあれば、質問に対する回答もあります。「問いかけ」のような語りになっている部分は、その時点での電子会議室利用者向けの「会話」であるとお考えください。


1995年2月26日 モードのこと

 巴里のひとたちって、わりと地味。ここ何年か、「巴里にはあんまり美人はいないね」という話しをよく聞くのだった。これは観光客の行動半径がおおきく影響していると思うが、間違いなくいえることは、東京の平均的な女性に比べて、もろもろの投資額は少ない。ブランド品だって持っているわけじゃないし。まあ、もともとこれは階層的な考えの産物だし。
 ただ、彼女たち、決めるときは決めまくる。たとえば2e cycleぐらいまでの学生なんて、みんな化粧っ気なし。たしかに学校に化粧してきたってしょーがねえっていうのは、納得のいくロジックです。でも、就職面接とかっていうと、やっぱとっておきのスーツを着てますね。
 だから、巴里のファッションではぜったいに一般論は通用しない。TPOによるコントラストが激しいからね。場所によっても相当違うと思う。サントノーレあたりを基準にしちゃいけない。やっぱMontaigneとかに行かないと。

1995年2月26日 お気に入りの喫茶店

 東京の cafe っていうか喫茶店だと、渋谷公園通りの City Roadが好きでした。あと、カフェバーのはしりのひとつ、原宿の Henry Africa とかね。いずれもわが70年代最後のメモリアルって感じです。当時はまだNHK駐車場にジャリがまかれておらず、フラットなアスファルトでローラースケートができた。で、スケートをはいたまま公園通りに出て、City Road で時間つぶすってパターンがおおかった。
 横浜なら「大学院」。横浜公園(スタジアム)のすぐ横で、YMCAの隣りにあります。ここは7の日はセブンスターがただでもらえたり、12日はカフェ・ロワイヤルが特別料金になったり、雨の日には別のサービスがあったり、という店でした。ここで cafe au lait をたのんだとき、chantilly のみのカップを持ってきて、あとからコーヒーとミルクを頭上高々とかかげた容器から混ぜてくれる、という芸当を見せてくれました。「『パリのアメリカ人』とおなじだ」と感動したものです。
 かつて元町にあったクレープ屋のブールミッシュも気にいってたんだけど、いつの間にかなくなってしまった。渋谷のブールミッシュはただのケーキ屋だけど、横浜元町のはガレットもある本格的なクレープ屋でした。
 巴里市内で比較的よくいくのは、地元 Brasserie de Port Royal、交差点の向こう側にある Cafe Canon des Gobelins、メトロ Pyramid駅の近くのカフェ、それと Odeonの Cafe Dantonです。有名どころは高いからほとんど行かない(笑)。

1995年2月22日 出生届

 16区の区役所はほとんど美術館みたいな建物と内装でした。そこで declarationをすませてから Acte de naissanceをもらい、翌週、大使館に届けてきました。
 その日はぼくの前にもひとり出生届を出していたんですが、なんだか名前に問題があったらしくって、窓口の担当官ともめてました。もめるといっても「悪魔ちゃん」騒動のようなものではなく、ローマ字表記についてだったみたいです。
 たとえば「フランソワ」って名前で届け出ようとしたら、日本の戸籍法でたしかローマ字表記の名前は認められないから、届け出上はもちろん「フランソワ」か「ふらんそわ」、あるいは「富蘭蘇和」みたいな当て字になります。で、パスポートに表示されるのは「Huransowa」でせす。どうやらもめてた件は、これをなんとか「Francois」にしよう、というようなことだったみたい。

1995年2月20日 ギリ飯

 ムフタール通りにはギリ飯屋がおおく、どの店も値段、メニュー、味はおなじぐらいのレベルです。違いは騒音だけでしょう。
 常設市場からコントレスカルプ広場までの間に、五軒ほどあります。その下から二軒目の「La Crete」がおきまりコースです。会社の知り合いとかも案内しているので、月に一回は行っているかも。二ヶ月間があくと、「随分久しぶりだね」と店の連中に言われるし。
 いつも選ぶメニューは、アントレが Pikilia、これはデギュスタシオンです。もしも単品で頼むなら、イカのマリネー(Calamer)がおすすめ。Platは串焼き(Brochette)ですが、いつも店の特性串焼きを頼んでます。骨付きの羊肉、骨付き豚肉、あとは通常の豚肉、羊肉に、あいだをピーマン、タマネギではさんだ構成ですね。ボリュームはトンカツ二枚分はあります。でも、Pikilia をゆっくりと味わうと、案外と食えてしまう。
 さて、ギリ飯屋といえば、皿投げ! 今回は奥のほう、演奏席近くに陣取りました。で、そろそろ踊り、というころになると、厨房のほうから投げるためのぼろい皿を数枚よこしてきました。こういうの、六本木の「ダブル・アックス」でもやってましたね。いまでも続いているのだろうか?
 踊り子さんの足下に皿を投げるのは、どういう習慣からはじまったんでしょうねえ。まさかおひねりのかわりってわけじゃないでしょうけど。

1995年2月19日 バレンタインとあるいは私

 話題にものぼらないうちに、バレンタイン・デーがすぎてしまっている(笑)。
 あたしゃチョコレートが大好物でして、2月14日は人一倍ときめく日であります。おっさんになって開き直りがでてくると、もらうのを待つのではなく、あちこちに督促してまわる(笑)。有名は警句に「壁の華となる者ほど、えてして自分から声をかけようとはしない」というのがあります。意訳すると、「バレンタインにチョコがもらいないとぼやくものは、たいてい自分から催促しないものである」となる……わけないこともない……よね(笑)。
 しかし、バレンタインデーの話題は我が家ではタブーである。おととし友人にフランスでのバレンタインの習慣をたずねたら、「ああ、恋人たちが愛を告白しあって、たしか男が指輪かなにかプレゼントするんだよね」とぬかしおった。で、これがカミさんの耳にはいってしまったのである。


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子どもの誕生

今月初旬に子どもが生まれた。カミさんの陣痛が始まったのは、ちょうど徹夜で原稿を一本書き上げ、あと一本仕上げれば今月の原稿執筆は終わり、というタイミングだった。朝の6時ぐらいだったと思う。それからタクシーを拾って病院に行ったのだけど、こちらも原稿を仕上げねばならないため、ノートと筆記用具を持ち込み、時間の合間をみつけてはメモを作ったりしていた。これがカミさんには顰蹙を買ってしまったようである。でも、お父ちゃんも稼がないといけないのだ。
病院はパリ16区にあり、うちからだとトロカデロ広場の横を通る方向となる。主治医はデュイエブ先生といって、奥さんが日本人なので日本語には堪能だ。パリで出産する日本人の多くはお世話になっているのでは。
フランスの出産では、基本的に主治医が最初から最後まで面倒を見ることになるが、臨月が近づくとお産婆さんがアドバイスも含めたサポートについてくれる。また、無痛分娩が一般的なので、出産時には主治医とお産婆さん、麻酔医の三人がひとつのチームを組む。病院にはあらかじめ予約を入れておく。産気づいたとき、カミさんはお産婆さんに連絡を入れたのだが、なんでも別の出産がようやく終わり、いましがた帰ったばかりだったそうだ。このお産婆さん、70歳近い大ベテランなのだけど、二日続けて徹夜に近い作業になるのだから、相当な重労働だろう。
誕生の直後から、いろいろな手続きを期間内に済ませなければいけない。これは男親の仕事である。我らの場合、子どもの名前はずいぶんまえから決めていたので、手続きは書類を記入して届けるだけだが、何カ所にも行かなければならない。
まずは病院で出生証明書をもらう。そして次の日、証明書を持って16区の区役所に行って届け出をおこない、公的な出生証明書と戸籍抄本に相当する書類を発行してもらう。この二つの書類を持ってこんどは日本大使館に行き、戸籍への登録とパスポートの申し込みを行うわけである。
(2006.2.24記)