21世紀の日記
20世紀の日記

*この日記について

95年8月の日記の一部は、パソコン通信NIFTY-Serveの「外国語フォーラムロマンス語派館」に書き散らしていたものを再編集したものです。ただし、タイトルは若干変更したものがありますし、オリジナルの文面から個人名を削除するなど、webサイトへの収録にあたって最低限の編集を加えてあります。
当時の電子会議室では、備忘録的に書いた事柄もあれば、質問に対する回答もあります。「問いかけ」のような語りになっている部分は、その時点での電子会議室利用者向けの「会話」であるとお考えください。


1995年8月27日 パリの異邦人

 もともと Parisien 自体が、それぞれ etranger みたいなもの。もちろん何世紀も続く家系はある。だけど祖父・祖母までさかのぼれば、25パーセントが移民というのも現実ですね。巴里で活動し、フランス語でコミュニケーションできる――おそらくこれだけが Parisien の条件でしょう。
 以前 SPA! の依頼で調べたとき、「巴里市民は KENZOを日本人だとは思っていない」という意見がおおかった。かといってフランス人でもない。じゃあなにかというと、「彼は Parisien だ」というわけ。
 人種でもない。国籍でもない。家系でもない。要するに、巴里にいて、巴里でクリエイティブな活動をし、巴里で自己主張をする。そしてそういう連中を受け入れる包容力が、巴里という街自体にあるのでしょう。おそらく New York もそうなんだろうけど。
 東京のエネルギーはすごいと思う。世界の Showcase にもなっていると思う。いまどき Tokyo の名を知らなければ、フランスでもアメリカでもあきらかに田舎者でしょう。その点、東京は日本で唯一の国際都市なのかもしれない。でもまだ包容力という点で、巴里やNYとはだいぶ違いますね。むしろ元禄江戸町民文化のほうが、包容力につながる健全な好奇心に満ちていたんじゃないか、なんて思うことがあります。
 ぼくの目から見ても、東京の女性のほうが、いろいろと「投資」しているという気がします。巴里でも5区あたりはずいぶんもっさりしたねーちゃんが多いし……なーんて言ったらおこられるかも。
 現時点で彼我に決定的な違いあるのは、40代以上じゃないかなあ。とくにオッサンの雰囲気となると、まったく違いますね。このあたりは、ほんとうは世代がふたつぐらい交代した、20年後ぐらいを想定すべきなんだろうけど、カタログ世代が中年になってどれだけ自己主張できるのか、ちと疑問ではあります。だっていまの20代前半の世代って、おれから見たって「こやつら、老けてるなぁ」なんて感じるし。
 Paris も New York も Sexy です。京都や San Francisco にもそれなりに色気を感じた。逆に最近の横浜本牧や名古屋とかは、まったく色気を感じられなかった。毒気がないっていうのかなあ。不健全じゃないとつまらんもんよね。

1995年8月28日 フランスの核武装

 フランスが核兵力による「presence」にこだわる理由は、海外領土を持つためだ、という意見が FDRに出ていました。太平洋の島は面積こそちっぽけだけど、領海を含めれば経済性はとてつもなく大きい。それを維持するコストでありデモンストレーションである、というわけです。
 たしかにフランス本土が侵略を受ける可能性は限りなくゼロに近いでしょう。しかし海外領土がそうとは限らないのは、かつてのフォークランド紛争が証明しています。このあたりの実情を考えないと、フランスのこだわりは理解しずらいでしょうね。
 もうひとつ、核がパワー・ポリティクスの根幹の原理であったことを、忘れてはいけないはず。ぼくの知る限り、グリンピースなどはそういう理論武装をきっちりしているはず。マスコミ報道だと、行動ばかりが注目されがちだけどね。彼らの核実験反対の根拠は、パワー・ポリティクスそのものの陳腐化だったように思います。
 どっちにしろ、腰の据わった抗議じゃなければ、ぼくはやらないほうがマシだと思っています。いらぬとばっちりをもたらすだけでしょう。

1995年8月27日 反抗文化の理論武装

 Paris, New York, Tokyo, Milanoといった国際都市のなかでも、Paris と New York は別格でしょうね。どちらも外国人がやってきて、そこで存分に才能を発揮するのだから。純粋にメディアとして機能しているのは、この二都市だけとはいわないまでも、まさに典型といっていいのでしょう。
 巴里でもNYでも、話題になる monument は、Parisien や New Yorker 以外の人間が創造したものだ、なんていわれますよね。ルーブルのガラスのピラミッドは中国系アメリカ人だし、マンハッタンの国際貿易センタービルも日系人だし。でも逆に言えば、巴里やNYはクリエイティブな人間を吸い寄せる磁場があるってことなのでしょう。
 滞在3年を経て、はっきりと巴里のほうが東京よりも住みやすい、と感じるようになった。いろいろな理由もあるのだろうけど、自然に巴里の空気を吸えるようになったから、だという気がする。もちろん、こっちにいても、そのまま仕事ができるというのもおおきいと思うけど。
 7月に二週間ほど日本に滞在したとき、なんか緊張感じてしまった。自然なカウンター・カルチャーがないというか。ヘソ出しやチャパツねーちゃんも、妙に身構えているって感じがして。
 これはぼくだけの考えかもしれないけど、カウンター・カルチャーには理論武装が必要ないと思う。
「気にいらねーよー」
 ってリアクションがあって、そこからすぐに行動しちゃう。こういう若気の至りが、カウンター・カルチャーじゃないか、なんて思う。だけど東京で感じたことは、反抗するにも理論武装が必要で、そのためにも行動に「意味」や「信条」を盛らないとあかん、って空気。ぼくが巴里でヘソ出しているねーちゃん見たら、単に「暑いからな」で納得しちゃうんだけどね。こういう素朴なリアクションじゃないところに、なんともいえない緊張感を覚えてしまった。


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四度目の夏

パリに引っ越してきたのが92年6月末だったので、これで四度目の夏を迎えたことになる。もしかしたら、住民として迎える最後の夏かもしれないが。
結局、革命記念日の軍事パレードをいちども見に行かなかった。でも、ポンピドーに住んでいたときには戦闘機やヘリが頭上を通過するのがわかった。そしてGobelinsに越してからも、我が家のアパートの裏側にあるアラゴ通りをパレード帰りの装甲車などが通ので、一応、車列を見ることもできた。
この装甲車が通るときの音がすさまじかった。一瞬、地鳴りかと思ったくらいである。なので、てっきり大型の戦車が通過したのかと思ったが、考えてみたら、そんなものが通ったら通りの舗装がボロボロになってしまう。
(2006.2.24記)