「月刊ネットピア」(学習研究社/発行)1994年9月号掲載
江下雅之
『自分の劣等感に気づくことなく、むしろ、それを救って欲しい願望を他に投影し、やたらと他人を救いたがる人がある。そのような行為の背後には、複雑な劣等感と優越感のからみ合いが存在しているが、他人がありがた迷惑がっていることも知らず、親切の押し売りをする。……』
これは、河合隼雄著『無意識の構造』での、救世主[メサイヤ]コンプレックスの説明の一部だ。この引用部分を一読されて、「いるいる」とお思いになる方も多いのではないだろうか。
ネットワーク上のバトル、とくにフォーラムでの論争には、登場人物の顔ぶれにひとつのパターンがあるようだ。
まずは誰かの暴言なり問題発言でバトルが始まる。暴言を吐くのは新人かもしれないし、ベテラン会員かもしれない。
バトルの勃発などは火事みたいなもので、ちょっとした状況やタイミングで、いつでもどこでも火の手があがるものだ。バトルのおきにくいフォーラムとは、それがぼや程度で鎮火するだけの防火体制なり雰囲気があるところだ。
論争が広がってくると、今度はどこからともなく(?)見知らぬ「論客」が集まってくる。
もともとフォーラムあるいはSIGは、なにかのテーマを求心力にしてグループが形成される場だ。しかし、論争が広がってくると、議論そのものが好きなひとを集めることが多い。
運営上のトラブルがきっかけで起きる論争は、この種の議論好きを招くことが多いようだ。真っ盛りのバトルを覗きに行くと、それこそネットワークの有名人たちにお目にかかることができる。
しかし、前述「いるいる」という人物は、このような「流しの論客」ではない。
論戦にもそろそろ疲れが見えたころに、この「救世主」が登場する。あるバトル・ウォッチャーは、それを「善意の問題児」と名付けた。別名、「独善的正義感に燃えたナルシスト」とも言う。
そして、「善意の問題児」が登場すると、バトルははてしない泥沼に突入しがちなのだ。
この「善意の問題児」には、いくつか共通する性格がある。
まず、ある程度熱心で地道な活動をしていた、フォーラムの常連会員であることが多い。普段は気が優しく丁寧な対応をし、どちらかといえば、言葉の細かい点にまで配慮する。良く言えば細やか、悪く言えば粘着質ともいえるだろう。
「善意の問題児」は論争の終盤と思われる状況になって現れる。
おそらく、論争の趨勢をじっと見守り、発言しようかどうか、さんざん迷うのだろう。思ったことをすぐには発言できない、気の弱さなり慎重さがあるように考えられる。
そして、バトルが沈静化に向かうころ、「善意の問題児」はようやく論戦に参加する決心を固める。登場がバトルの最後になるのは、このような心理的葛藤による登場時期のズレがあるからだと考えられる。
周囲のうんざりとした反応はともかく、本人は「救世主」としての使命に燃えている。
「荒れたフォーラムを円満な状態に戻すのは私しかいない、私こそが正邪を判断できるのだ」――このような思い入れのもと、すでに周りが忘れ去った問題さえも、再度ほじくり返そうとする。なにしろ、根本的な解決を図れるのは「私だけなのだ」。
自分の正義を信じて疑わないものだから、ほかの人の指摘が耳に入らない。周囲から見れば論理的な矛盾や飛躍でさえ、本人には精緻で完璧な論理にしか感じられないのだ。
暴言を吐く者は、無言の聴衆を意識していない、と指摘されることが多い。その点、「善意の問題児」の目には、一応、無言の聴衆はきちんと映っているようだ。
しかし、「善意の問題児」の心象風景の中で、聴衆はすべて「救世主」の礼賛者となってるのではないか。すべての聴衆はその弁舌に聞きほれ、うっとりとした視線を投げかけている――そんな世界を「善意の問題児」は勝手に作り上げているのではないか。
バトルといえば、たいていはふたつの陣営に別れて論戦が交わされることになる。お互いに、相手の非や間違いを突っつきあうのが基本パターンだろう。
しかし、「善意の問題児」にとっては、「誰も間違っていない」のだ。「みんながそのことに気づいていない」のだ。
そこで彼は、東に一方の陣営があれば教えさとし、西に対立する陣営があれば説教をとうとうとたれ、他人の批判や指摘にもめげず、静止の声もなんのその、ただひたすら慈悲深い救いの手をさしのべようとする。こうして、単純な対立構造は限りなく複雑となり、論点はますます不透明になり、バトルは先の見えない泥沼と化すのであった……。
月刊誌、学習研究社/発行
1992年創刊
月刊誌、学習研究社/発行、1992年創刊
パソコン通信関係の雑誌としては古手だが、後にリニューアルされた。
パソコン通信サービス、とりわけNIFTY-Serveが一気に会員数を増やした時期に創刊された。技術解説だけでなく、ネットワークを生活に利用するノウハウの解説にも力を入れた誌面づくりをおこなっていた。パソコン通信の初期ユーザが雑誌制作にかかわり、担当の編集者やライターもパソコン通信利用者が多かった。
1990年代後半に入ると、通信の世界もインターネットが主役となることが明白になってきた。それに伴って誌面の中心もインターネットへと移行した。