「月刊ネットピア」(学習研究社/発行)1995年2月号掲載
江下雅之
「除名」とは、集団内で行使される制裁であり、それは「規範」から「逸脱」した行為に対して課せられる。逆にいえば、「規範」があるからこそ「逸脱」があり、「除名」が起こりうるのだ。
さて、フォーラムの「規範」とはいったいなにか? この疑問点を慎重に考えないと、「除名」の原因を安易に個人へと帰着させかねない。
たしかに愉快犯的クラッカーは残念ながら存在する。彼らの行為に対しては、ほぼ万人が逸脱と判断することだろう。
しかし、そうした例以外に行使されてきた「除名」には、かなりの場合、賛否両論があったはずだ。「除名」の必然性が納得されないわけであり、それはなにより規範が曖昧なことにほかならない。
むろん、「除名」という厳しい行動が実行されるからには、個人にもなんらかの責任があるだろう。それは否定しない。
しかし、多くの「逸脱」行為は、相対的な判断によってなされる。同じ社会でも規範は歴史的に一定ではなく、さらに個人によって解釈の幅がある。ある状況が「逸脱」を作り出すという事実を、われわれは忘れるべきでない。
現在、大規模なネットワークのフォーラムは中途半端な形態にある。そして、ひとつの「社会」だという危険な錯覚がある。
たしかに人の集団が形成されている。コミュニケーションが実現している。これらは実際に「社会」形成の必要条件だ。
が、本当に「社会」という複雑な人間関係の場となるためには、「規範」が必要であり、「権威」や「役割」「地位」といったシステムが必要なのだ。
現在、多くのフォーラムは単なる寄り合い所帯にすぎない。
原則として誰もが自由に入会でき、特別な役割を持ったり、行動に規制を加えられることはない。一見すると、自由でのびのびとした理想世界だが、すべての人間に自由があるということは、常にどこかで衝突しあうことを意味する。おまけに、それを調整する規範がないに等しいのだ。
例えていえば、信号のまったくない交差点と同じだ。車の数が少なければ、一人の警官で仕切ることもできるだろう。が、交差点があちこちあって、車の台数がけた違いに増えたら、もはや事故が多発して当然なのではないか。
フォーラムには、たしかにテーマらしきものが設定されている。しかし、規範を定義づけるものではなく、単に人を集める目印として機能しているにすぎない場合が多い。
社会(厳密にはアソシエーション)として機能するためには、メンバーに明確な参加資格を求めることが必要だ。それを規定するためには、アソシエーションが何を目的とし、メンバーにどのような利益を保証するかが明らかなになっていなければならない。それによってはじめて、メンバーの従うべき規範ができ、役割がはっきりと描けるようになるのだ。
現在の「誰でも歓迎」「何でもあり」という状況では、人間関係を円滑にすることがすべてだ。和を乱すものが逸脱者であるが、その判断基準は個人によって異なるはずだ。
メンバーの役割がなければ、民主的判断をくだすのがそもそも不可能だ。よって、「逸脱」の判断は運営者の主観に委ねられるか、それはオピニオン・リーダー――単に「声のでかい者」となりがちだが――の意見に左右されることもある。当然の帰結として、運営者が一方の当事者となるトラブルでは、「除名」という権力行使がえてして「横暴」という印象をもたれがちだ。
一人のリーダーが仕切れる寄り合い所帯、せいぜいが十人程度だといわれている。規模が大きな集団では、小規模のクラスターに分割するか、フォーラムの目的、そして参加メンバーの役割などをきっちりと描くことだ。いまなすべきことは、管理目的のローカル・ルールを細分化することではないのだ。安易な管理志向に走れば、逸脱者はますます生み出されることだろう。
月刊誌、学習研究社/発行
1992年創刊
月刊誌、学習研究社/発行、1992年創刊
パソコン通信関係の雑誌としては古手だが、後にリニューアルされた。
パソコン通信サービス、とりわけNIFTY-Serveが一気に会員数を増やした時期に創刊された。技術解説だけでなく、ネットワークを生活に利用するノウハウの解説にも力を入れた誌面づくりをおこなっていた。パソコン通信の初期ユーザが雑誌制作にかかわり、担当の編集者やライターもパソコン通信利用者が多かった。
1990年代後半に入ると、通信の世界もインターネットが主役となることが明白になってきた。それに伴って誌面の中心もインターネットへと移行した。