「月刊ネットピア」(学習研究社/発行)1995年10月号掲載
江下雅之
「ネットワークの世界でも、社会とおなじ常識が通用するようにすべきだ」
「みんなでマナーは守ろう」
「不必要に他人を不愉快にさせるような発言は控えるべきだ」
こうした指摘はネットワークではたびたび主張される。もめ事がおこると、「良識的」メンバーからこういう声が起こるものだ。たしかにごもっともな内容なのだが、あまりにも声高に主張されてしまうと、いささかぞっとするものがある。
ぼくはなにも、非常識な言動を奨励するつもりはない。他人を不愉快にさせる意図を持った行為を肯定するつもりもない。しかし、常識というものが個人の背負う社会的・文化的な背景によってかなり異なること、そしてあらゆるメッセージは、誰かを不愉快にさせる可能性から逃れ得ないことを考えると、「良識派」の主張には、いくつかの疑問が生じるのだ。
「社会とおなじ常識」といっても、どの社会の常識なのだろうか。世の中にはいろいろな社会が存在し、我々はいろいろな社会に所属する。それは家庭であり、地域であり、会社であり、クラブであるかもしれない。それぞれに「常識」があるはずだ。
良識派は、社会生活を営むうえで、普遍的な常識があるはずだ、と主張するだろう。しかし、「人を殺すべきでない」という「常識」でさえ、正当防衛という殺人行為が許容されている。つまるところ、ある行為が許されるかどうかは、意図によって判断される。意図の是非を判断する段階では、それぞれの社会の「常識」に依存せざるをえない。実際に正当防衛に対する意識は、日本とアメリカとで大きく異なることが知られている。
「社会とおなじ常識が通用すべき」「マナーを守ろう」と主張するのなら、その場がどういう「社会」なのかをまずは確認しあうべきだ。でなければ、単に自分の常識を他人に押しつけることにしかならない。「不必要に他人を不愉快にさせる発言は控えるべき」とはいっても、その行為が「不必要」なのかどうかは、いつの時点で判明するのだろうか。こういう主張はフレーミング当事者でなく「善意の第三者」から発せられがちだが、一方的な断罪ではないと言い切れるのか。
ネットワークとは、年齢、職業、思想信条・主義主張にいたるまで、きわめて広範囲の人が集まった世界だ。我々は異文化交流を行っているのだ、ということを自覚する必要があるだろう。そのなかでメッセージを発するなら、たしかに常識を心がけ、マナーに則し、他人を不愉快にさせないよう、万全な注意を払った方が建設的だろう。その拠ってきたるところは、つまるところ自分の知る常識であり、マナーであり気配りだ。
これだけのことなら、ぼくの主張は「良識派」とおなじだと思われるだろう。しかしここで指摘したいことは、発信側はそれだけの配慮をしてもなお、自分の常識やマナーが通用するとは限らない、場合によっては再点検を迫られる、ということだ。
同時にまた、受け手側にも柔軟な姿勢が求められる。誰かが常識はずれな言動をした。マナーを破った。不必要に他人を不愉快にさせていると思った。ここで怒るのではなく、相手が自分と異なる常識を持つのかもしれない、マナーの発想が違うのかもしれない、特殊な意図を持った発言行為なのかもしれない――こういう可能性に思いを寄せた方が、コミュニケーションはより豊かなものになるのではないか。
つまるところ異文化交流とは、対話によっておたがいの常識を探りあうことだ。それにはかなりのエネルギーを要する。徒労感も味わうだろう。
しかし、こうしたエネルギーの「浪費」がいやなら、閉ざされた交流の世界に留まった方が幸福だ。ネットワークではいろいろな価値観の人と交流できる。これは逆にいえば、どこに誰がいるのかわからない、ということだ。楽しいかもしれないが、同時にとても恐ろしい世界でもある。
はたしてエネルギーの「浪費」は、意味のあることなのだろうか。少なくとも平板な個性に甘んじたくなければ、こうした「浪費」は不可欠なことなのだとぼくは考える。
月刊誌、学習研究社/発行
1992年創刊
月刊誌、学習研究社/発行、1992年創刊
パソコン通信関係の雑誌としては古手だが、後にリニューアルされた。
パソコン通信サービス、とりわけNIFTY-Serveが一気に会員数を増やした時期に創刊された。技術解説だけでなく、ネットワークを生活に利用するノウハウの解説にも力を入れた誌面づくりをおこなっていた。パソコン通信の初期ユーザが雑誌制作にかかわり、担当の編集者やライターもパソコン通信利用者が多かった。
1990年代後半に入ると、通信の世界もインターネットが主役となることが明白になってきた。それに伴って誌面の中心もインターネットへと移行した。