「月刊ネットピア」(学習研究社/発行)1995年6月号掲載
江下雅之
「日本の大学生は勉強しない」
ということが、われわれの周囲でごく当たり前のように指摘されている。が、当の学生にもこんな言い分があるのだ。
「企業面接なんかにいっても、大学で習うことなど実社会ではなんの役に立たない、なんていわれるじゃないですか。それならクラブ活動に励んでいたほうがマシですよ」
たしかに社会人の「先輩」たちは、「必要なことは実社会で身につければいい」というような講釈をたれがちだ。実際に日本企業の教育投資は、対売り上げ比率がほかの国と比べて高いようだ。
フランスはこの点がまったく正反対だ。
「必要な技能は学校で身につけるべし」
という社会常識が強い。フランスはいわゆる「資格社会」であり、リクルート活動の際はどの学校のどの資格を持つかを示すことで、自分の技能をPRする。失業率が日本とは比較にならないほど高いこともあって、企業は常に即戦力を求める傾向にある。教育に対しても、社会生活に必要なことは国が、個人の技能は個人が投資すべきもの、という考えがあるようだ。
では、特別な職業訓練を目的としない学校で教えていることは、どういう位置づけで考えたらいいのだろう? どういう教育がそもそも効果的といえるのだろう?
ニフティサーブの心理学フォーラムは、現役の学者が数多く活動しているのが特徴的だ。そこの「ジ・インターフェース――認知心理学」会議室で、このような問題意識に基づく議論が一ヶ月以上にもわたって進められた。
話題の中心に挙がっていたテーマは、「正統的周辺参加(LPP:Legitimate Peripheral Participation)論」という、3年前に提唱されたばかりの学習観であった。議論の途中では、日本におけるこの分野の紹介者ともいえる佐伯胖・東大教授からも、間接的な形ながら見解が寄せられていた。
もともとは、認知科学会の報告に関する話題から始まった。パネルディスカッションのなかで、パネラーのひとりが、学校でおこなう「実践的教育」、つまり、実際の状況を想定して進められる教育を、「猿に芸を仕込むようなもの」と非難したというのだ。
たとえば欧米の大学では、ディベートや面接演習などの授業がある。ここでは、論者とか面接官などもすべて学生がおこなう。あるときは新聞記者という設定をしたり、またあるときは高級官僚といった想定をおこなう。このような一種の演技を通じることで、理論的な知識の意味を捉えるとともに、実践的なテクニックを身につけよう、という主旨の学習スタイルだ。
このようなスタイルに対し、しょせんは「ごっこ遊びではないか」というような批判がおこなわれたのだという。
この会議室に発表されたいろいろな発言を読んでいると、たしかに次のような考えを抱く。
実践的教育というのは、結局はかりそめの舞台でしか通用しない真似事なのではないか。「実践を通じて学ぶ」という主張は、徒弟制度のように、実際の社会活動のなかで仕事を覚えるような場面でしか意味がないのではないか。ならば、「実践」の意義を強調することは、独立した知識の伝授および習得を目的とした学校制度とは、根本的に対立するものではないか。
佐伯教授から寄せられたメッセージによれば、LPP論を反学校教育論、脱学校論、徒弟制度賞賛に結びつけるのは、これまでも頻繁にあった典型的な「誤解」なのだという。
たしかに学校を「客観的で独立した知識を身につける場」というように考えれば、学習を「共同体の実践への参加」と位置づける LPP論は、一見すると従来の制度を否定するように解釈される可能性もあるだろう。が、佐伯教授の説明では、LPP論はあくまでも学習の方向や動機を、実践という文脈で位置づけることが主たる目的なのだという。ごく大ざっぱにいえば、「それが社会に参加するうえで、どういう意味があるのかを分析する」視点を与えることだ。
たしかに高校の数学でも統計学などはいざしらず、微分や積分、ベクトルと幾何といったようなものが、実際の社会生活のどこにつながるのかは、なかなかわかりづらい。おおくのひとは微分を知らなくても、社会生活には不自由しないだろう。となると、高校数学でこのような内容を教える意味はなにか、という素朴な疑問に至る。
もちろん、実践の世界といえどもいろいろな知識が複雑に絡み合っており、一見無関係な分野であっても、実は密接な関係にあるのかもしれない。「風が吹けば桶屋が儲かる」式の論理を展開すれば、「目玉焼きを焼くのにベクトル解析が必要である」という結論が出てこないとも限らない。
が、そこまで強弁するのは、いかにも説得力の欠けることだろう。
そう考えてみると、社会生活と学校の役割とを関連づけることを目的とする LPP論は、「なんのために?」というごく素朴な疑問に対し、回答を用意する視点といえるだろう。とはいうものの、冒頭の「学校とはどいういうところか?」に始まり、「どういう教育を実現すればいいか?」という、教育の方法論への疑問に対しては、必ずしも答えてくれるものではないのかもしれない。
最後はなんとなく議論のすれ違いの部分がわかっただけ、という気がしないでもないが、「教育」をめぐる理論的背景のアウトラインがある程度わかるストーリー展開であった。
月刊誌、学習研究社/発行
1992年創刊
月刊誌、学習研究社/発行、1992年創刊
パソコン通信関係の雑誌としては古手だが、後にリニューアルされた。
パソコン通信サービス、とりわけNIFTY-Serveが一気に会員数を増やした時期に創刊された。技術解説だけでなく、ネットワークを生活に利用するノウハウの解説にも力を入れた誌面づくりをおこなっていた。パソコン通信の初期ユーザが雑誌制作にかかわり、担当の編集者やライターもパソコン通信利用者が多かった。
1990年代後半に入ると、通信の世界もインターネットが主役となることが明白になってきた。それに伴って誌面の中心もインターネットへと移行した。