巴里の秘密[3] アンブラセ

「月刊Ellery Queen's Mystery Magazine」(光文社)
1995年11月号pp.204-205掲載
江下雅之

 ヨーロッパでは、通説通りキスは挨拶がわりだ。ぼくのような「ガイジン」でも、この美習の恩恵に浴することができる。
 残念ながら、挨拶程度の「キス」では、唇に接することはできない。「embrasser(アンブラセ)」といって、頬に頬を寄せ、「ちゅっ」と音を立てる行為がおこなわれる程度だ。それに、あくまでも挨拶であるから、相手を恣意的に選択することもできない。
 フランス人の場合、異性のあいだ、あるいは女性どうしではよくおこなわれているが、男性どうしという例はすくない。おじいちゃんと孫、という組合せぐらいだろうか。ロシア人やアラブ人では、男どうしでもおこなっているようだが。
 ただし、誕生日などなにかとくべつな「祝福」をするときは、フランス人男性でもアンブラセがおこなわれる場合もあるようだ。もちろん、夜のブローニュあたりでは、男どうしのカップルが、もっと濃厚なキスをしているものだが……。
 アンブラセはどんな美女にでも接近遭遇できるありがたい習慣だが、馴れないうちは、タイミングにとまどってしまう。ぼくはフランスに暮らして三年以上になるが、いまだに「して」いいのかどうか迷うことがある。
 お互いごく自然な感じで一メートル以内まで接近したときは、かまわないと考えている。お互い歩み寄るときに、雰囲気で合図を出し合っているのかもしれない。これがタイミングをはずすと、一方だけが頬をさしだしている不自然な姿勢で握手をする、なんてことになってしまう。
 先日、まだフランスに来て間もない知人と、フランス人夫妻の家を訪ねたことのことだった。彼らの友人が何人かいて、ぼくはごく自然に「ちゅっ」と接することができた。しかし知人のほうは握手になっていた。三年の滞在で、「するぞ!」という気迫が身についたのかもしれない。
 相手がフランス女性のときは、頬寄せるときの「姿勢」も楽だ。体格が日本女性と大差ないので。
 これがドイツ女性になると、相手の方が大柄、という例がめずしくない。平均九五Dカップという豊満なバストを揺すらせながら、上からのしかかってくる。胸を接してはいけないような気もするので、ついつい腰が引けてしまう。「奪われる」というのは、こういう感覚なのかと思ったものだった。
 一度の挨拶で交わすアンブラセの回数は、国や地方、さらに世代によってことなるようだ。
 フランスでは二回か四回だという。巴里は二回派、地方は四回派がおおいらしい。
 高校生あたりはさっさと二回すますといった風もあるが、老婦人だといつ終わるか検討もつかないほど、長々と接し続けていることもある。
 人数が集まったときは、二列にならんだ人垣が、挨拶をかわすために、まるで電車のようにすれ違っていく。
 二年前に友人の実家に遊びにいったときのこと。場所はブルターニュ地方にある小さな街だった。行く先々でこの「四回」を繰り返す。友人とその幼なじみのあつまったパーティーでは、同伴者をのぞく任意の男女の組合せで、儀式が繰り返される。
 このときは、六組のカップルが集まった。よって全員が五人とキスをすることになる。ひとり二〇回ずつ、「ちゅっ」という音を轟かせるわけだ。
 帰り際にもこれが繰り返される。だから、お開きの時間に席を立ったお客がドアを出るまでに、だいたい三〇分以上かかると考えたほうがいい。
 アンブラセの回数を、いろいろな国の友人たちと議論したことがある。
 ポーランド出身の女の子曰く、
「私の国では三回よ」
 スペイン人学生が反論した。
「カトリックの国では偶数回さ」
 これはこじつけだろう。
 実際のところ、なにが回数を決めているのだろうか?
 コミュニケーションの専門家によれば、挨拶のリズムで決まるそうだ。 「やあ! 元気?」という二拍子だと二回、もっと長々とした挨拶、たとえば「まあまあ、お元気? すっかりご無沙汰しちゃって……」なら四回。フランス語の挨拶だとおおむね二拍子か四拍子で、東欧圏には奇数拍子の挨拶があるのだろう、ということだ。
 もとよりこれも仮説のひとつであり、真実のほどは不明だ。ぼくとしては、回数よりも接触時間を重視したい。
 ところで、アンブラセをはじめるのは、どちら側の頬がおおいのだろうか?
 たまたま友人の一人、アルジェリア女性の「現場」を目撃した時のことだ。彼女はフランス女性とのときは左頬からはじめた。その直後、エジプト男性とおこなうときは右側からだった。
 彼女にその理由を聞いみた。
「とくにどっちからなんて意識してないわ。きっとたまたまね。普段は左からがおおいと思うけれど……」
 エジプト人は違う意見だった。
「僕はたいてい右からだよ」
 人によって利き頬のようなものがあって、それがことなるときは、積極性の強い者の方向からはじまるらしい。フランス女性とのアンブラセでは二人とも左が利き頬だったのだろう。そしてエジプト人のときは、彼が主導権を取ったというわけだ。
 アルジェリア美女が尋ねてきた。
「あなたはどっちからなの?」
 ぼくは彼女の瞳を見つめてこたえた。
「真ん中専門さ」


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Ellery Queen's Monthly Magazine

隔月誌、光文社/発行
1978年創刊
翻訳ミステリーの著名な雑誌だが、1999年で休刊となった。
なお、もともとEQMMは1956年に早川書房より創刊された。これは米国の《Ellery Queen`s Mystery Magazine(EQMM)》誌の日本語版である。巻頭には江戸川乱歩の翻訳による「魔の森の家」(カーター・ディクソン作)が掲載されている。この雑誌は1966年に《ハヤカワ ミステリーマガジン》と改称され、1977年にはEQMM誌との特約契約も解消された。
早川書房がEQMMとの特約を解消したすぐ後に光文社のEQMMが創刊された。創刊号の巻頭には、エラリー・クイーン自身のメッセージ(の日本語訳)が掲載されている。長らく、本国版EQMMの翻訳を独占的に担ってきたが、翻訳権交渉の更新がまとまらず、1999年に休刊となった。


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