巴里の秘密[19] アイス・コーヒー

「月刊Ellery Queen's Mystery Magazine」(光文社)
1998年11月号pp.080-081掲載
江下雅之

cafe glace

 パリに住んでからというもの、仕事などで日本に帰るとアイス・コーヒーをやたら飲みたくなってしまう。今年の夏も三週間ほど日本に滞在したが、ほとんど毎日一度は冷房の効いた喫茶店に飛び込み、アイス・コーヒーを注文した。東京は平年よりも気温はやや低めだったとはいうが、最低気温が15度前後、最高気温も25度を越えないパリと比べれば、絡みつくような暑さにうんざりしてしまう。
 アブラゼミの声も暑さに追い打ちをかけてきた。パリには蝉しぐれがない。蝉しぐれだけでなく、アイス・コーヒーもパリにはない。
 噂によると、アイス・コーヒーを出すカフェが三軒だけあるというのだが、いまだに具体的な店名を聞いたこともなければ、遭遇したこともない。フランス語で「冷やしたコーヒー」は「cafe glace」だが(glaceはマロン・グラッセの「グラッセ」と同じ)、普通のカフェでそういう注文をすれば、おそらく普通のエスプレッソと一緒に氷を持ってきてくれるだけだろう。
 アイス・コーヒーがないのは、フランスのお隣ドイツでも同じである。喫茶店のメニューには「Eis Koffee」という項目があり、読みはまさに「アイス・コーヒー」に近いのだが、これはコーヒー・フロートである。
 余談ながら、おなじドイツ語でもスイス訛りでは、eisは「イース」という音に近く、アイスといえば数字1「eins」に近い。「アイス・コーヒー」はドイツならコーヒー・フロートだが、スイスのベルン市あたりでは「コーヒーひとつ」ということになる。

the glace

 アイス・ティーならパリのカフェにもある。メニューに載っていなくても、「the glace」と注文すれば、持ってきてきてくれるところが多い。ただしこれ、日本でおなじみのアール・グレーを中心にしたブレンド紅茶ではなく、フランス国内ならスーパーでパックで売っているリプトンのピーチ・ティー(the du peche)である。
 フランス人の夏の飲み物は、ビールか炭酸水eau minerale gazeuseが多い。この炭酸水、初めて飲んだときは不味いとしか思わなかったが、ひと夏すぎるとたいていの人が病みつきになってしまう。紫外線が強くて昼の時間が長いヨーロッパの夏は、日向にいると口の中がべたついてくる。炭酸の水を飲むと、それがすっきりと解消される。
 炭酸水の代表的な銘柄はペリエ(Perrier)とバドワ(Badoit)の二つ。Perrierの方はガラスのボトル、Badoitはプラスチック容器に入っている。Badoitの方がやや炭酸が強く、味も苦みが強い。店によっては両方の銘柄を置いている。
 Perrierにはcitron(レモン)風味、citron vert(青レモン)風味という選択肢もある。それぞれの果汁を少しだけ加えており、ぼくは生Perrierよりもこちらの方が好きだが、カフェに置いてあることはない。何度かPerrier du citron vertと頼んだことはあるが、いつも生Perrierとレモンをひと切れたグラスが来るだけだった。

cafe creme

 パリのカフェといえば、カフェオレcafe au laitというイメージを持っている人も多いと思う。かつてのミュージカル映画『パリのアメリカ人』でも、カフェの主人がコーヒーの容器とミルクの容器をそれぞれの手に持って高々と掲げ、ジーン・ケリー扮する客のカップに左右から注ぐシーンがあった。しかしこんなノスタルジックな光景は、いまはどのカフェでも見られない。ぼくがそういうカフェオレに遭遇したのも、パリではなく横浜の『大学院』という老舗喫茶店で、だった。
 最近はメニューからも「cafe au lait」という言葉が消えつつある。カフェオレがなくなりつつある、ということではない。いや、厳密に言えば、正式なカフェオレはほとんどなくなっている。お目にかかれるのはホテルの朝食のときぐらいだろう。
 代わりに台頭(?)したのがcafe creme(カフェ・クレーム)である。これはエスプレッソ・コーヒーに泡立てたミルクを注ぎ込んだもの。だからカップの上は、生ビールのような細かな泡がかぶさっている。
 ギャルソンにカフェオレを注文しても、彼がカウンターの中にオーダーを通すときはカフェ・クレームになっているし、出てくるものもカフェ・クレームである。
 店のなかでは、カフェクレームは単に「クレーム」と略していわれることが多い。だから略して注文する人もいる。カフェクレームが一つなら「Un creme」というわけだ。
 ところがこれ、文法的には非常に違和感のある形式なのである。cremeには形容詞と名詞の両方の用例があるが、名詞としては女性名詞であり、冠詞を付けるなら女性形uneの方になる。しかし、「Une creme」と注文したら、ギャルソンはいぶかりながらも泡立てたミルクを持ってくるだろう。普通の牛乳が飲みたければ「Un lait」だ。
「Un creme」というときは、もちろん男性名詞であるcafeを略しているから、冠詞も男性形unを使う。十年、二十年もすれば、辞書のなかに男性名詞としてのcremeという語が登録されるのだろうか。
 最近は日本人観光客の多いオペラ座通りのカフェは、メニューをフランス語、英語だけでなく日本語でも表示するところが増えてきた。cafe cremeの欄には、「カフェオレ」という訳語が付いている。


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Ellery Queen's Monthly Magazine

隔月誌、光文社/発行
1978年創刊
翻訳ミステリーの著名な雑誌だが、1999年で休刊となった。
なお、もともとEQMMは1956年に早川書房より創刊された。これは米国の《Ellery Queen`s Mystery Magazine(EQMM)》誌の日本語版である。巻頭には江戸川乱歩の翻訳による「魔の森の家」(カーター・ディクソン作)が掲載されている。この雑誌は1966年に《ハヤカワ ミステリーマガジン》と改称され、1977年にはEQMM誌との特約契約も解消された。
早川書房がEQMMとの特約を解消したすぐ後に光文社のEQMMが創刊された。創刊号の巻頭には、エラリー・クイーン自身のメッセージ(の日本語訳)が掲載されている。長らく、本国版EQMMの翻訳を独占的に担ってきたが、翻訳権交渉の更新がまとまらず、1999年に休刊となった。


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