巴里の秘密[5] 血文字

「月刊Ellery Queen's Mystery Magazine」(光文社)
1996年5月号pp.212-213掲載
江下雅之

『アガサ・クリスティの小説のようだ』
 という見出しが、フランスのオピニオン誌 Le Nouvel Obserbateur の94年1月20-26日号に踊った。
 男は金がほしかった。女は拒んだ。そして男は女を殺した――同誌の特集記事でとりあげられた『マーシャル夫人殺害事件』のあらましを、捜査にあたった刑事のひとりはこう要約している。
 しかし、被害者がみずからの血で書き記したとされる犯人名には、上流階級夫人には不自然な初歩的文法ミスがあった。犯行現場の入り口は、内側からバリケードでふさがれていた。容疑者は犯行を終始否認したままだった。動機は金目当てとされたが、二千フランの現金が盗まれただけで、貴金属や宝石にはまったく手がつけられていなかった。
 これらの謎が完全には解明されないまま、容疑者には懲役十八年という判決が下された。が、その後続々と登場するあらたな証言は、事件が警察当局の見込み捜査にもとづく冤罪の疑いを深めたのだった。
 91年6月24日、カンヌ警察はジスレーヌ・マーシャル夫人の友人から、前夜よりまったく連絡がとれないという通報を受けた。
 刑事がムーガン村にある夫人の山荘を訪れたところ、家の中に夫人の姿は見あたらなかった。
 地下に降りてみると、入り口には鍵がかかってたうえ、中からベッドでおさえられていた。なんとか扉をこじあけた刑事たちは、ワイン庫の入り口に、血で書かれたメッセージを発見した。 「OMAR M'A TUER」(オマールが私を殺すた)
 数メートル先のボイラー室入り口にも、「OMAR M'T」という書き込みがあった。
 夫人の死体はボイラー室の床上に横たわっていた。全身を刃物のようなものでめった刺しにされた状態であった。
 すぐにマーシャル夫人宅に出入りしていたモロッコ人の庭師、オマール・ラダッドが逮捕された。血のメッセージが決定的な証拠となったのだ。
 ラダッドは犯行を初めから否認した。そして弁護団は判決後も、当局の恣意的な捜査を批判した。
 まず第一に、犯行日時の認定が不確かだという。当局は検視結果から殺害は6月23日であり、夫人が11時45分に電話を受け、午後2時には出なかったころから、この間に犯行がおこなわれたものと断定した。
 しかし、死体発見後の検死では、死亡推定時刻は確定されていなかった。死体はただちに火葬されたために再調査はできなかったが、事件数ヶ月後、検死関係の書類を専門家が綿密に検討した結果は、「24日に死亡」というものだった。その日ラダッドは、義父母宅にいた。
 血のメッセージは筆跡鑑定で夫人のものと認定された。しかし、弁護側は文字の幅が夫人の指の太さと照合されていない点を指摘している。そして、夫人のような教養ある貴婦人が、「OMAR M'A TUER」「OMAR M'T」などといった初歩的な文法間違いを犯すはずがないと主張した(「OMAR M'A TUEE」が正確な綴り)。
 検察は「死に瀕した者は文法どころではない」と反論した。
 入り口をふさいでいたベッドは誰が運んだのか? 誰が鍵をかけたのか? 検察は地面に残った血の痕から、次のように推理した。
 犯人は夫人を殺したと考え地下室を出て、扉に鍵をかけた。しかし夫人はまだ生きており、ワイン庫まで移動し、犯人の名前を書き記した。次いで犯人が地下室に戻ってこれないように、折り畳み式ベッドを入り口に運んだ。そしてボイラー室入り口に再度メッセージを書こうとしたところで力つき、最後は室内に倒れ込んだ。……。
 しかし現場検証の記録に、夫人がみずからベッドを移動させたとは書かれていない。
 弁護士団は捜査当局が最初から他の容疑の可能性を無視したことに疑問を投げかけている。その一人ジェラール・ボドゥー弁護士は、仕事仲間から「マーシャル夫人は『別のオマール』を知っていた」という話を聞いた。出所は夫人の友人の一人である。
 ボドゥー氏はベルナール・ナランジョ氏に調査を依頼した。私立探偵のナランジョ氏は、判決後も独自にこの事件の調査を進めていたのだ。そして間もなくひとつの事実を発見したのである。
 夫人殺害の数日後、ムーガン警察分署のイバスチェンコ署長は、パリ警視庁職員ジャン=クロード・カルベ氏からの電話を受けた。カルベ氏はマーシャル夫人が殺害される直前、カンヌのとあるカジノの前で、夫人が『別のオマール』と一緒にいるところを見た、というのだ。イバスチェンコ氏はこの情報をただちに捜査当局に伝えた。 『別のオマール』は見つかった。24歳のユーゴ系学生で、事件のあったムーガンから20キロ先に住んでいた。彼はマーシャル夫人とは一度も面識はないと主張しており、彼の弁護士は実名を報じた新聞社を告訴している。
 ボドゥー氏も彼が犯人だとは言っていない。問題は、なぜ捜査当局がこのような重大な容疑を無視したか、ということだ。
 最近になって、またあらたな証言が出てきた。ニュージーランド人パトリシア・クラーク氏が、事件当日に不審な小型トラックが自宅の前を走り去っていくところを目撃した。車には血痕の残るボロ布やドライバーが積んであったというのだ。
 これが真実かどうかはわからない。証言が事件から4年も経過してから出てきたことに対する疑問も出ている。クラーク氏は裁判中フランス国外にいたと主張しているが。
 その後法務省は以上の件について調査を命じている。


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Ellery Queen's Monthly Magazine

隔月誌、光文社/発行
1978年創刊
翻訳ミステリーの著名な雑誌だが、1999年で休刊となった。
なお、もともとEQMMは1956年に早川書房より創刊された。これは米国の《Ellery Queen`s Mystery Magazine(EQMM)》誌の日本語版である。巻頭には江戸川乱歩の翻訳による「魔の森の家」(カーター・ディクソン作)が掲載されている。この雑誌は1966年に《ハヤカワ ミステリーマガジン》と改称され、1977年にはEQMM誌との特約契約も解消された。
早川書房がEQMMとの特約を解消したすぐ後に光文社のEQMMが創刊された。創刊号の巻頭には、エラリー・クイーン自身のメッセージ(の日本語訳)が掲載されている。長らく、本国版EQMMの翻訳を独占的に担ってきたが、翻訳権交渉の更新がまとまらず、1999年に休刊となった。


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