「月刊Ellery Queen's Mystery Magazine」(光文社)
1998年1月号pp.214-215掲載
江下雅之
フランスの10〜12月は日本でいえば新入学シーズンなのだが、この時期には学生たちによる三つの恒例「行事」がある。古本売り、いじめ、そしてデモだ。
最初の古本売りだが、たとえばサン・ミッシェル広場。この界隈は東京でいえば御茶ノ水のようなところで、学生向けの書店が多い。渋谷ハチ公前広場の半分ぐらいのスペースに、9月後半になると学生たちがひしめきあう。特別な集会ではない。学校のテキストを売る先輩と、それを買おうとする新入生たちの集団なのだ。
この近辺の大書店は新刊書だけでなく古書も扱っている。9月後半になると使い終わったテキストや参考文献を学生たちが売りに来る。書店に本を買いに行った客が店員からいきなり「本を売りに来たのですか(Vendez vos livres?)」と聞かれる時期でもある。
経済観念の発達したフランスの学生たちは、いらなくなった本をこうした書店でマメに処分する。新入生も安い古書を探す。さらに経済観念の発達した学生たちは書店に売るのではなく、書店の前に立って古書を買いに来た新入生に直接売ろうとする。サン・ミッシェル広場の光景は「売り」「買い」の学生たちの集団なのである。
10月の半ばごろになると、パリの繁華街やメトロの大きな駅などで、青いポリ袋をすっぽりとかぶり、顔にはペイントをほどこした男女が、トイレットペーパーの切れ端を売っている。いずれも大学や高等専門学校の新入生たちだ。彼らは上級生から一定の売上ノルマを課せられている。
集団はそのうち噴水に飛び込んだり、エスカレーターを逆走したり、あるいは教会の前で横一列に並んで腕立て伏せをする。これらは一般に「bizutage(ビジュタージュ)」といわれる新入生歓迎の儀式であり、大学生として認められるための通過儀礼になっている。
ところがこのビジュタージュ、年々エスカレートする一方だ。そのせいで精神状態がおかしくなったり、極端な場合、自殺までする新入生が出てきた。伝統ある学校ほど伝統あるハデな儀式がおこなわれる。古参の在仏日本人に言わせれば日本の旧制高校のストームのようなもの、ということなのだが、去る9月5日、極端なビジュタージュを防止する条項も含めた法案が閣議決定された。違反者には六カ月の禁固と五万フランの罰金が科されるという。ボランティアによる無料いじめ相談サービスも始まった。
先にあげた例は相当おとなしい部類で、なかには男女一組を素っ裸にして簀巻きにして一晩教会の前に放置したり、あるいは女子大生にしこたまワインを飲ませて闇フェラチオ(要するに男のモノをしゃぶらせて、それが誰のモノだかを当てさせる)のようなことまでさせた例もあったという。シラフでは出来ないような体験を共有することで一体感を持とう、という趣旨なのである。
こうした行き過ぎに対しては何年も前から批判的な意見がある。それでもパリだけでなく大学のある街では、新入学シーズンになると様々な狂態が演じられていた。もっとも、さすがに閣議決定が効いたのかどうか、今年(97年)は狂乱も控え気味のようであるが。
フランスの高校生たちは夏休み前にバカロレアという全国共通の大学入学資格試験を受け、それに合格すれば基本的にどの大学も自由に入学できる。全員入学とはいっても、実際は学部によっても大学によっても人気の濃淡はある。ところが学生の集中する大学では、深刻な設備難におちいっている。新入学シーズンの恒例行事パート3は新入生のデモ行進だ。抗議のお題目は「授業には教室を!」「もっとまともな設備を!」だ。
実際、パリにある大学はとくにひどい。文学部のあるパリ第4大学(ソルボンヌ大学)では床がボロボロで土が露出し、窓ガラスも粉々という教室がいくつもある。いや、そんな教室でも確保できればまだましだ。新入生が多いといっても卒業するのはほんの一部なので、学期始めの段階では、教室のキャパシティは学生数よりも相当少ない。席に座れないことはザラだし、教師間の教室取り合戦も熾烈である。ダブルブッキングされた教室の前で、どちらが優先権を持っているかを興奮しながら議論する教師たちも出てくる。廊下で授業というケースもある。そして誰の仕業かわからないが、どの大学でもなぜかトイレの便座カバーはほとんどもぎ取られたままだ。「大」のときは中腰スタイルである。
これでは新入学生も怒る。彼らは泣き寝入りなどせず、悲惨な環境の改善をデモで訴える。が、政府には潤沢な予算がない。かくてデモは毎年繰り返される。
ところでフランスには大学とはべつにグランゼコールという高等教育システムがある。もともとはナポレオンが設立した理工学校から始まった制度で、ここの在校生たちは、7月14日の革命記念日(いわゆるパリ祭)の軍事パレードでは行列の先頭を行進する特権を持っている。現在では大小200のグランゼコールがあり、ポンピドー政権以降の歴代大統領・歴代首相のほとんどは、国立行政学院(ENA)というグランゼコール出身だ。
新入学生の数が限定されているグランゼコールは、大学にくらべてはるかに設備に恵まれている。学生一人あたりの教官数も大学よりも多い。卒業生の就職の条件も初任給もこちらの方が上だ(夏の恒例行事の一つが出身校別の年収ランキング付けである)。
だからエリートは大学ではなくグランゼコールを目指す。小説のなかに「ソルボンヌ出身のエリート」という人物が登場することもあるけれども、これは間違いだ。ソルボンヌ出身なら、ごく普通のサラリーマンか学者になるはずである。
注:写真はサン・ミッシェル広場で本の売買を行っている学生たちの姿
隔月誌、光文社/発行
1978年創刊
翻訳ミステリーの著名な雑誌だが、1999年で休刊となった。
なお、もともとEQMMは1956年に早川書房より創刊された。これは米国の《Ellery Queen`s Mystery Magazine(EQMM)》誌の日本語版である。巻頭には江戸川乱歩の翻訳による「魔の森の家」(カーター・ディクソン作)が掲載されている。この雑誌は1966年に《ハヤカワ ミステリーマガジン》と改称され、1977年にはEQMM誌との特約契約も解消された。
早川書房がEQMMとの特約を解消したすぐ後に光文社のEQMMが創刊された。創刊号の巻頭には、エラリー・クイーン自身のメッセージ(の日本語訳)が掲載されている。長らく、本国版EQMMの翻訳を独占的に担ってきたが、翻訳権交渉の更新がまとまらず、1999年に休刊となった。