「月刊Ellery Queen's Mystery Magazine」(光文社)
1999年3月号pp.072-073掲載
江下雅之
昨年(九八年)夏のある金曜の夜、俄雨が降るような音が聞こえてきた。が、時折笛の音や喚声が入り交じっている。何事かと思ったら、我が家の前の大通りを何千人ものローラースケーターが埋め尽くしたいた。パリでもここ二年ほど、ローラーブレードが人気だとは聞いていたが、夜中に何千人も参加するようなイベントまであるとは思わなかった。その日の一団は、最後尾が通過するまで十分以上はかかっただろう。
このイベントの詳細は、隔週発行の日本語情報誌OVNIに一一月ごろ紹介されていた。主催するグループは「Pari-Roller」、参加は無料、詳細はこちらの電話番号で……ということで、グループ代表者の電話番号が載っていた。
年末年始の一時帰国のときは、倉庫に長らくしまってあったローラースケートを取り出した。十年以上も放置していたのでベアリング部分に錆まで出ていたが、グリースをさせばなんとか使えるだろうと思い、パリに持ちかえったのが今年の一月末のことだった。その一週間後、手帳に控えておいた番号に電話をしてみたところ、留守番電話のメッセージが集合場所と時間、詳細情報が掲載されているインターネットのホームページのアドレスを伝えていた。
こんどはそのアドレスを控え、電話を一度切ってからさっそくネットワークにアクセスした。“La Friday Night Fever”という副題の付いたそのページには、参加にあたっての注意、プレスリリース、次のルートの紹介などが掲載されていた。そのルート、パリ左岸(セーヌ川の南側)をほぼ一周する。思ったよりも距離が長い。集合は午後一〇時、途中に休憩を挟み、午前一時にイタリー広場へと戻るというスケジュールだった。
ローラースケートはさんざんやったスポーツだが、十年以上もブランクがあっては、ぶっつけ本番はさすがに怖い。初挑戦は二月一九日と決めたが、その前の週に近くの公園で足慣らしをすることにした。公園に向かう途中、ローラーブレードを履いたカップルやグループが何組も通り過ぎていった。出不精なのでとんと気づかなかったが、アメリカ西海岸ならずとも、スケートはジョギング以上に定着していることを思い知らされた。
公園のアスファルト部分にも、すでに子どもたちを中心に何十人もスケートを楽しんでいた。こちらは十数年ぶりのローラースケート。それでも小学生のときから滑っていた感覚は、ブランクがあってもすぐに戻ってきた。あとは夜中に三時間滑り切るだけの体力が残っているかどうか。不安はあったけれど、パリ市内の車道を堂々と滑れる魅力は大きかったし、参加すればそれで原稿を一本書けるだろうという誘惑にも駆られた。
そして二月一九日。この日は昼から霧雨だった。雨天でも決行するかどうかは不明だったので、とりあえず夜十時に集合場所のイタリー広場まで、スケート靴を持って歩いていった。我が家から広場までは徒歩十五分程度だ。
広場には、参加者がざっと眺めて二百人程度いた。雨は降り止んだが路面は湿っている。各人それぞれに足慣らししながらスタートを待っていたが、十時半ごろ、主宰者からこの日の巡回は中止という発表があった。
一週間後の二月二六日、コースにはシャンゼリゼ通りが含まれている。予報では午後から雨とされていた天気も、なんとかもってくれた。
十時一五分ごろ、主宰者からの注意と連絡の後に警察が交通を遮断し、スケートの滑走が始まった。参加者はざっと眺めたところ五百人ほど。イタリー広場を出てからは中華街の周囲を一周する。車道の凹凸が予想以上にひどく、スケートが滑ってくれない。ペースも早かった。足慣らしのとき初心者が多いように見えたので、のんびり滑っていれば大丈夫だろうと思ったが、いきなりアテがはずれた。やがて最初の長い上り坂。ここで一気に息があがった。初心者の女の子たちにはエスコートが付いている。こちら自力の中年オヤジは、どんどん追い越されるのみ。坂を上りきったところで小休止があったが、すでに足の踏ん張りがきかない。時計をみたら、まだ四〇分経過したばかりだった。
その先は下りが続いたが、パリの街並みを見ながら滑走を楽しむ……なんて甘い考えはとうに捨てた。道のでこぼこは相変わらずで、バランスを保つのに苦労する。歩道なら滑らかなアスファルト舗装だが、パリの歩道といえば犬の糞があちこちに転がっている。夜に滑る気はしない。そうこうしているうちに夜一一時を過ぎ、いつのまにかやたら人出の多いところに抜けた。ふと横を見るとモンパルナス・タワー。映画を見終わった人たちが、スケーターの集団をおもしろそうに眺めている。
その頃になって、持参した水を飲み尽くしてしまった。売店で買えたはいいが、道草のおかげで集団の最後尾になってしまった。すぐ横でスタッフが「急げ! 急げ!」と煽る。激励なんかしてくれない。いきなり完走は無理にしても、せめてシャンゼリゼまでは行きたい。しかし、セーヌ河畔の道に出たところの小休止では、踏ん張りがきかずに尻餅をついてしまった。おまけに足に力が入らず、なかなか立ち上がれない。ここで止めておこうと思う間もなく、グループはコースの先へと進んでいた。
下りが続くところだったので、すぐに追いかければ間にあっただろうが、折り返し地点のトロカデロにあるエッフェル塔は、まだ彼方にしか見えなかった。ここからならメトロの駅も近い。道にぺたりとすわり込み、ナップサックにしまった靴を取りだした。
図版:シャンゼリゼを滑走するPari-Rollerの大集団
隔月誌、光文社/発行
1978年創刊
翻訳ミステリーの著名な雑誌だが、1999年で休刊となった。
なお、もともとEQMMは1956年に早川書房より創刊された。これは米国の《Ellery Queen`s Mystery Magazine(EQMM)》誌の日本語版である。巻頭には江戸川乱歩の翻訳による「魔の森の家」(カーター・ディクソン作)が掲載されている。この雑誌は1966年に《ハヤカワ ミステリーマガジン》と改称され、1977年にはEQMM誌との特約契約も解消された。
早川書房がEQMMとの特約を解消したすぐ後に光文社のEQMMが創刊された。創刊号の巻頭には、エラリー・クイーン自身のメッセージ(の日本語訳)が掲載されている。長らく、本国版EQMMの翻訳を独占的に担ってきたが、翻訳権交渉の更新がまとまらず、1999年に休刊となった。