「月刊Ellery Queen's Mystery Magazine」(光文社)
1997年5月号pp.216-217掲載
江下雅之
一九九七年二月二二日、パリ中央部の大通りには、国家治安警察(CRS)の機動隊員があちこちを警備していた。パリで最も古い橋ポン・ヌフ(直訳すれば「新橋」)は、一車線がまるまる装甲車で占められていた。
この日、国会審議中の移民管理法案に対する大規模が抗議デモが実行された。
国会で審議中の移民管理法案では、外国人が退去したときに、そのことを市長に届け出るよう、義務づけている。法案が成立すれば、外国人滞在者に対する住民の監視が促され、プライバシーの侵害へとつながりかねない。二月一一日には映画監督五九人が「このような非人道的な法律には従うまい」と宣言している。翌日には有力紙のル・モンドおよびリベラシオンがそれを伝えた。また、作家、ジャーナリストたち約四千人も同様なアピールを示した。
抗議行動のきっかけになったのは、二月四日、パリ北部の工業都市リールの軽罪裁判所で出たひとつの判決である。この日、ジャクリーヌ・デルトンブ夫人は、不法滞在をしていたザイール人の友人を宿泊させたことで、有罪を宣告された。一九四五年に布告された、不法滞在外国人の出入国・宿泊の幇助を禁ずる法令にもとづく判断である。
しかし、これは密入国や闇労働を対象としたものであり、個人が友人を泊める行為を禁ずる目的のものではなかった。この判決が不合理であると抗議する映画監督たちは、自分たちも不法滞在の外国人を泊めたとし、「我らも審理し、おなじような判決を出せ」というアピールを出している。
新移民法案は現内務大臣の名前を取って「ドブレ(Debre)法」と呼ばれる。移民を管理する内務省は、ここ数年、かなり厳しい移民政策を展開している。九三年には時のパスクワ内務大臣が外国人の滞在を事実上制限するような措置を取った。このときの法律は一般に「パスクワ(Pasqua)法」と呼ばれるが、別名、「移民排斥法」ともいわれた。今回のドブレ法はそれをさらに(外国人にとって)厳しい内容にしたものである。
ミッテラン社会党政権時代は比較的寛大な移民政策が取られていた。しかし、政権末期には議会の多数派を保守・中道勢力が占め、保守党のバラデュール内閣になってからは、タカ派のパスクワ氏が移民に対する締め付けを強化しはじめた。
合法的な滞在をしている外国人に内務大臣の評判がいいはずはない。ギリシャ料理店やアラブ料理店に行けば、パスクワ氏の悪口だけで会話が三〇分はもつくらいだ。
外国人がフランスで長期滞在をするには、本国のフランス大使館でビザを発給してもらったうえに、フランスで滞在許可をえなければいけない。ビザは外務省、滞在許可は居住地の警察本部の所轄なので、ビザが発給されても滞在許可が下りる保障はない。そしてこの滞在許可の基準が毎年のように厳しくなっている。
留学ならまだ比較的容易だ。しかし、パスクワ法施行以来、学生が得られるのは最長一年の仮滞在許可であり、複数年留学する者は、毎年更新をしなくてはいけない。
正規の滞在許可をえるには、報酬活動の許可されたビザが必要だ。しかし、失業率が高止まりしているフランスでは、企業の駐在員や特殊な専門職以外ではまず取得できる望みはない。そして滞在許可を得るには、社会保障の加入が義務づけられている。フランスではあらゆる報酬活動の申告に社会保障番号が必要であり、これがないと、いわゆるもぐりの仕事しかできなくなる。
実際のところ、不法就労はけっして少なくない。地域によってはまったくの善意から、そうした就労をサポートする人がいる。そのなかの一人がいうには、不法就労の摘発はタレコミがもとになることが多いため、料理店の厨房仕事、ベビーシッターなどの個人間の仕事に限定されてしまうという。
フランスはヨーロッパのなかでも移民が多い国である。アトランタ五輪で活躍したフランス人選手を思い出せば明らかだろう。女子陸上の短距離の女王マリー=ジョゼ・ペレックはアフリカ系だ。柔道で古賀を破った選手はアラブ系移民である。
職種によっては「移民の仕事」というものもある。アパルトマンの管理人はだいたいポルトガル系だ(注:九三年以降、EU内では人の移動が自由になった)。市場[マルシェ]や街中の食料品店はだいたいチュニジア人、モロッコ人の経営である。いわゆる3K仕事になると、中央アフリカ系の移民が従事していることが多い。
それほど移民が定着しているフランスでも、一二パーセントという失業率のため、移民に対する国民の態度も変化している。「移民が職を奪う」という考えは根強い。
九五年の大統領選挙では、極右政党・国民戦線(FN)のルペン候補が予想以上の票を集め、高らかと勝利宣言をした。マリニャンヌ市、オランジュ市、ツーロン市ではFNの候補者が市長に当選した。彼らはいずれも失業、そして移民問題を訴えて支持を集めた。
二月二四日、リヨン市ではドブレ法に反対して二万人を越す市民がデモに参加した。その二週間前には、ヴィトロール市で四番目の極右政党の市長が誕生している。フランス人の本音はいま、迷走状態に入っている。
(図版:ドブレ法反対のアピールを掲げるインターネットのホームページ群)
隔月誌、光文社/発行
1978年創刊
翻訳ミステリーの著名な雑誌だが、1999年で休刊となった。
なお、もともとEQMMは1956年に早川書房より創刊された。これは米国の《Ellery Queen`s Mystery Magazine(EQMM)》誌の日本語版である。巻頭には江戸川乱歩の翻訳による「魔の森の家」(カーター・ディクソン作)が掲載されている。この雑誌は1966年に《ハヤカワ ミステリーマガジン》と改称され、1977年にはEQMM誌との特約契約も解消された。
早川書房がEQMMとの特約を解消したすぐ後に光文社のEQMMが創刊された。創刊号の巻頭には、エラリー・クイーン自身のメッセージ(の日本語訳)が掲載されている。長らく、本国版EQMMの翻訳を独占的に担ってきたが、翻訳権交渉の更新がまとまらず、1999年に休刊となった。