Degustation gratuite ![11]「欧」と「米」の民主主義
――インターネット論議の背景から考える

「月刊Online Today Japan」(ニフティ発行)1995年1月号掲載
江下雅之

フランスのインターネット論議

 このところ、フランスでもマルチメディア&インターネット論がブームになっている。マスメディアがしきりとこの話題を取り上げるようになった。つい先日も、国営放送 France 3 の討論番組「Marche du Siecle」で大々的に扱われたばかりだ。
 論調にはひとつのパターンがある。
 エンジニアや工学系の研究者が、まずは技術的な可能性とその魅力を熱弁する。「Marche du Siecle」でも、国立科学研究所(CNRS)から二人の専門家が招かれていた。番組のなかで、インターネットによるビデオ画像や、CD-Iを用いた教育ソフトのデモを披露していたが、日本でも似たようなデモは、いろいろなところでおこなわれているだろう。
 このような楽観論・バラ色未来論に対し、ジャーナリストや社会学者が批判的な意見をぶつける。
 フランスの言論人は高尚な哲学的論議が好きだ。この日も出演者たちも、個人の行動や社会に及ぼす影響を懸念する意見を表明していた。
 日本ではマルチメディアにしてもインターネットにしても、その市場性が話題の中心になりがちだ。
 ヨーロッパも景気が停滞続きである。あたらしいテクノリジーに対して、経済活性化への期待が大きいのも事実だ。
 しかし、かならず「情報の流通と民主主義」という点が注目されている。このあたりの論点は、日本ではあまり取り上げられていないように思われる。

パソコンとアメリカ民主主義

 アメリカで情報スーパーハイウェイやマルチメディアが取り上げられる背景には、「個人が情報を発信する」「個人が社会を動かす」という精神が貫かれているようだ。80年代に盛んになったネットワーキングという運動は、まさにその典型といえるだろう。そして、たしかにパソコンという道具は、個人の情報処理能力を高める。ネットワークによって、発信機能が増幅される。
 その点、受信能力に力点が置かれているようだ。十年前のニューメディア論議でも、まさしく「さまざまな情報が得られる」ことばかり騒がれていた。ネットワークの宣伝文句にしても、たいがいは「情報がえられる」ではないか?
 たしかに、日本社会では学校教育の内容を見ても、社会に対する情報の発信という視点が乏しいように思われる。善し悪しは別にして、このような行為は個人の商売道具と捉えられているようだ。

ひとくくりにできない「欧米」

 ヨーロッパ社会では、フランスに限らずコミュニケーション教育が重視されている。ただし、ここでいうコミュニケーションとは、「対話」という双方向のやりとりではない。「知らしめる」「説得する」という、発信側の視点が中心なのだ。
 コミュニケーションに対するこのような考え方は、たしかに「欧米」で共通しているようだ。しかし、その対象をアメリカとフランスとで比較すると、かなりはっきりした違いがある。
 フランスは典型的な階級社会・エリート支配社会である。ある面では日本も及ばないほどの学歴社会だ。よって、「知らしめ」「説得する」のはエリートであり、個人の発信能力拡大は、エリート支配構造の強化と捉えられやすい。France 3 の特集でも、この点がしきりと強調されていた。
「誰にもチャンスがある」を信奉するアメリカ社会とは、このあたりの捉え方がかなり違う。日本では「欧米」とひとくくりにしがちだが、少なくともフランスでは「アングロ・サクソンと大陸は違う」という意識が強い。マルチメディアやインターネットをめぐる論議でも、このあたりの違いがはっきりとあらわれている。


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Online Today Japan

月刊誌、ニフティ/発行、1987年創刊

ニフティ社の広報誌として創刊されたが、後に数回リニューアルを行い、この誌名の雑誌は現在存在しない。
有料の月刊誌であったが、NIFTY-Serve会員には無料で送付されていたので、ピーク時の発行部数は100万部を越えていたはず。ページ数は少なかったが、すがやみつる、武井一巳といった、この分野の先駆者による連載が創刊当初から掲載されており、記事はかなり充実していた。
その後、全会員への発送をやめて部数が落ち、リニューアルによってNIFTY-Serveのナビゲーション誌への転身をはかった。また、通信ネットワークの主役がパソコン通信からインターネットへ移行したのにともない、さらにインターネットを中心とした誌面に衣替えしている。


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